9話 休日と不器用なエスコート

 翌朝。


 王都の空は、雲一つない快晴だった。


 宿屋『金羊亭』の前で、音瀬奏は待っていた。


 今日は特別な買い出しの日だ。いつもの作業着のようなシャツではなく、少しだけ余所行きの清潔なジャケットを羽織っている。


 道行く人々が、時折彼を振り返る。黒髪の優しげな青年が誰かを待っている姿は、朝の光の中で絵になっていたからだ。


「……遅いな」


 約束の時間を過ぎて、もう三十分が経とうとしていた。


 奏は教会の鐘を見上げ、眉を下げた。怒っているのではない。純粋に心配していたのだ。


「何かあったのかな。またイビルボアの群れが出たとか……急な任務が入ったのかもしれない」


 相手は王宮騎士団の隊長だ。自分の買い物などに付き合わせている場合ではないのかもしれない。


 もしそうなら、邪魔をしてはいけない。今日は諦めて帰るべきか――奏がそう考え始めた時だった。


「――カナデ!」


 通りの向こうから、切羽詰まった声が聞こえた。


 奏が振り返ると、人混みをかき分けてこちらへ走ってくる、一際背の高い女性の姿があった。


「あ、ライラ! よかった、無事だったんだ」


 奏はホッとして駆け寄った。


 ライラは奏の前で急停止し、膝に手をついて激しく呼吸を整えていた。


 顔を上げた彼女の視線は、奏よりも少し高い位置にある。


「す、すまない……! 遅れてしまった……!」


「ううん、全然大丈夫だよ。それより、何かトラブルでもあったの? 急な呼び出しとか」


 奏が気遣わしげに尋ねると、ライラは顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。


「あ、ああ……まあ、そのようなものだ。……予測不能な事態が発生してな。装備の選定に、著しく時間を要してしまったのだ……」


(嘘ではない! 嘘ではないぞ! クローゼットの前で『この服では胸が苦しいか?』『いや、こちらのスカートでは腰のラインが出すぎるのでは……』と二時間も格闘していたのは、私にとっては死活問題の緊急事態だったのだから!)


 彼女の内心は、嵐のような動揺に包まれていた。


 昨夜、奏から「買い物に付き合ってほしい」と言われた瞬間から、彼女の思考回路はショート寸前だったのだ。


 『男女での買い物』。それはすなわちデートを意味する。


 騎士団の宿舎に戻ってからも、彼女は枕に顔を埋めて足をバタつかせ、今朝は夜明け前から起きて準備をしていたのに、結局この有様だ。


「そうだったんだ。大変だったね」


 奏は事情を深く追求せず、優しく微笑んだ。


 そして、改めてライラの姿を見て、目を丸くした。


 そこに立っていたのは、いつもの銀の鎧に身を包んだ「鉄の女騎士」――ではなかった。


 清潔な白いブラウスに、スラリとした長身を包む紺色のロングスカート。


 普段は硬い胸当ての下に隠されているが、薄手の生地越しには、驚くほど豊満なバストの曲線が浮き彫りになっている。それは豊かな果実のような瑞々しい重みを感じさせ、思わず視線が吸い寄せられるほどの存在感を放っていた。


 腰には細身の革ベルトが巻かれ、そこから流れるように広がる腰周りのラインは、彼女の安産型とも言える女性らしいヒップの丸みを艶やかに強調している。


 動くたびに揺れる柔らかなシルエット。それは、戦場に立つ騎士の厳しさとは対極にある、成熟した大人の女性の肉体美そのものだった。


 燃えるような赤髪は、いつもの厳しい束ね髪ではなく、ハーフアップにして赤いリボンで留められている。


 その姿は、どこからどう見ても、街に遊びに来たモデルのように美しい深窓の令嬢だった。


「その格好……すごく似合ってるよ。鎧じゃない姿を見るのは初めてだったから、びっくりした」


「なっ……!」


 不意打ちの褒め言葉に、ライラは言葉を詰まらせた。


 カッと顔が熱くなるのを感じる。二時間悩んだ甲斐があったというものだが、素直に喜ぶには恥ずかしすぎた。


 彼女は照れ隠しのために、わざとらしく奏を見下ろすように胸を張った。


 その動作で、豊かな胸元がさらに強調され、奏は目のやり場に困って視線を逸らした。


「こ、これは変装だ! そう、カモフラージュだ! 大金を持つお前の護衛をするのに、騎士の鎧では目立ちすぎるだろう? だから、あえて一般市民に溶け込むような服装を選んだのだ!」


