参:毛皮の下

 マンホールの下、天井と瓦礫の隙間に広がる赤い液体。それは血ではない。

 ケチャップのように粘り、甘い匂いがした。


「……なんだこれ、美味しそうな匂い」ポン太が鼻をひくつかせる。

「おい、なんでも食おうとするな」サイキが呆れる。


 ハッチが舐めようとして、タロに止められた。

「何回も言っただろう。やめとけ。あれは地管グリムシステムから漏れた、濃縮された『非効率なエネルギー』だ。食ったら都市に喰われるぞ」


 サイキは、リュウジから渡された赤ん坊を抱えたまま、怪異の残骸を見下ろす。

 リンゴの小さく柔らかなその腕にはバーコードがない。都市に認識されない存在。だが、怪異はその赤ん坊にだけ反応した。


「……この場合、この子が、鍵ってことだよな」リュウジが呟く。


「鍵って。システムに強制的に過負荷接続を発生させる『ゼロ・コネクター』ってことか?」

「多分な」


 シバが、怪異の体液を避けながら歩く。

「バーコードのない者は、都市の外側にいる。怪異は、都市の内側を守るために生まれた。つまり、あの子は……都市にとって異物だった」

「だから排除しようとしてくるのか」とサイキが言う。


「あのさ、人間が、それを生み出したのか?」

 ポン太が、時間が経ち、濁り始めたケチャップの海を見て言う。

「異物っていうか、オレらから見たら、ただの赤ちゃんだぞ」


 ハッチがフンフンと、リンゴの足を嗅いだ。「ケチャップまみれの赤ちゃんって、なんか肉の塊でうまそうだな」

「だから、食うなよ」と、サイキ。


 タロは静かに言った。

「都市が認識しない命は、都市にとって予測不能なノイズだ。だから、怪異は反応した。だが、俺たちは、缶詰があれば、誰でも仲間だ」

「缶詰な。ほい、今回のお礼だ。助けてくれてありがとよ」サイキがツナの缶詰をタロに渡す。


 赤ん坊がくしゃみをした。ケチャップの匂いに、鼻がむずむずしたらしい。

「とりあえず、風呂と飯だな。あと、ケチャップはもう見たくない」サイキはリンゴの口元のタオルで、リンゴの鼻水を拭いた。


「風呂だと? 赤ん坊のウエットティッシュで拭いて終わりだろ」とタロが言う。

「マジか」と、サイキはガックリ肩を落とした。

「そこだけは、地上の方が良さそうだ。温泉はあるからな」


リュウジが吹き出した。

「犬たちはな。温泉に浸からないんだ。あるぞ、温泉。地下にもな」

「は? なんだと。このポメ野郎。嘘つくなよ」

「ただ、近くにないから、明日地上に出る前までには入れないだろうな」

「ジーザス...! そういうことか」


 リュウジは赤ん坊を抱えたまま、首を振った。

 サイキは甘い匂いの漂うケチャップの残骸から離れ、ねぐらの焚き火跡の瓦礫の上に腰を下ろし、空を見上げる。

「……明日の朝だ。地上、戻れるかな」


 そのとき、タロがごそごそと動き出した。

「……んー……もう限界だ」そう言ったかと思うと、ケチャップのかかった毛玉がぶるっと震えた。

ピチピチとケチャップがあたりに飛び散った。


 バサッ


 着ぐるみを脱ぐように、背中から茶色い毛皮が裂けて、中からさらに小さな獣が飛び出した。尾はチョロっと小さくハムスターくらいの動き、瞳がきらりと光った。

 ポメラニアンの半分ほどの大きさしかない。


「……はぁぁぁ、やっと出られた。苦しかった……」


 小さな獣は伸びをして、当たり前のようにサイキたちの前にちょんと座った。

 

「は?」

 サイキが見つめているうちに、脱いだ着ぐるみを裏返してたたみ、その上にタロだったものは転がった。

 リュウジは絶句した。

 ポン太が腹を抱えて笑い転げる。

「お前、ずっと着ぐるみの中でガマンしてたのか」


 ハッチが目を丸くして言った。「それ、何。犬じゃない……モルモットか」

 シバはぼやく。「……違うな。あれは、何か別のものだ」



 タロはキラキラの黒目を上目遣いに皆に向けた。

「言わなかったか。俺は研究所から逃げてきた、キメラだ」


 誰も、その正体を問わなかった。問うべきではないと、なぜか全員が思った。

 いつか。

 このかわいい生き物を抱き上げてなで回したいと、リュウジもサイキも強く思いつつ、黙っていた。

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