セカイの端に立つ少女

アキイロ

世界の終わりで、少女は


この世界は、天に動かされている。


それは信仰でもなければ、学者たちの机上の仮説でもない。

誰もが生まれた瞬間から知っている、疑う余地のない事実だ。


太陽は決められた円環を正確になぞり、

朝と昼と夕と夜は、一度も遅れることなく訪れる。

星々は天蓋に打ち込まれた無数の釘のように固定され、

どれほど年月が過ぎようと、配置を変えない。


空は動くが、天は動かない。

動かしているのは、天の意思だ。


大地は平らで、なだらかに広がり続け、

森があり、川があり、海があり、国がある。

だがそれは永遠ではない。


ある地点で――

唐突に、しかし必然のように、世界は終わる。


人々はそれを当然のこととして受け入れている。

疑う理由が、存在しないからだ。


大半の人間は、生まれた土地から百里も離れずに一生を終える。

噂話として「世界の端」が語られることはあっても、

それは遠い伝承や寓話の類であり、

実在を確かめようとする者はいない。


だから――

世界が終わる場所を、この目で見た者はほとんどいない。



少女は、その「終わり」で暮らしている。


世界の端は、想像されがちな断崖絶壁ではなかった。

奈落もなければ、落ちて消える虚無もない。


どこまでも続いていた平原が、

ある一歩を境に、灰色の“壁”へと変わる。


それは、あまりにも唐突で、あまりにも自然だった。

地面が壁になるのではない。

世界そのものが、そこで「打ち切られている」。


壁は、真上へと伸びている。

首が痛くなるほど見上げても、上端は見えない。

雲を突き抜け、星の配置すら遮る高さへ、

ただ無言で、垂直に。


触れれば冷たい。

だが石の冷たさではない。

金属のようでもあるが、金属の重みがない。


刃を当てても、傷一つ付かず、

槌で叩いても、反響音すら返らない。


そこに「向こう側」はない。

遮られているのではなく、

最初から存在しないものを前提に作られた境界。


少女は、幼い頃からそう感じていた。



彼女の家は、壁のすぐ傍に建っている。


小さく、古びているが、粗末ではない。

屋根板は何度も張り替えられ、

柱には、何世代も前の先祖が刻んだ記号が残っている。


それが何を意味するのか、少女は知らない。

ただ、「消してはいけないもの」だと教えられてきた。


畑の土は痩せている。

それでも、手をかければ最低限の作物は実る。

井戸の水は驚くほど澄んでいて、

夏でも骨の奥まで冷える。


少女は、ここで一人暮らしている。


父も母も、もういない。

祖父母も、そのまた祖父母も、

皆この壁の傍で生まれ、

この壁を背にして死んでいった。


誰一人として、

世界の端を離れた者はいない。



一族には、代々伝えられてきた教えがある。


「ここに居なさい」

「扉に触れてはならない」

「聞かれたことには答えなさい」

「聞かれないことは、語ってはならない」


理由は、教えられなかった。


なぜかと尋ねても、返ってくるのは同じ言葉だ。

「そうするものだから」


少女は、それを不思議に思わなかった。

疑問というものは、

選択肢を知っている者だけが抱く感情だ。


彼女にとって、世界は最初からこうだった。


端があり、壁があり、

自分はここに居る。


それだけのことだった。



壁には、扉がある。


目立たない。

壁の異様さに比べれば、あまりにも素朴だ。


木製のようでいて、朽ちない。

金属のようでいて、錆びない。

取っ手も、鍵穴も、装飾もない。


ただ、扉として存在している。


壁の一部として溶け込んでおり、

意識しなければ、そこに「入口」があるとは気づかない。


少女は、毎朝この扉の前に立つ。


触れない。

開けようともしない。


ただ、そこに在ることを確かめる。


それが、彼女に与えられた役目だった。



世界の端には、時折、客が訪れる。


ある時は、国の使者。

絢爛な衣装と、厳めしい護衛を連れていた。


だが壁に近づくにつれ、

彼らの足取りは重くなり、

言葉は少なくなっていった。


「……ここが、端なのか」


使者は、壁を見上げて呟いた。

その声は、祈りにも似ていた。


少女は、ただ頷いた。


「向こう側は?」


「わかりません」


それは、嘘ではない。

少女は、知らないのだ。


使者は何度も壁に触れ、

距離を測り、何かを書き留め、

最後には深く頭を下げた。


「……報告せねばなるまい」


彼が国に戻れたのか、

その報告がどう扱われたのか、

少女は知らない。


知る必要も、なかった。



冒険者も来た。


数多の修羅場を潜った剣士だった。

笑顔の奥に、慢心と恐怖を隠していた。


「世界の端? はは、与太話だ」


そう言っていた彼は、

壁の前で言葉を失った。


三日間、彼は壁を調べ続けた。

魔法も、技術も、知識も、すべて試した。


四日目の朝、彼は少女に尋ねた。


「……お前は、ここで何をしている」


「ここに居ます」


「それだけか?」


少女は、少しだけ考えた。


「……守っています」


「何を?」


少女は、答えなかった。


剣士は、それ以上問わなかった。

剣を収め、

来た時よりも重たい背中で、去っていった。



逃亡者も来た。


血に塗れ、恐怖に追われ、

壁を見た瞬間、膝から崩れ落ちた。


「頼む……越えさせてくれ……!」


少女は、首を横に振った。


「扉は、あなたのものではありません」


男は泣き、笑い、叫び、

やがて壁に背を向けた。


追手が来たのかどうか、

少女は知らない。



動物も来る。


傷ついた獣、

翼を折った鳥、

人に魔獣と呼ばれる存在さえ。


ここでは、ただの生き物だ。


少女は手当てをし、

食事を与え、

回復すれば、黙って見送る。


彼らは、壁を恐れない。

越えられないと、知っているだけだ。



少女は、少しずつ考えるようになった。


なぜ、自分たちはここに居るのか。

なぜ、扉は存在するのか。

なぜ、世界は“終わり”を必要としているのか。


夜、壁の前で、少女は呟く。


「君の手のひらには、何がある?」


それは、先祖の言葉だった。

意味は、誰も教えてくれなかった。


扉の向こうには、

天に縛られない世界がある。

終わりを持たない世界がある。


――扉は、すべてを知っている。


だが、この世界はそれを必要としていない。


知らないことによって、

世界は形を保っている。


少女は今日も、扉に触れず、

天に動かされる世界を見守る。


世界が、終わらないように。

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セカイの端に立つ少女 アキイロ @akiieodeizu

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