「なるほど、さすがライラだね。考えられてるなぁ」


「う、うむ。そういうことだ」


 ライラは咳払いを一つした。


 奏の純粋な感嘆の眼差しが直視できず、彼女はくるりと背を向けた。


「さあ、行くぞ! これ以上時間を無駄にはできん。今日の私は忙しいのだ、お前の財布の紐を管理せねばならんからな!」


 彼女は早口でまくし立てると、長い脚で颯爽と歩き出した。


 その耳まで真っ赤になっていることを、後ろをついていく奏は不思議そうに見つめていた。


   §


 二人が向かったのは、王都の中央広場に面した大市場だ。


 食料品から日用雑貨、武器防具まで、ありとあらゆるものが揃う活気ある場所である。


 人混みの中、ライラは常に奏の半歩前を歩き、鋭い視線で周囲を警戒していた。


 長身のライラが前を歩くと、奏はその背中に隠れてしまいそうだ。


「いいか、カナデ。王都の市場にはスリが多い。その革袋はしっかりと抱えておけよ。不審な動きをする奴がいたら、即座に私が制圧する」


「制圧しちゃダメだよ。……でも、ライラがいると安心だね」


「ふん、当たり前だ。私は王宮騎士団の隊長だぞ」


 ライラは鼻を鳴らしたが、その口元は緩みっぱなしだった。


 頼りにされている。


 そして何より、こうして二人で街を歩いているという事実が、彼女の胸を高鳴らせていた。


 すれ違う人々が、二人を見てひそひそと噂話をしている。


「おい見ろよ、凄まじい美人だ……」


「あのプロポーション、たまらないな。どこの貴族様だ?」


「隣にいるのは……弟さんかねぇ。姉さんがしっかり手綱を握ってる感じだな」


「ああ、頼れる姉貴と、優男の弟って感じでお似合いの姉弟だ」


 その声が聞こえるたびに、ライラの肩が強張った。


(きょ、姉弟……だと……!?)


 ライラは愕然とした。


 彼女の脳内シミュレーションでは「お似合いの美男美女カップル」と言われるはずだったのだ。


 しかし現実は非情である。


 長身で抜群のスタイルを誇る、どこか威厳のあるライラ。対して、彼女より少し背が低く、童顔で穏やかな雰囲気の奏。


 その並びは、どう見ても「美人でグラマラスな姉と、可愛らしい弟」だった。


(くっ……やはりこの身長がいけないのか? それとも、この……母性を感じさせると言われる体型のせいなのか!?)


