不倫探偵事務所 〜アリバイ工作♡ときどき事件〜

葉月美緒

ミステリーナイト編

プロローグ 開 幕

 夜の都会は、ビルのネオンを映して黒いガラス面を煌めかせていた。

 高層にそびえる高級シティホテル〈ベル・セゾン〉は、ライトアップされた正面ロビーを背に、映画のワンシーンのように静かにたたずんでいる。


 大理石の床を踏みしめ、吹き抜けのロビーを抜けた先は、別世界のようだった。


 ホテルのエントランスから続くガラス張りの通路を進むと、夜景が一望できる高層フロアに到着する。

 街の灯りとネオンが、窓ガラスに散りばめられた宝石のように反射し、非日常の空気を漂わせる。


 るいは窓際のバルコニーからホールを見下ろす。豪奢なシャンデリアがいくつも煌めき、深紅のカーペットが床を覆う。正面のステージには緞帳が下り、幕開けを今か今かと待っている。


 丸テーブルには白いクロスと銀のカトラリーが整然と並び、クリスタルのグラスが柔らかな灯りを受けて輝いていた。


 テーブルを囲むのは様々な顔ぶれ。スーツ姿の会社員風グループ、カクテルドレスを着た女性たち、旅行客らしい老夫婦。中には学生らしき若いカップルもいる。


 と、泪の視線がふとある人物に留まる。先日、自分の喫茶店に来店した客――あの時の人が、そこに座っている。


 チラっとこちらに視線を送り、軽く手を挙げたその仕草に、泪もコクリとうなずく。

 視線を戻すと、舞台の緞帳はまだ下りたまま。周囲のテーブルからは小さなざわめきが聞こえ、期待に胸を膨らませる声があちこちで弾む。


 今夜の催しは「ミステリーナイト」

 参加者全員が探偵役となり、推理劇を進行しながら犯人を探し出す、大人の夜の娯楽だ。


 その中で、乃蒼のあはグラスを傾けながら、心の中でため息をついた。


(まさか、喫茶店のアルバイトからこんな夜会に巻き込まれるなんて……)


 ほんの数週間前に、彼女は海浜市の海浜通りにある小さな喫茶店で働き始めたばかりだった。


(あの時、面接に行っちゃったのが事の始まりなのよね……)


 そんな風に思いながら視線を横にやると、ワインレッドのような色のスーツを着こなした泪が落ち着いた顔で舞台を見つめていた。


 ふと、泪の前に一人のウェイターが立ち止まる。


「赤ワインをどうぞ」


 グラスを差し出したウェイターに、さらりと言った。


「いや、ワインじゃなくて、カシスジュースを」


「……あ、カシスのカクテルでよろしいでしょうか?」


「いや。ジュースだ。ノンアルコールのカシスジュース」


「……は?」


 一瞬ウェイターが固まる。


「ワイングラスに注いでくれればいい。見た目はワインで」


「……かしこまりました」


 笑いを堪えながら去っていくスタッフの背中を見送りながら、乃蒼も思わず「プッ」と吹き出してしまう。


 慌てて手で口を押さえ、顔を赤らめながらコホン、と咳払い。


「また、カシスジュースですか」


 泪は肩をすくめて答える。


「雰囲気って大事だろ。でも酒は飲めないからな」


「知ってますよ。前も同じこと言ってましたよね」


「俺は一貫してるタイプなんだ」


「……はいはい、真面目なのはわかりました」


 乃蒼は小さく吹き出しながら、テーブルに視線を落とす。


 そこへ、タイミングよくさっきのウェイターが戻ってきて、二つのグラスをそっと置いた。

 

「お待たせいたしました。カシスです」


 ワイングラスに注がれた赤い液体が、灯りを受けてきらりと光る。

 

 一見ワインのようだが、ほんのり甘い香りが漂ってきて――乃蒼は思わず笑みをこぼした。


「あぁ、ありがとう」


 泪はスマートに受け取り、一口含む。


「うまいな。カシスジュースは」


 その堂々とした態度に、乃蒼はまたもや心の中で悲鳴を上げた。


(やめて! 絶対ワインにしか見えないから!)


