肆:地上へ戻る前夜

 焚き火はチリチリと細かな火花を散らす。


「彼は病院で生まれてない。バーコードもない。だから、名前が必要だった」

 シバが低く言った。

 サイキが、まだ名前にこだわっていた。


「リンゴは、誰にも育てられてない。エサやったら育ってるだけだ」

 ハッチが笑顔で言った。

「育ってるってことは、生きてるってことだよな!」

「お前は、少しは考えろ。道を間違えすぎなんだよ」と、タロ。

「おれっちは、いろんな道を見たいんだ」

 ハッチは、自分の尻尾をくるくると追いかけた。


「……ところで、リンゴは、何食べてる?」

「粉末ミルクを、かっぱらってくるぜ。地上から」

 ハッチが立ちどまり、言った。

「水もだ」と、タロ。「空き缶であたためる」と、ポン太。

「そうか」サイキは、リンゴの丸い瞳を覗き込んだ。

「地上か……タカシは、なぜ俺を落としたんだろう?」


 それを聞いて、リュウジはひどく困った顔をした。

「びっくりしたぞ。地上は残った人間で上手くやってるもんだと思ってた。確かめに戻れ、地上へ」

「お前らは?」

「連れて行けよ」


 タロが、小さなコロコロの身体をゆすり、一歩前に出た。

「俺はついていく。地上も面白そうだ」

「お前が一番おかしいんだよ。次に中身が出てきたら、潰すぞ」とサイキが脅す。

「何言ってるんだ。ここで一番強いのは、言っとくが俺だからな」

「まったく、ハムスター野郎が!」と、リュウジが指先でつついている。

 中身が小さいのを知り、少し手加減しているようだった。


「そうだな」

 サイキは立ち上がった。

「赤ん坊か。オムツはどれだけある? 地上に期待するなよ」

「そうなのか? マンションのストックにないのか?」

「自治体の管理を舐めるなよ、ガチガチに固められてるんだ」

「犬猫ネットワークを使うぜ。俺たち、色々役にたつ」と、ハッチが吠えた。


 地下の空気が、少しだけ軽くなった気がした。

 遠くから、ケチャップの匂いが漂ってくる。


「ちょっと見回り行ってくる。奴らの残骸いたら、掃除しないとな。リンゴを頼む」と鉄パイプを持った。

「俺も行く」と、ポン太。


 犬たちが、尻尾を振っていた。ベビーキャリーは地面に置かれていた。リンゴは仰向けに寝そべり、あたりを見ている。ハッチは「かわいいよなあ」と舌を出した。


 ハッチは不意に「うわー!リンゴ!ちょっと匂うな?」と声を上げた。

「オムツだあ」とハッチは寝床らしい方向へ走っていった。


 サイキは、赤ん坊に手を伸ばしかけ――止めた。

「……手を洗えって、言われてたっけ」

「手を洗う水なんて、ここにはないぜ。遠くの銭湯になる」タロが言った。

「だよな」

 サイキはチノパンの後ろで両手を拭き、赤ん坊の頬に触れた。肌は乾いていて、少しざらつき熱があった。 

 赤ん坊はサイキの顔を見て、口を開けた。明るい音が溢れてきた。


「でもさ……リンゴか」サイキは言葉を切った。

 タロは黙って見ていた。

「でも、って言うなら、お前がつければ」タロが言った。


 サイキは、赤ん坊に指を掴まれていた。

「リンゴ・スターって歌手がいた……その名前、ちょっとカッコ良すぎるんだよ」

「呼ばなきゃいいだろ」タロが言った。

「名前は、関係の始まりだが、関係のすべてじゃない」


 リンゴの小さな指は、力強かった。

 首を支え、抱き上げると、じっと丸い眼が見つめていた。

「いや、名前は呼びたいだろ……なんだっけ、あのバンド、ヘラクレズ?」

「ビートルズだ」

 リュウジが見回りから帰ってきて言った。

 戻ってきたハッチは、口にオムツとウエットティッシュをくわえていた。

 リュウジは「確かオンボロのアコギがあった」と言いつつ、寝ぐらに引っ込んだ。

「あ、おいリンゴ、まだ俺が見るのかよ」

 リュウジは背中を向けたまま、手を上げてみせた。


 すっかり赤ん坊の体温が、サイキの体に馴染なじんでしまっている。

 排便の温もりも、臭いも。


 戻ってきたリュウジの手には、アコースティックギターと、透明の袋入りの卵があった。

「いいギターだ」

「ああ」

「オムツは替えておいた」

「ありがとな」



 サイキは、そのピカピカのギターはオンボロとは言わないんだよ、と思った。

 きっとリュウジは、ここまで大切に大切に磨いてきたのだろう。

「んじゃ、訪問のお礼と、明日のための景気付けに、一曲」と、スタンド・バイ・ミーを歌い出した。

 