 ライラは複雑な心境で唇を噛んだ。


 一方の奏は、そんな周囲の声など気にも留めず、ニコニコと商品棚を眺めている。


「そ、それで、まずは何を買うつもりだ?」


 ライラは気を取り直して尋ねた。


「えっとね、まずは『みんな』のご飯かな」


 奏はメモを取り出し、乾物屋の前で足を止めた。


「すみません、この最高級の殻付きアーモンドと、くるみを袋いっぱいにください」


 店主の親父が目を丸くする。


「兄ちゃん、こいつは貴族様が茶菓子にするような高い豆だぞ? 袋いっぱいなんて、金貨一枚はするが……」


「はい、これで」


 奏はライラから預かった袋から、迷いなく金貨を取り出した。


 店主は驚きのあまり固まっていたが、慌てて豆を袋に詰め始めた。


「……チップへの土産か」


 ライラが呆れたように、しかし優しく尋ねた。


「うん。チップ、ドングリばかり食べてるから、たまにはいいものを食べさせてあげたくて」


 奏は嬉しそうに重たい袋を受け取った。


 続いて向かったのは精肉店だ。


「最高級の熟成干し肉をください。塩分控えめのやつで」


「はいよ! ……って、これを全部かい!?」


 トラ(猫)のための土産だ。


 さらに八百屋へ行き、朝採れの瑞々しい野菜を大量購入。これはミミ(ウサギ)とスイ(水鳥)のためだろう。


 あっという間に、奏の両手は大きな紙袋で埋め尽くされた。


 その使いっぷりの良さに、ライラは感心するしかなかった。


「自分のものは買わないのか?」


「うーん、特には。あ、でも……」


 奏は少し考え、一軒の露店の前で足を止めた。


 そこは、女性向けの装飾品や小物を売る店だった。


 色とりどりのリボンや、硝子細工のアクセサリーが並んでいる。


 ライラの心臓が跳ね上がった。


(ま、まさか……私へのプレゼントか!? いや、期待するな。彼はそういう気が利くタイプではない……はずだが、もしや?)


 彼女が息を飲んで見守る中、奏は店主に話しかけた。


「すみません、この丈夫そうな布のリボン、全色ください」


「へい、毎度あり! 彼女さんへのプレゼントかい?」


 店主が冷やかすと、奏は爽やかに笑って答えた。


「いえ、ウサギと猫の首輪にしようと思って」


 ライラは膝から崩れ落ちそうになった。


(動物か!! そうだよな、お前はそういう奴だよな!)


 内心で叫びつつも、どこかホッとしている自分もいた。もし本当にプレゼントなど渡されたら、その場で気絶していたかもしれないからだ。


「よし、これで買い物は終わり……かな」


 奏は満足げに荷物を抱え直した。


 すでに一人で持てる量ではない。袋からは長ネギやフランスパンが飛び出している。


「貸せ、半分持つ」


 ライラが手を出すと、奏は首を振った。


「ダメだよ。ライラは護衛なんだから、両手を空けておかないと。それに、女性に重いものを持たせるわけには……」


「……この程度の荷物で戦闘に支障が出るほど、私は柔ではない。それに、私の方が力も背もあるのだ。効率を考えれば私が持つのが妥当だろう」


 ライラは強引に、野菜と干し肉の入った最も重い袋を奪い取った。


 その動きはあまりに軽々としていて、奏が止める隙もなかった。


「あ、ありがとう。……やっぱり、ライラは頼りになるね」


 奏が少し悔しそうに、でも嬉しそうに笑う。


 その笑顔を見下ろしながら、ライラは胸の奥がチクリとした。


 頼りになる、と言われるのは嬉しい。騎士としては最高の褒め言葉だ。


 だが、一人の女性としては、「守ってあげたくなる」と言われたい願望もどこかにあるのだ。


(まあいい。この男を守れるのは私だけだと思えば、悪くない気分だ)