「お前もどうだ?」


 もう一つのグラスを差し出す泪に、乃蒼は思わず固まる。


「は、はぁ……」


 ジュースにしてはその濃い色合いがあざやかで、光を受けて宝石のようにきらめいている。

 思わず見とれてから、そっと口に含むと、意外にも甘く、しっかりとした味わいが広がった。


「わぁ……美味しい……」


 思わず口に出してしまった言葉に、泪はにっこりと微笑む。


「だろ?」


 そのちょっとキラキラした笑顔に、乃蒼は一瞬ドキリとする。


「……ま、まあ、雰囲気って大事ですよね……」


 小さく自分に言い聞かせるように呟き、グラスを手にしたまま視線を前に戻す。


 広々としたメインホールには、すでに百名近い客が集まっている。

 丸テーブルごとに笑い声が飛び交い、煌びやかなシャンデリアの光がグラスの液面を照らし返してきらめいていた。


 ステージ脇では楽団が静かにジャズを奏で、特にドレスコードがあるわけではなかったが、艶やかなドレスやタキシードに身を包んだ人々の談笑が華やかな空気を一層盛り立てている。


(まるで本当に映画のワンシーンみたい……)


 そんな感想を胸に抱きながらも、乃蒼の心は弾んでいなかった。

 ただのアルバイトのはずが、気がつけば“探偵助手”として泪の隣に座らされていて、今もなお、彼のジュース騒動の余韻に振り回されている最中だった。


 やがて、場内の明かりがすっと落ちる。

 楽団の演奏が止まり、舞台に置かれた赤い緞帳に一条のスポットライトが差し込んだ。


「──レディース&ジェントルマン!」


 朗々とした声がホールに響き渡る。

 黒燕尾の司会者が舞台中央に登場すると、会場から大きな拍手が沸き起こった。


「今宵はようこそ〈ベル・セゾン〉へ! ここからは皆さまが名探偵となり、この夜限りの推理劇に挑んでいただきます!」


 観客のあちこちから歓声と拍手が上がる。

 テーブルごとに「負けないわよ」「俺が犯人を当ててやる」などと楽しげな声が飛び交い、会場全体が一体となって熱気を帯びていく。


 乃蒼はグラスを握りしめたまま、複雑な気持ちでその光景を見渡した。


(なんかわたし場違いじゃないかなぁ……)


 小さく息を吐いた瞬間、隣から声がかかる。


「せっかくだ。楽しめばいい」


 カシスジュースを口にした泪は、いつもの落ち着いた調子で淡々と告げた。


「……楽しめば、ですか」


「こんな機会、そうそうないだろ。損するのは自分だ。しかも……」


 そこまで言うと、泪は不意に乃蒼の耳元に口元を運ぶと、ボソっと耳打ちする。


「参加費も無料だしな」


 乃蒼は思わず彼を見やり、苦笑した。


「……そうですね。せっかくですし」


 ほんの少し気持ちが軽くなった気がした。


 会場の熱気はさらに高まっていた。隣のテーブルではスーツ姿の男性たちが「今夜は絶対勝つぞ」と声を掛け合い、別のテーブルでは女性グループが「イケメン俳優が出るらしいわよ」と噂話に花を咲かせている。


 司会者がマイクを手に、明るく通る声で呼びかけた。


「これより、皆さまを推理の世界へご案内いたします! 今夜は、あなたの推理力が試される――さあ、楽しむ準備はよろしいですか?」


 会場から大きな拍手と歓声が沸き上がる中、泪は隣の乃蒼に軽く目を向け、ニヤリと笑う。


「さて、俺たちも探偵ゴッコとまいりますかね」


 乃蒼も思わず笑みを浮かべ、少し肩の力が抜けた。


(……あれ、意外と面白いかも……)


 彼女の心の中に、ほんの少しだけ好奇心とわくわくが芽生える。

 いつの間にか、場違いだと思っていた不安も薄れ、推理劇の始まりを待つ胸の高鳴りが広がっていた。


 会場の熱気はさらに増し、他のテーブルでは小声で推理の作戦会議を始める人々や、友人同士で楽しげに笑い合う姿が見えた。


 その光景を眺めながら、乃蒼はそっと自分のグラスを傾ける。

 ジュースの甘みが、緊張と期待の入り混じった心を落ち着かせる。


「いよいよ始まりますね!」


 なぜかやる気スイッチの入った乃蒼を横目に、泪はにやりと笑い、手元の小さなボールペン型カメラに指をかける。

 

 普段なら緊張で固まってしまいそうな彼女も、今は胸の奥がじんわりと熱くなり、冒険に踏み出すような期待感が湧いていた。


 都会の夜景と煌びやかなホテル――全てが、特別な夜の幕開けを告げる。


 ――ミステリーナイト、今宵開幕。

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