;;4.闘技場

タイレルダイナミクスの最終選考は、物理的な部屋では行われなかった。

「時間になりましたら、お送りしたリンクからアリーナへご入場ください」。それだけが、事前に与えられた指示だった。

時間通りにリンクを起動すると、意識がすうっと現実の肉体から引き剥がされる。視界が真っ白に染まり、次の瞬間、私は無限に広がる黒いグリッド空間に立っていた。


アリーナ。中央に浮かぶ円卓を囲んで、私を含めた四人の候補者のアバターが、音もなく着席する。サキもいる。彼女のアバターは、緊張でこわばった表情を浮かべていた。この空間で、唯一色と光を持つのは、各人の肩口に浮かぶレキシコン・ネクサスだけだ。まるで、魂だけがここに集められたかのようだった。


やがて、空間の支配者として、巨大なモノリスが私達の前に出現した。面接官だ。声だけが、空間全体に響き渡る。

「これより最終選考を開始する。諸君らのレキシコンの性能、そしてプロンプト力を、存分に示してもらいたい」


モノリスの表面に、白い文字で課題が浮かび上がった。


【課題:レキシコン・ネクサス社会の浸透以降、新たに生まれた社会階層と価値観の出現を分析し、10年後に主流となる文化・消費トレンドを予測せよ。そして、その新しい市場を独占するための、全く新しい製品またはサービスを企画・提案せよ。同時に、そのサービスが引き起こすであろう倫理的な批判を予測し、それを未然に防ぐための広報戦略も立案すること】


喉が渇く。経済や経営の問題ではない。未来の、人間の「心」を予測しろというのか。あまりに巨大で、曖昧な問い。どうしよう。そう思ったのは、ほんの一瞬。私の思考より速く、レキシコンが脳内に囁いた。

【思考を開始します。あなたは黙って座っていてください】


ディスカッションが始まると、他のエリート候補者たちは、膨大な経済データや統計分析から未来を語り始めた。「スコア下位層の消費動向は…」「エリート層の可処分所得から予測される市場規模は…」。彼らのレキシコンは、過去のデータから未来を導き出す、優等生の回答を紡ぎ出していく。


私は静かに座って、それを聞いていた。私のレキシコンは、彼らの議論を聞きながら、全く別のデータにアクセスしていた。それは、エリートたちが「ジャンクデータ」として無視する、アンランクたちのコミュニティで生まれる音楽、非合法のストリートアート、彼らだけが使う隠語(スラング)。私の文学部の知識が記録されたデータベースの片隅で、歴史上のカウンターカルチャーの興隆パターンと、それらの現代の兆候が、恐ろしい速度で結びついていく。


やがて、議論が停滞した完璧なタイミングで、私のレキシコンが「GO」のサインを出した。私は、まるで預言を告げる巫女のように、滑らかに口を開いた。


「皆様の分析は、過去の延長線上にすぎません。真の次世代トレンドは、スコアで評価されることを放棄した『アンランク』たちの、『非効率への渇望』から生まれます」


シン、とアリーナが静まり返る。


「彼らは、最適化された人生に背を向け、偶然性や手触りのある不確実性、すなわち『アナログな実感』を求め始めています。この価値観は、10年後、最適化された人生に疲れたエリート層にも必ず伝播します」


私の口は、止まらない。知らないはずの社会学理論、分析したこともない文化の潮流。まるで、私が知らない誰かが、私の身体を使って未来を語っているかのようだ。


「そこで、我が社が提供すべき新サービスは『アニマ(Anima)』です。これは、ユーザーのレキシコンを一時的に、安全な仮想壁の内側に隔離することで、『管理された非日常』を体験させるサービスです。AIに頼らずに道に迷う喜び、偶然出会った音楽に感動する体験。我々はその『アナログな実感』を、月額課金制の高級エンターテイメントとして販売するのです」


「倫理的な批判――『人間性の搾取だ』という声は、こう回避します。『アニマ』は、レキシコン社会を極めたエリートだけが享受できる、最高の贅沢なのだと。『システムをマスターし、そして自らの意思で、システムから一時的に降りる権利を得る』。我々は、反逆さえも商品にするのです」


誰も、何も言えなかった。それはあまりにも独創的で、あまりにも的確で、そして、あまりにも人間の心を弄ぶ、悪魔的なビジネスプランだった。

文学を愛し、予測できない人の心の美しさを信じようとしてきた、本来の私。その私が持つ人間性への理解が、今、人間性を商品化し、搾取するための完璧なロジックとして、私の口から語られている。


成功を確信した眩しい光の中で、私自身の魂が、静かに売り払われていくような気がした。


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