第4話 見知らぬ街と、遭遇

 故郷から溺れ死ぬほど流されてたどり着いたそこは、当然見知らぬ景色だった。だが、知っている景色とよく似ていた。

 というより、今やどこも似たようなものだった。

 人の手入れが失われて野放図に伸びた植栽が、街路樹の根が、アスファルトやブロックタイル敷の路面を突き破り、その亀裂に落ち込んだ野草の種が草となってぼうぼうと生い茂っている。


 その合間合間に、ここがかつてどんな街だったのかを残すように、温暖化に伴う海面上昇に寄る高水対策で2階ほどの高さに持ち上げられた入口と、そこへ通じる剥き出しの階段が方々にある。

 幸いにこの街は海面上昇の影響は限定的だったようで、それは高潮に伴う砂浜の短さと、いくばくか残った海岸と街とを隔てる緩斜面の緑地帯の存在からも明らかだった。


 これが高潮で水没する海抜地域だと街の通りは丸ごと潮水に浸かる。路肩には乗り捨てられた車だけが残って草も生えず、かわりに砂が浅く溜まっているはずだ。

 だが、ここには幸いそうした様子はない。ただ吹く海風は冷たく、背後に波の音ばかりが聞こえる。


 踏みしめた砂利道のようなアスファルトは、裸足には少々痛かった。

 靴を置いていそうな店を探そう、できれば靴の専門店だと尚良い。そういう店は、物資捜索では後回しにされがちだ。丈夫なゴムが必要であれば、大抵はタイヤの回収を狙う。加水分解しているかもしれないスニーカーの靴底などまず狙わないし、合皮が大半の安い靴屋であれば、靴の新調以外の目的で物資漁りをすることもない。まだいくばくかの商品の在庫があるはずだ。


 少女は都合の良さそうな立ち枯れした細い木に膝を当てて折って杖代わりにして、暗いアスファルトの道をおそるおそる裸足で進んだ。数分歩く度に咳き込んだ。相変わらず湿っぽい咳で、息をつくと肺いっぱいに息を吸い込んだ終いの方で胸の奥でパチパチとなにかが爆ぜる音を感じるようになっていた。


 肺胞にまだ水が残っている証拠だ。だが、出るのは咳ばかりで、もう体がすっかり干上がっているのか、痰は出ないし涙も出ない。発熱もない。真冬の海風をずっと浴びているというのに、逆に鳥肌すら立たない。


 くらがりのコンクリート建築物の連なる道の中でする咳は、やけに響いた。

 その声に引き寄せられるようにいくばくかのロメロが路肩から出てきた。


 少女はそれから逃げるように、あるいはまるで惹きつけるかのように歩き続けた。

 途中、幹線道路と思しき太い通りに差し掛かると、バス停があった。そのバスの消えかかった順路図とその道沿いを『◯☓駅』という標識を頼りに歩みを進めた。


 幸い、文字は読めるものだった。海流に乗って流されはしたが、国境は越えていないようだった。どうやら投げ捨てられた父の漁船が出た岸と地続きの砂浜に這い上がれたようだ。


 駅前ならショッピングストリートがあるはずだ。安い靴や衣料品も扱ってるようなスーパーマーケットか、駅直結型のショッピングモールでもいい。


 しばらく歩いていると、物音がした。

 まるで空の一斗缶を等間隔で棒か何かで叩くような金属の打音だ。

 知っている、ロメロ寄せだ。

 音に近づいていく習性のロメロを一箇所に集めてとどめておくために設置されているもので、大抵の動力は小さな風車か、小川が近くにあればその川の水流を利用して手の込んだ鹿威しの要領で作られる。


 これがあるということは、そう遠くないところに人間の共同体があるということだ。

 少女は少し考えて、咳が出そうになって堪えて足をとめ、しゃがみ込んだ。


 気がつけば、すぐ振り向いて数メートルのところに両手の指で足りるほどの数の黒い人の影があった。


 無言ですり足で歩く彼らは、しゃがみ込んだ少女を無視して、そのロメロ寄せの方へとずるずると足を引きずって歩いていった。

 みんな靴底がすり減った靴を履いていた。おそらく元はこの地域の住民だった者たちだろう。


 どうやら海から打ち上げられた自分のような他所で捨てられたロメロは居ないらしい。


 だが、少女は堪えられず、最後の1人が自分を追い抜くまで後少しというところでけほっと小さく咽た。


 しまったと思った。

 案の定、その声を聞いた一体の『ロメロ』は、少女の顔を覗き込んだ。


 乾いて褪せた血のような赤褐色のジャケットに、デニム姿、靴は重たげな厚底で、髪はひっつめに縛っている。だがその足や肩口から見える肉の感じは、どうみても脂肪が落ちきった今にも倒れそうな痩せきった体をしていた。


 少女は目をつぶって平静を保った。

 ロメロは人体の恐怖ホルモンを嗅ぎ分ける。恐怖を感じれば襲いかかられるだろう。


 ロメロ同士が襲い合わないのは、既にその脳から恐怖という感情が失われているからだと幼い頃に言い聞かされて育った。


 だが、すぐ目の前でいつまでもじっとこちらを見ているそのロメロに、少女は精神的に耐えられなかった。

 その異様な不気味さに恐怖を感じると、その個体はかぶりつくように少女の肩口に噛みついた。


 少女も既に自分の身がロメロの感染体に侵されていることは百も承知だった。

 だから、思い切って一矢報いるつもりで、少女はその赤ジャケットのロメロの手首を掴んだ。


 その手首には、今にも手の骨から滑り落ちそうな落ちそうなほどゆるく巻き付いた、細いメタルバンドに四角いピンクの小さな文字盤の腕時計がついていた。少女はその腕に噛みつき返した。

 その感触は、パリパリに乾いた、まるで焼く前の干物をかじったような感じだった。


 その時、奇妙なことが起こった。

 なんと少女に干からびた肉に食い込むほど強く噛みつかれたそのロメロは、たちどころに痙攣して倒れたのだ。


 少女は立ち上がり、おそるおそる数歩離れて、また座り込んだ。

 噛まれた首筋には歯型が残る程度の傷しかない。血も出ていない。長年のロメロとして、飲まず食わずでの放浪によって筋組織が劣化し、噛みついても血が出るほどの力が込められないようだった。


 一方で、まだ若々しい少女に噛まれたロメロの傷は、乾いた皮膚に歯型の亀裂が入るほど深く、ほのかに内側の筋組織が見えるほどだ。おそらく女性だったであろうそのロメロは痙攣し続けている。


 朝日が空を青く染め始めたのを見て、少女はひとまず靴探しのために駅を目指すのをやめて、その痙攣したロメロを見通せる窓のある近くのビルの中に移った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

聖斑のアリアと肉の花――ゾンビ感染症になったと思ったら無毒化された変異株に再感染したので、終末世界をなんとか生き抜こうと思います―― たけすみ @takesmithkaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画