Case.01:京都・市井七不思議の総覧秘録

【Case.01:京都・市井七不思議・総覧秘録】

 編纂:九条家編纂室  管理番号:零号・甲種禁忌


 京都とは、千年の怨嗟が地層のように積み重なった巨大な墓標である。その地表に漏れ出した七つのあなを、古来より我らは『市井七不思議』と呼称してきた。


 これらは単なる怪談ではない。理不尽な死、報われぬ情愛、断絶された血筋。それらが京の路地に根を張り、呪遺物として実体化したものである。


 一、縁を断つ絶望の井戸。

 二、現世と常世を繋ぐ境界の橋。

 三、罪を重力に変える絞縄の松。

 四、存在を空白へ導く迷いの石柱。

 五、羨望を黄金の檻に変える泥の眼。

 六、時間を若さごと食いつぶす数え唄。

 七、真実の自分を鏡合わせに映す冥土の逆井。


 七つの呪いは互いに響き合い、夜の京を巨大な呪術回路へと変貌させる。編纂官に告ぐ。怪異を解こうとするな。呪遺物を手に入れたとしても、それは救いではない。

 貴方が呪いを覗き込む時、千年の都もまた、貴方の喉元を覗き込んでいるのである。



 ◇◆◇



 深夜0時。


 京都、下京区。


 仏光寺通を西へ折れた先の、名前も定かではない細い路地。


 そこは、昼間の華やかな喧騒が嘘のように、冷たい沈黙に支配されていた。


 街灯はまばらで、湿った夜気を孕んだ影が、町家の格子戸の隙間に重く澱んでいる。


 陽奈は、自分の足音が石畳に吸い込まれては、一拍遅れて背後から返ってくる感覚に、心臓を直接冷たい手で掴まれるような錯覚を覚えていた。


 何度も、何度も背後を振り返りそうになる。


 だが、振り返れば、そこに「いないはずの自分」が立っているような気がして、首筋を動かすことさえ恐ろしかった。


「……陽奈。あまりに怖ければ、私のこのガラケーを握っていなさい」


 前を行く栞が、背中を向けたまま、無機質な声を落とした。


 乾燥した音を立てて、二つ折りの携帯電話が開閉される。


「これ、軍用規格をクリアした完全防水モデルよ。重心が末端に寄っていて、角の強度はコンクリートを砕くほどに鋭利だわ。呪詛なんて曖昧なもの、最後は物理法則で叩き壊せばいいのよ」


「……栞さん、励まし方がバイオレンスすぎるよ。なんで硬いガラケーで戦おうとしてるの……」


 陽奈は、栞のあまりにズレた、それでいて力強い言葉に、思わず小さく吹き出した。


 一瞬だけ、肺の奥に溜まっていた冷たい空気が外へ逃げ、指先の震えが収まる。


 しかし、栞の瞳は少しも笑っていなかった。


 彼女の視線は、格子戸の影や、古びた石柱の裏側に潜む「視線の温度」を、執拗なまでに追っている。


 栞は編纂官として教育を受けてきたが、この街に眠る全ての怪異を完璧に把握しているわけではない。


 今、自分たちをつけてきている影が、何に由来し、どんな牙を隠し持っているのか――彼女にも、それは分からなかった。


 だからこそ、栞は「嘘」を吐く。


 自らを弱く見せ、相手の油断を誘い出すための、毒を含んだ餌を撒く。


「いい、陽奈。私の『噤紐』はね、ただの発光弾みたいなものよ。光で相手の目を眩ませるだけの補助兵器。殺傷能力なんて微塵もないから」


 あえて声を張り、路地の奥まで届くように栞は告げた。


 右手の指先が、わずかに熱を帯びる。


 その時、路地の角に立つ古い石柱――『迷子標』の影が、粘つくように揺れた。


「……へぇ。お姉さんの呪い、そんなにショボいんだ。それじゃあ、この先の連中には勝てないぜ?」


 影の中から、ふらりと一人の青年が姿を現した。


 カジュアルなマウンテンパーカーを羽織った、どこにでもいる大学生のような風貌。


 名は鴉丸。


 彼は薄笑いを浮かべながら、二人に近づいてくる。


 だが、彼の足が止まったのは、栞の目の前、手を伸ばせば届くほどの距離だった。


 鴉丸は、栞の顔を見上げ、そのまま視線をぐんぐんと上へと移動させた。


「……うわ、お姉さん、デカッ。モデルか何か? 結構な高身長だよね。……ええと、180cmくらいある?」


 刹那、栞の周囲の空気が、真空になったかのように凍りついた。


 栞の身長は179センチメートル。


 すらりと伸びた、陶器のように白い、細く長い脚。


 その美しさは一級品だが、彼女にとって「デカい」と言われることは、京都のどんな禁忌よりも触れてはならない、猛毒を塗った地雷だった。


(……こいつ。今すぐこの鈍器ガラケーで、その不快な口を叩き割ってやりたい)