 残りの皆で卵にかぶりついた。


 滑らかな英語、抑揚よくよう、落ちついた声。

 優しく、少し寂しげな歌声が地下の静寂に落ちていく。


♪When the night has come...


       ••✼••

 

 歌が終わり、静けさが戻ると、火が、ぱちぱちと音を立てる。湿った木片が爆ぜるたび、犬たちの耳がぴくりと動く。

 

「……明日、戻るんだな」シバが言った。


 サイキは頷いた。

「見に行くだけだ。何が変わったのか」

「復讐か?」

「違う。……まだ信じたいんだよ」


 ポン太が火を見つめながら言った。

「地上って、そんなに悪いとこだったっけ?」

「悪いとか良いとかじゃない。……俺はあそこにいて、落ちた。それを見過ごせないだけだ」


 リンゴがくしゃみをした。ハッチが慌てて布をかけ直す。

「寒いかな? でも、火は熱すぎるし……」

「大丈夫だ」リュウジが言った。「こいつは、強い。笑ってるからな」


 タロが火を見ていた。「地上に戻るなら、俺も行く」


 サイキは火を見つめた。「明日、出る」サイキは言った。

「お前らはどうする?」


 犬たちは何も言わず、小枝のはぜる音だけが、夜を刻んでいた。


「戦車が落ちてきた日、上からたくさんの足音が聞こえていた」ポン太が言った。

「そのあと、名前を聞いた」タロが続けた。

「タカシと言う名前だ。はっきりとは聞こえなかったが」


 サイキは顔を上げた。焚き火の向こうに、犬たちの眼があった。


「タカシが、なんだって?」

 サイキの声は、焚き火の音にかぶさるようにして出た。タロはすぐには答えなかった。


「名前を聞いた。上で誰かが呼んでいた」

「誰が呼んでた?」

「わからない。声は遠かったんだ。女だ」


 サイキはリンゴを抱き直した。赤ん坊は眠っていた。


「俺と組む前か。あいつはどんなとこを辿って、あの役職についたんだろう」


 焚き火の火が、少しだけ揺れた。サイキの声は、誰にも向けていないようでいてしっかり届く声だった。


「お前ら、いつからここにいる? リュウジもだ。いつから潜ってた」


 犬たちが、タロを見て、タロが話し出す。


「数ヶ月前だ、一度大きなホールが開いた時があった。戦車が落ちてきた。皆はすでにここにいた」


 ポン太が火を見つめたまま、口を開いた。

「俺は……覚えてないな。気づいたら、ここにいた。誰かに呼ばれた気もするし、勝手に来た気もする」


「おれっちは、道に迷ってたら、ここだった」ハッチが笑う。

「三回くらいじゃなくて、たぶん三十回くらい道を間違えた」


 シバは黙っていた。

 サイキはリュウジを見た。

「で、お前は?」

 リュウジは少しだけ目を伏せた。地上へ行くことを少し躊躇しているのかもしれない、とサイキは思う。

「俺もその時に落ちた。犬が赤ん坊を連れててな。その辺で、ベビーキャリーを見つけて俺が世話をしてる」


 焚き火が、パチンとはぜた。

「……俺は、戻るぞ」

「見に行く。俺がいた機関の何が壊れたのか。 タカシが何を見ていたのか確かめる。あいつは卵で俺を援護してくれたと信じたい」

「俺たちも行く」リュウジが答えた。


 丸い月が空を飾っている。夜が深まり、皆の心はすでに次の日に向かっていた。



 (了)

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あめをふむ。Re:boot!!!( お題:卵) 柊野有@ひいらぎ @noah_hiiragi

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