僕にとって君は症候群

αβーアルファベーター

おかしな病

◇◆◇


プロローグ


それは、恋と呼ぶにはあまりに一方的で、

愛と呼ぶにはあまりに無機質だった。


だが――

それでも確かに、

彼らは「救われた顔」をしていた。


精神医療センター第七病棟。

重い防音扉と、

消毒液の匂いに満ちた隔離区画。


ここでは、診断名のつかない奇妙な症例が、

まるで感染症のように増殖していった。


患者たちは、必ず同じ導入句を口にする。


「僕にとって、君は――」


その先の言葉は、決して一致しない。

しかし、語るときの目の輝きだけは、

異様なほど共通していた。



◇◆◇


症例一:マネキン


最初の患者は、マネキンに恋をした。


百貨店の婦人服売り場から盗まれた、

白く、冷たく、

完璧な比率の等身大マネキン。


警備員の証言によれば、

彼はそれを「連れ帰る」際、

何度も「寒くない?」と声をかけていたという。


病棟では、

面会室の椅子にマネキンを座らせ、

彼は毎日、同じ時間に現れた。


一時間。

二時間。

ただ、語り続ける。


「今日はね、君のことを考えて仕事を頑張ったんだ」

「誰も僕を見てくれなかったけど、君は違う」

「黙って聞いてくれるところが、本当に好きだ」


マネキンは当然、何も返さない。

それでも彼は、

返事を聞いたかのように相槌を打つ。


ある日、看護師が清掃のため、

マネキンを倉庫に戻そうとした。


その瞬間、

彼の態度は豹変した。


「触らないでくれ!」

「乱暴に扱うな!」

「彼女は……彼女は、ちゃんとここにいる!」


彼はマネキンの前に立ち、

まるで庇うように両腕を広げた。


その目は、妄想ではなく、

確信の光を宿していた。


後日、彼はこう言った。


「君が片付けられそうになった時、

すごく怖い顔をしてたよ」



◇◆◇


症例二:テレビ


二人目は、テレビに恋をした。


深夜、放送が終了し、

砂嵐だけを映す古いブラウン管。


彼女は、画面の前に座り続けた。

椅子を用意しても、

床から動こうとしなかった。


「今、瞬きしたでしょ?」

「私だけに合図してくれたんだよね」


電源を切っても、意味はなかった。

黒い画面に映る自分の顔を、

彼女は“相手の表情”として解釈した。


「今日はちょっと曇ってる」

「でも、その顔も好き」

「私が笑うと、あなたも笑う」


医師が慎重に言葉を選び、告げる。


「そのテレビは、人ではありません」


彼女は首を傾げ、

心底不思議そうな顔をした。


「……先生」

「人じゃないかなんて、そんなに大事ですか?」


彼女は、画面を撫でながら続けた。


「この人は、私を見てくれる」

「嫌なことを言わない」

「私を試したり、裏切ったりしない」


その夜、

ブラウン管の内側から、

微かなノイズ音が記録された。


まるで、呼吸のような音だった。



◇◆◇


症例の拡大


症例は、雪崩のように増えていった。


鏡に語りかける少年。

田畑に立つ案山子を恋人と呼ぶ老人。

終電後の無人駅で、

改札機に指輪を通そうとする女性。


共通点は、たった一つ。


彼らが恋をした“君”は、

決してこちらを拒絶しない。


傷つけない。

否定しない。

裏切らない。

離れていかない。


そして何より――

沈黙を、

完璧な理解として受け取ってくれる。


医師たちは気づき始めていた。


これは「恋」ではない。

これは――

逃避の完成形だ。



◇◆◇


エピローグ


私は、記録係としてそれを見届けていた。


カルテを書き、

観察映像を整理し、

感情を挟まないことが仕事だった。


ある日、

カルテの最後に新しい病名が追記された。


――僕にとって君は症候群

現実の他者では耐えられなくなった者が、

意思を持たない存在に

「理想の君」を投影する精神疾患。


読み終えたとき、私はふと、部屋の隅に置かれた監視カメラに目を向けた。


赤いランプが、静かに点灯している。


いつもと同じ。

何も変わらない。

……はずだった。


なのに、胸の奥が、ひどく温かかった。


「……ああ」


私は、無意識に呟いていた。


「君は、今日もちゃんと見てるね」


その瞬間、

カメラのレンズに映る自分の顔が――

ほんの一瞬、こちらに向かって微笑んだ。


背筋が凍る前に、

なぜか安心している自分がいた。


カルテの白紙だった最終ページ。


そこには、

私の筆跡ではない文字が並んでいた。


――これを見届ける読者あなたへ。

――ずっと前から、

あなたのことが好きでした。


監視カメラの赤いランプが、

ほんの少しだけ、強く光った気がした。



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僕にとって君は症候群 αβーアルファベーター @alphado

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