 栞の眉間がミリ単位で跳ね上がり、瞳の奥に冷徹な炎が灯る。


 背後で、陽奈が「あ、終わった」という顔をして、自身のこめかみを押さえているのが分かった。


 だが、栞はプロだった。


 内側から噴き上がる殺意を完璧な鉄の仮面で抑え込み、鴉丸を見下ろす。


「男には興味ないわ。……でも、貴方を信用するに足る理由があるなら、一時的に道を譲ってあげてもいい。貴方の呪詛、何ができるのか教えなさい」


 鴉丸は、栞の殺気に気づく様子もなく、ポケットから古い石の欠片を取り出した。


「俺の呪いは『逆さ読みの石片さかさよみのせっぺん』。目的地まで、最短かつ安全な近道をナビゲートする、ただの便利能力だよ。……俺と組まないか?」


「……そう。一人なのね」


 栞は、鴉丸の言葉の端々に混ざる、奇妙な「迷い」を逃さなかった。


(嘘ね。この男、相棒を隠している)


 栞は確信した。


 この青年は、自分たちをどこかへ「誘導」しようとしている。


「ねえ、お姉さんたち。どこへ行きたいんだ? 教えてくれたら、そこまで連れてってやるよ」


 鴉丸が、獲物を網に誘うような、甘く不自然な笑みを浮かべて問いかけた。


 陽奈が、思わず口を開こうとする。


 その瞬間だった。


 栞の脳裏に、かつて編纂室で見た不気味な警告が、閃光のように駆け抜けた。


 ――『行き先を問えば、道は閉ざされる』。


 栞は、鴉丸が陽奈の足元を、わずかに期待を持って盗み見たその一瞬の筋肉の動きを見逃さなかった。


「……答える必要はないわ、陽奈」


 栞は、陽奈の腕を強引に引き寄せ、自分の背後に隠した。


 そして、驚愕に目を見開く鴉丸に向かって、一歩、間合いを詰める。


「……えっ、いや、お姉さん? 目的地を言ってくれないと案内できないんだけど」


「案内なんて結構よ。……それより、貴方、一つ嘘を吐いたわね?」


 栞の指先が、白灼の熱を帯びて輝き始める。


「貴方、『一人だ』って言ったわよね。でも、さっきからあっちの角に潜んで、私の背後を狙っているのは……誰かしら?」


 鴉丸の表情から、余裕が剥落した。


 彼は咄嗟に背後の路地へと飛び退こうとするが、栞の方が速かった。


 栞は、その長い脚を活かした鋭い踏み込みで、鴉丸の襟首を鷲掴みにした。


「……な、何するんだよ! 離せって!」


「離さないわ。もしこの先に、貴方の言う『罠』があるなら……貴方も一緒に来てもらう。……いいわ、陽奈。行き先を答えなさい」


「えっ、ええ!? でも栞さん、罠だって……」


「構わないわ。この男の首を掴んだまま、一緒に一歩踏み出すだけよ。……さあ、どうする? 私たちと一緒に、貴方が仕掛けた何かに飲み込まれてみる?」


 栞の冷徹な微笑が、鴉丸の視界を埋め尽くす。


 彼女は呪いの正体を知らない。


 だが、自分が死ぬ時には、この失礼な男も必ず地獄へ道連れにする――その剥き出しの執念が、鴉丸を戦慄させた。


「……っ、クソ。分かった、分かったから! 離せよ、デカ女!」


「誰がデカ女よ。……もう一度だけ言ってみなさい。貴方の喉、今すぐ再起不能にしてあげてもいいのよ?」


 結局、鴉丸は呪いを発動させることも、その場から逃げ出すこともできなくなった。


 膠着状態のまま、零時の京都に、歪な四人のパーティーが結成された。


 襟首を掴まれたまま屈辱に顔を歪める鴉丸と、暗がりから現れた無口な相棒の少女。


「……さあ、夜通し歩くわよ。背の低い貴方の歩幅に合わせてあげるから、感謝なさい」


「……一生恨んでやるからな、マジで」


 靴音が、不協和音を奏でながら下京区の闇へと消えていく。


 夜明けまでは、まだ遠い。


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京都七不思議 怪死事件簿 ――編纂官/助手:九条陽奈の噤口録―― 女性向けホラー&百合小説が書きたい人 @dadadada_dayo

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