 ライラはそう自分を納得させ、先を促した。


「さあ、用が済んだなら戻るぞ」


「うん。あ、でもその前に、少し休憩しない?」


 奏が指差したのは、広場の端にあるオープンカフェだった。


   §


 二人はカフェのテラス席に座った。


 足元には戦利品の山。


 テーブルには、冷たい果実水と、焼きたてのパンケーキが置かれている。


「……生き返るなぁ」


 奏は果実水を一口飲み、息をついた。


 今日は日差しが強く、荷物を持って歩き回ったため、二人とも少し汗ばんでいた。


「……しかし、本当にお前は動物のことばかりだな」


 ライラはパンケーキを切り分けながら、少し拗ねたように言った。


「そうかな? でも、彼らが贈り物をくれたから、このお金があるわけだし」


「それはそうだが……。もう少し、自分の欲望のために使ってもバチは当たらんぞ。服を買うとか、美味いものを食うとか」


「美味しいものなら、今食べてるよ」


 奏はパンケーキを頬張り、幸せそうに目を細めた。


 その欲のない姿を見ていると、ライラの中にあるモヤモヤとした感情――自分の方を見てほしいという淡い独占欲――が、毒気を抜かれて消えていくようだった。


「……そうだな。お前は、それでいいのかもしれん」


 ライラもパンケーキを口に運んだ。甘い蜂蜜の味が広がる。


 彼女はふと、視線を感じて顔を上げた。


 奏が、じっとこちらを見上げている。


「な、なんだ? 口にクリームでも付いているか?」


「ううん。ただ……ライラって、甘いもの食べる時はすごく幸せそうな顔をするんだなって」


 ライラはむせ返り、慌てて口元をナプキンで押さえた。


「な、何を言うか! 私は常に冷静沈着、鉄の女と呼ばれる騎士団長だぞ! 甘味ごときで顔が緩むなど……!」


「えー? 昨日の夜、寝てる時もすごく幸せそうな顔をしてたよ。子供みたいで可愛かった」


 ライラの心臓を、見えない矢が貫いたような衝撃が走った。


 顔から火が出るというのは、こういうことを言うのだろう。彼女は耳まで真っ赤になり、言葉を失った。


(か、可愛い……だと……!? この男、年下のくせに……天然で私を殺しに来ているのか!?)


 奏は悪びれる様子もなく、ニコニコしている。


 ライラは震える手でカップを持ち、冷たい水を一気に飲み干した。そうでもしないと、心臓の音が聞こえてしまいそうだったからだ。


「……お前、そういう台詞は、王都の令嬢たちに軽々しく言うものではないぞ」


「え? 事実を言っただけだけど」


「それがダメなのだ! ……まったく、お前が無自覚な女たらしだということがよくわかった」


 ライラは溜息をついたが、その表情は怒っているというより、困り果てているようだった。


 その時、奏がふと思い出したようにポケットを探り始めた。


「そうだ。ライラ、手を出して」


「ん? なんだ?」


 言われるままに手を差し出すと、奏はその上に小さな包みを置いた。


 市場の片隅にあった、小さな露店で買ったもののようだ。


「これは?」


「お礼だよ。換金の手続きをしてくれたり、今日も荷物を持ってくれたり……ライラがいなかったら、僕は何もできなかったから」


 ライラは恐る恐る包みを開けた。


 中から出てきたのは、銀色の小さなブローチだった。


 デザインは音符の形をしており、中央には小さな赤い石が埋め込まれている。安物かもしれないが、センスの良い品だ。


「……いいのか? 動物たちのためのお金だろう?」


「これは僕のポケットマネーから。……その赤い石、ライラの髪の色に似てると思って」


 奏は少し照れくさそうに頬をかいた。


「昨日のガオケレナとかに比べたら、全然安いものだけど……受け取ってくれる?」


 ライラはブローチを握りしめ、うつむいた。


 肩が小刻みに震えている。


「ライラ……? 気に入らなかった?」


「……バカ」


 彼女が顔を上げた時、その瞳は潤んでいた。


 彼女は慌てて目をこすり、精一杯の強がりを見せた。


「こんな……こんな子供騙しのおもちゃで、私が喜ぶとでも思ったか!」


「ご、ごめん……」


「だが! ……お前の感謝の気持ちを無下にするのも、騎士の名折れだ。特別に、受け取ってやる」


 彼女は素早くブローチを胸元の襟に付けた。


 豊かな胸の膨らみの上に、銀と赤のブローチがよく映える。


 彼女はガラス窓に映る自分をちらりと見て、満足げに口角を上げた。


「……悪くない。次の遠征には、付けていってやろう」


「うん、似合ってるよ」


 奏が微笑むと、ライラはもう限界だった。


 これ以上ここにいたら、嬉しさのあまり叫び出してしまいそうだ。


「さ、さあ! 休憩は終わりだ! 早く戻らねば、動物たちが腹を空かせて待っているぞ!」


 彼女は勢いよく立ち上がり、荷物をひったくるように持った。


「行くぞ、カナデ!」


「ちょ、待ってよライラ!」


 早足で歩き出す長身の彼女の背中を見ながら、奏は慌てて追いかけた。


 並んで歩くと、やはりライラの方が少し目線が高い。


 けれど、その距離は来る時よりもずっと近く、親密なものになっていた。


 市場の人混みの中、二人は並んで歩いていく。


 その姿は、噂好きの王都の人々の目には、やはり仲睦まじい美人の姉と可愛い弟のように、あるいは少しちぐはぐで微笑ましい恋人同士のように映ったことだろう。


 騎士と音楽家。


 不器用な二人の休日は、たくさんの荷物と、小さなブローチという思い出を残して、穏やかに過ぎていった。

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