;;5.代償
アリーナからログアウトし、自室のベッドに意識が戻った時、私の身体は鉛のように重かった。数時間にも及ぶ濃密な情報処理の奔流に、生身の脳が悲鳴を上げている。だが、疲労とは裏腹に、心は奇妙な高揚感に満たされていた。あの完璧なパフォーマンス。あれを演じたのは、紛れもなく私自身だったのだ、と。いや、私にインストールされたAI(それ)が、だ。その事実から無意識に目をそらし、私は成功の熱に浮かされていた。
その日の夕方。
視界の隅で、通知を知らせるアイコンが荘厳な光を放った。タイレルダイナミクス社のロゴ。私は息を呑み、震える指で通知を開いた。
【祝・内定】
黄金色の、立体的な文字が宙に浮かんだ。
『ハヤマ・ユキ様。厳正なる選考の結果、あなたの採用を内定いたしました。グループディスカッションにおける、他の候補者を圧倒する論理構築能力と、極めて高度な課題解決能力を高く評価したものです』
やった。声にならない声が、喉から漏れた。苦しかった就職活動が、終わった。私はベッドから跳ね起き、すぐに故郷の両親へホロコールをかけた。
画面の向こうで、母は涙を流して「よかった、本当によかった…」と繰り返した。父は「すごいじゃないか!父さんの言った通り、お前の『人間力』が認められたんだな!」と、少し勘違いをしながらも、満面の笑みで喜んでくれた。その言葉が、優しくて、残酷な棘のように胸に刺さった。 私は二人の喜ぶ顔を見ていると、自分の選択はやはり正しかったのだと、信じたかった。
通話を終えると、友人サキからのメッセージが届いていた。
『ユキ、おめでとう!やっぱりすごいや!正直、完敗だったよ。でも、同じグループから合格者が出たのは嬉しい!今度お祝いさせて!』
悔しさを滲ませながらも、誠実な祝福の言葉だった。友情に少しだけ救われた気持ちになる。内定通知、両親の涙、友人の祝福。私は今、間違いなく、人生で最も輝かしい成功の頂点にいた。
その、はずだった。
祝福の余韻に浸る私の視界に、もう一通、別の通知が淡々とポップアップした。AIモデルローンを提供する「ミライ・クレジット」のロゴ。
【AIモデルローン:ご契約内容の確定と、初回お支払いに関する重要なお知らせ】
成功の甘い夢から叩き起こされ、私はこれまで意図的に目をそらしていた、現実と向き合うことになった。契約書が網膜いっぱいに広がる。
借入総額:300万クレジット
月々のお支払い額:8万クレジット(60回払い)
その数字を見た瞬間、私のレキシコンが、頼んでもいない分析結果を冷静に脳内へ投影した。
【警告:この返済プランは、あなたの生涯収入における可処分所得を平均18%減少させます。資産形成における機会損失は、推定800万クレジットです】
タイレルダイナミクス社の初任給は25万クレジット。その三分の一近くが、これから5年間、私の頭脳のレンタル料として、容赦なく引き落とされていく。
頭の芯が凍りつくような感覚。まるで麻酔が切れるように急速に消え失せていく。その時、最後のダメ押しのように、タイレルダイナミクス社の人事部から「内定者向けオリエンテーション・パッケージ」がレキシコンに直接配信された。
パッケージを開くと、人の良さそうな笑顔の人事部長のホログラムが現れ、歓迎の言葉を述べ始めた。
「内定おめでとう。皆さんのような優秀な人材を迎えられて、我々は本当に幸運だ。君たち、そしてその優秀なパートナーであるレキシコンが、これから我が社の利益を最大化してくれることを、心から期待しているよ」
その言葉で、私は全てを悟った。
会社が欲しかったのは、文学を愛し、時に非合理な感傷に浸る「ハヤマ・ユキ」ではない。月額8万クレジットで完璧な答えを弾き出す、高性能な思考エンジン。それだけだ。
私は、自分の頭脳を知らない誰かに明け渡すことで、社会的な地位という名の、輝かしい首輪を与えられたのだ。
成功の光は完全に色褪せ、首にかけられた首輪の、冷たくて重い感触だけが、やけにリアルに残っていた。
私のための、私でない思考 @Enjo-G
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