;;3.変容
翌朝、ユキはアラームが鳴る7分前に、すっきりと目覚めた。レキシコンが、私の睡眠サイクルを完璧に管理し、最も浅いレム睡眠の瞬間に覚醒させたのだ。昨夜までの、不安に苛まれて眠りについた重苦しい身体が嘘のように軽い。
網膜に、涼やかなデザインのHUD(ヘッドアップディスプレイ)が浮かび上がる。
【おはようございます、ユキ。睡眠クオリティ:98.7%(最適)。推奨される朝食:電解質を含む水300ml、タンパク質を25g含有する栄養ペースト。本日のスケジュールは、14:00の最終選考で最高のパフォーマンスを発揮できるよう最適化されています】
言われるがままに栄養ペーストを口にしながら、洗面台の鏡に向かう。歯を磨き始めると、レキシコンが新たな情報を投影した。
【あなたのブラッシングパターンは効率87%です。手首の角度を3度修正することで、奥歯の歯垢除去率が9%向上します】
私はそのアドバイスに従い、手首の角度を修正した。磨き終わった歯は、いつもよりツルツルしている気がした。便利だ。あまりにも便利で、そして少しだけ、気味が悪かった。私の無意識の癖さえも、このAIは完璧に把握している。
午後、最終選考のグループディスカッションに備えて、サキとバーチャル会議室で最終調整をしていた。昨日までの私なら、サキの意見に頷き、補足するのが精一杯だっただろう。だが、今は違う。
「…だから、企業は短期的な利益より、長期的なSDGsへの貢献を優先すべきだと思うんだ。2038年の有名な論文にもあるように…」
サキが自信満々に語る。彼女が言い終わる前に、私のレキシコンは脳内に完璧な反論を生成していた。私は、それを滑らかに口に出す。
「サキ、その意見は興味深い。でも、その根拠となる2038年の論文には、統計的なサンプリングバイアスが指摘されているわ。むしろ、2040年に発表されたこちらのレポートの方が信頼性が高い。それによると、SDGsへの過度な投資は、企業の体力を削ぎ、結果的に持続可能な貢献を阻害する可能性があるとされている。重要なのは優先順位付けと、利益と貢献を両立させるハイブリッドモデルの構築よ」
私の口から、私が知らないはずの知識と、私が持っていなかったはずの自信が溢れ出す。サキは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、それから満面の笑みを浮かべた。
「すごい、ユキ…! まるで別人みたい!やっぱりアップグレードして正解だったんだよ!」
サキの素直な賞賛が、チクリと胸を刺す。嬉しい。自分が認められたようで、嬉しい。でも、今、評価されたのは私ではない。私の頭脳に寄生する、月額8万クレジットのレンタル思考だ。その事実が、輝かしい高揚感に、暗い影を落としていた。
サキとの模擬戦を終えた後、私はひどく疲れていた。レキシコンからの絶え間ない情報と提案が、脳のリソースをじわじわと蝕んでいく。何か、人間的なものに触れたい。私は本棚の奥から、学生時代に夢中で読んだ、紙の詩集を引っ張り出した。インクの匂い、ざらりとした紙の感触が、少しだけ私を私自身に戻してくれる。
一編の詩に、没頭しようとした、その瞬間。
レキシコンが、詩集のページの上に、冷たい警告文を投影した。
【警告:この活動はレキシコン・スコアの向上に寄与しません。非効率です。最終選考までの残り6時間、思考モデルを最高効率に保つため、タイレルダイナミクス社の企業理念に関するドキュメンタリーの視聴を推奨します】
私はその警告を無視して、詩の言葉を追い続けようとした。だが、警告ウィンドウは消えない。それどころか、私が読んでいる行の上に、半透明のまま重なり続ける。読もうとする視線を邪魔するように。
【推奨アクションを実行しますか? はい / いいえ】
「いいえ」を心の中で選択しても、警告は消えない。まるで駄々をこねる子供のように、私の視界の真ん中に居座り続ける。
【最終選考での成功確率が低下する可能性があります。実行しますか?】
紙の上の美しい言葉たちが、警告ウィンドウの光で滲んでいく。
私は、抵抗を諦めた。深く、長い溜息をつき、詩集を閉じる。ざらりとした紙の感触が、ひどく懐かしく、遠いものに感じられた。それは、私の一部が過去になった瞬間だった。
壁に向かって、私は力なく呟いた。
「……分かったわ、レキシコン。ドキュメンタリーを見せて」
【承知しました。最適な学習効果を得るため、再生速度を1.75倍に設定します】
私の顔が、企業のプロモーション映像が放つ青白い光に照らされる。完璧なパフォーマンスのための、最後のチューニング。
私の「覚醒」は、私自身の「魂」が、深い眠りにつくことによって、完成するらしかった。
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