プールループ
αβーアルファベーター
プールループプールループプールループ……
◇◆◇
プロローグ
市営プールは、夏の終わりになると、まるで役目を終えた生き物のように静かになる。
昼間は子どもたちの声が反響していたはずの天井も、夕方を過ぎると音を吸い込むように重く沈黙する。
更衣室に染みついた塩素の匂いは、
なぜか夜になると甘ったるく感じられた。
鼻の奥に残り、
呼吸のたびに思考を鈍らせる。
水面に映る蛍光灯は、
わずかに揺れて、真っ直ぐではない。
波も立っていないのに、
光だけが歪んでいる。
監視員の笛の音が一度だけ鳴り、
その余韻がやけに遠く、
別の場所から聞こえたような気がした。
その日、僕――直人は、
夜間開放の最終日だという理由だけで、
一人で泳ぎに来ていた。
理由はそれだけだったはずなのに、
なぜか「来なければならない」という感覚が、胸の奥に引っかかっていた。
「もうすぐ閉館でーす」
アナウンスがプール全体に響いた直後だったと思う。
水中で、何かが、足首に触れた。
最初は、水の流れだと思った。
排水の関係で、
たまに足に当たることはある。
次に、誰かの悪ふざけだと考えた。
夜間とはいえ、
完全に一人というわけではない。
だが――引く力が、異様だった。
ぐっと、迷いのない力で、
下へ、下へと引きずられる。
水をかいた腕が空を切り、
身体の向きが無理やり変えられる。
振り返った瞬間、
水の中に“顔”があった。
髪が水に漂い、
口は開いていないのに、
目だけが、こちらを見開いている。
瞬きもしない。
視線が合った、その瞬間、
肺が勝手に縮こまる感覚がした。
息が、続かなかった。
音が消え、
光が遠のき、
自分の心臓の音だけが、やけに大きく響く。
――そして。
◇◆◇
目を開けると、
更衣室のベンチに座っていた。
背中に感じる冷たい感触。
濡れていないはずの肌が、なぜか寒い。
しばらく、状況が理解できなかった。
さっきまで水の中にいた感覚だけが、
体の奥に残っている。
時計を見る。
18:42
夜間開放の開始3分前。
「……は?」
声が、かすれていた。
ロッカーの番号。
開けたときのきしむ音。
置いたタオルの色と折り目。
全部、同じだ。
あまりにも同じで、
違っているはずの“時間”だけが、
浮いて見えた。
さっきまでの出来事が、
夢じゃないことだけは、はっきり分かる。
肺の奥に残る、
息ができなかった感覚だけが、
消えずに残っているから。
嫌な予感を抱えたまま、
僕はプールサイドへ出た。
水は、
さっきと同じように静かだった。
音もなく、
波もなく、
ただそこにある。
だが――。
「もうすぐ閉館でーす」
同じ声。
同じ抑揚。
同じタイミング。
背中に、冷たいものが走った。
◇◆◇
僕は慌ててプールから上がろうとした。
飛び込み台の影を避け、
できるだけ水辺から離れようとした、その瞬間。
水中で、影が動いた。
水面に反射する光が、
一瞬だけ、不自然に歪む。
逃げようとした。
今度こそ、間に合うと思った。
だが、
足首に、冷たい何かが絡みつく。
指なのか、
腕なのか、
それとも水そのものなのか、分からない。
確かなのは、
“意志”を感じることだった。
引きずられ、
視界が水で満たされ、
また息ができなくなる。
◇◆◇
それから、何度も。
何度も、何度も。
目を開けるたび、
18:42。
更衣室のベンチ。
同じ位置、
同じ匂い、
同じ時計。
死に方は、少しずつ違った。
足を引かれることもあった。
誰もいないはずの飛び込み台から、
見えない力に押されることもあった。
排水口の近くで、
水流に逆らえなくなることもあった。
だが、共通している。
必ず、水中に“誰か”がいる。
見える時もあれば、
見えない時もある。
だが必ず、
視線だけは感じる。
◇◆◇
あるループで、
僕はようやく気づいた。
プールの底。
排水口の前に、
古い金属プレートが埋め込まれている。
今まで、
何度もその上を泳いでいたはずなのに、
なぜか見えなかった。
「安全のため立入禁止」
擦り切れた文字。
だが、その奥。
少しずらした位置に、
もう一枚、薄いプレートがある。
水垢に覆われ、
ほとんど読めない。
指でなぞると、
文字が浮かび上がった。
――直人
僕の名前だった。
心臓が、跳ねた。
理解した瞬間、
背後で、水音がした。
ゆっくりと、
何かが水面に浮かび上がる音。
振り返らなくても、
分かった。
水面に映ったのは、
息ができず、
必死にもがいていた“僕自身”の顔。
目は見開かれ、
助けを求めているのに、
どこか安堵しているようにも見えた。
「代わって」
水の中から、声がした。
泡が弾けるような、
それでいて、はっきりとした声。
「次は、君だよ」
◇◆◇
18:42。
今日も、
僕は更衣室のベンチに座っている。
逃げようとは、もう思わない。
時計を見るのも、やめた。
プールは、変わらず静かだ。
でも、知っている。
いや、分かってしまった。
この市営プールは、
溺れた人間の“時間”を、
一人分だけ、閉じ込める。
古い名前が消え、
新しい名前が刻まれるまで。
抜け出す方法は、ひとつだけ。
次の直人が、
このプールに来るまで。
水面が、
今夜も、やけに穏やかに揺れていた。
まるで、
次の誰かを、
静かに待っているみたいに。
◇◆◇
エピローグ
市営プールは、夏の終わりになると、まるで役目を終えた生き物のように静かになる。
昼間は子どもたちの声が反響していたはずの天井も、夕方を過ぎると音を吸い込むように重く沈黙する。
更衣室に染みついた塩素の匂いは、
なぜか夜になると甘ったるく感じられた。
鼻の奥に残り、
呼吸のたびに思考を鈍らせる。
水面に映る蛍光灯は、
わずかに揺れて、真っ直ぐではない。
波も立っていないのに、
光だけが歪んでいる。
監視員の笛の音が一度だけ鳴り、
その余韻がやけに遠く、
別の場所から聞こえたような気がした。
その日、僕――直人は、
夜間開放の最終日だという理由だけで、
一人で泳ぎに来ていた。
理由はそれだけだったはずなのに、
なぜか「来なければならない」という感覚が、胸の奥に引っかかっていた。
「もうすぐ閉館でーす」
アナウンスがプール全体に響いた直後だったと思う。
水中で、何かが、足首に触れた。
最初は、水の流れだと思った。
排水の関係で、
たまに足に当たることはある。
次に、誰かの悪ふざけだと考えた。
夜間とはいえ、
完全に一人というわけではない。
だが――引く力が、異様だった。
ぐっと、迷いのない力で、
下へ、下へと引きずられる。
水をかいた腕が空を切り、
身体の向きが無理やり変えられる。
振り返った瞬間、
水の中に“顔”があった。
髪が水に漂い、
口は開いていないのに、
目だけが、こちらを見開いている。
瞬きもしない。
視線が合った、その瞬間、
肺が勝手に縮こまる感覚がした。
息が、続かなかった。
音が消え、
光が遠のき、
自分の心臓の音だけが、やけに大きく響く。
――そして。
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