第4話 夜の回廊

 消灯十分前。


 吉備高原学園の校舎は、昼と夜の境目に沈んでいた。

 窓の外はすでに暗い。だが廊下の灯りはまだ残っていて、

 影だけが長く伸びている。


 黒瀬恒一は、腕時計を一度見てから立ち止まった。


(……予定より早い)


 放課後の調査は終えた。

 同席命令も、今日はここまででいい。

 そう判断して、寮へ戻る――はずだった。


「やっぱり来たか」


 背後から、聞き慣れた声。


 振り向くまでもなく、誰かわかる。

 鷹宮玲央は、回廊の柱にもたれ、腕を組んでいた。


「……用件は終わったはずだ」


「調査はな。

 だが“命令”は、まだ終わっていない」


 黒瀬は眉をひそめる。


「同席は、作業中のみだ」


「誰が決めた?」


「規定上――」


「規定には、“夜に会うな”とは書いてない」


 鷹宮は、静かに歩み寄る。

 足音は小さい。

 わざとだ。


「それにさ」


 声を落とす。


「君、今夜、巡回だろ」


 黒瀬は否定しなかった。

 巡回表は、評議会内で共有されている。


「……だから何だ」


「同行しよう」


「不要だ」


「命令違反ではない」


「……効率が落ちる」


「一人より二人の方が、死角は減る」


 正論だった。

 それが一番、厄介だ。


 黒瀬は数秒、沈黙した。

 そして、短く言う。


「……勝手に付いてくるな。

 正式な同行なら、こちらが指示する」


 鷹宮の口角が上がる。


「つまり?」


「……許可する」


 言ってから、胸の奥が少し騒いだ。

 だが、引き返せない。


 ――夜の回廊。


 消灯のベルが鳴り、

 校舎は一気に静まった。


 黒瀬が先を歩く。

 鷹宮は半歩後ろ。


 懐中電灯の光が、壁をなぞる。

 昼間には気づかない傷や、

 古い掲示の跡が浮かび上がる。


「こうして見るとさ」


 鷹宮が言う。


「学園って、閉じた箱だな」


「全寮制だからな」


「逃げ場がない」


「逃げる必要はない」


「……本当にそう思ってる?」


 黒瀬は歩みを止めなかった。


「ここは、選んで来る場所だ」


「君は?」


 問いが、鋭く差し込む。


「……選んだ」


「そうか」


 鷹宮は、それ以上追わなかった。

 だが、歩調を揃える。


 階段を下りる。

 足音が、二人分になる。


「なあ、黒瀬」


「話すな」


「巡回中だ。知ってる」


 鷹宮は小さく笑い、声を抑える。


「君が夜に歩くの、初めて見た」


「何度も見ているはずだ」


「遠くからな。

 並ぶのは初めてだ」


 その言葉が、妙に胸に残る。


 談話室前。

 昨夜、灯りがついていた場所。


 黒瀬は一瞬だけ、視線を向けた。

 灯りはない。

 当然だ。


「……昨日のこと」


 黒瀬が、低く言う。


「規則違反としては、記録していない」


「知ってる」


 鷹宮の返事は早い。


「君は、そういうところで誤魔化さない」


「誤魔化している」


「違う。

 君は“判断”した」


 回廊の突き当たり。

 窓の外に、霧が溜まっている。


 黒瀬は立ち止まり、

 鍵の確認をするふりをして言った。


「……判断は、正当な理由がある場合のみだ」


「じゃあ、昨日は?」


「……」


 答えられない。


 鷹宮は、黒瀬の横顔をじっと見た。


「君はさ」


 声が、低い。


「俺を“違反者”として見なかった」


「仕事相手だ」


「それだけ?」


 黒瀬は、鍵から手を離し、

 真っ直ぐ前を向いた。


「……それ以上は、規則外だ」


「規則外、か」


 鷹宮は、その言葉を噛みしめるように繰り返した。


「君は、規則の外に出るのが怖い?」


 黒瀬は、初めて足を止め、

 鷹宮を見る。


「怖いわけではない」


「じゃあ、なぜ出ない」


 沈黙。


 夜の校舎は、答えを急かさない。


「……必要がない」


 黒瀬は、ようやく言った。


「今は」


 鷹宮の目が、わずかに細くなる。


「“今は”、ね」


 その言い方は、

 黒瀬自身が聞かされた言葉だった。


「君、少しずつ俺に似てきた」


「冗談はやめろ」


「冗談じゃない」


 鷹宮は、歩みを進め、

 黒瀬と肩が並ぶ位置に来た。


 距離は、触れない。

 だが近い。


「同席命令、悪くないだろ」


「……仕事の話ならな」


「それでいい。

 仕事でいい」


 鷹宮は、囁くように言う。


「仕事なら、君は逃げない」


 黒瀬は、返せなかった。


 巡回を終え、

 寮の分岐点に立つ。


 A棟とC棟。

 いつもの別れ道。


 だが、今夜は少し違う。


「……ここまでだ」


 黒瀬が言う。


「送らないのか?」


「必要ない」


「そうか」


 鷹宮は一歩下がり、

 それから、ふっと笑った。


「黒瀬」


「何だ」


「夜は、君の顔がよく見える」


 意味のわからない言葉。

 だが、胸がわずかに跳ねる。


「……意味不明だ」


「今はそれでいい」


 鷹宮は背を向け、

 C棟の闇へ溶けていった。


 黒瀬は、その背中を見送ってから、

 自分の胸に手を当てる。


(……規則は破っていない)


 それでも。


 夜の回廊で、

 並んで歩いた感触が、

 消えなかった。


 それが“仕事”の余韻なのか。

 それとも――


 答えは、まだ規則の中にある。

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選択の内側で、君と サファイロス @ICHISHIN28

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