猫になる④
【見覚え】
「ただいまぁ」
「おかえりぃ」
電動歯ブラシの音とジョウの声がミックスされている。 洗面所に行く途中、台所に置かれた空き缶が目に入る。
大学三年の頃、ジョウは山に行きたいという私の要望に、二つ返事をしてくれた。
ただ山の空気を吸いたい、街の景色を高いところから見たいという私の願いは、レンタカーを借りて片道二時間、助手席に座っているだけで叶った。
行きの車内でジョウが何か嘘をついているのは何となく分かっていたが、いつものように他愛のない話をし続けた。
「運転ありがとう」
「いいえ〜。あっちのベンチ座らない?」 ジョウが指さした、町の景色が一望できるベンチに私たちは座ることにした。
「うわぁ。すげぇ綺麗」
夕日が街を照らしている光景は、写真を撮らずにはいられなかった。
カシャ
「そーいやーさ。スマホケース、どしたん?」
前つけていたチャームも、ケースも無い裸のスマホが気になっていた。
「え」
まだ写真を撮っているジョウの横顔が引き攣る。
「あー。前のやつ壊れて、そっから変えてないだけ」
嘘をついている。
「ふーん」
目に映る景色が、さっきよりも濃ゆくオレンジ色に染まっていく様子を二人で静かに見守る。
「シオはさー」
しばらく沈黙だった時間にコンマが打たれる。
「うん」
「好きな人がいたらさ、その人の夢を応援するために、離れたりする?」
「どうだろう」
自分のことを女の子らしいと思うことは少ないが、こう察する能力が存分に発揮される時、自分は女の子なんだと自覚する。
「彼、夢追ってるの?」
「うん。希望の部署に行けるんだって」
ジョウには、付き合って一年の彼氏がいる。
「そうなんだ」
「でも滋賀だって」
ここから滋賀はバスで片道七時間。
「なんだよ滋賀って。どこだよ。まじさ」 どんどん口が悪くなっていくと同時に、声が小さくなっていく。お互い前を向いたまま会話を続ける。
「どうすんの?」
「どうすんだろうね」
何とかなるよ、そんな無責任な言葉を言ったら、全てが終わる気がした。
「あいつ、うちよりも仕事選んだんだって思えてきちゃってさ。何回も話したんだけど、何回もそうじゃない、って言ってたけど、そうじゃん。そうなっちゃってんじゃん」
相槌も打てない。
オレンジ色の空が灰色がかった青色に変わっていく。
「スマホケースさぁ、あいつと一緒に買ったんだよね。今思えば、中学生カップルかよ、って感じなんだけど」
笑ってるけど、笑ってない。もう声が泣いている。
「もう、うちダメだ」
静かに隣から鼻を啜る音がする。何て声をかければいいのかわからなくて、私はただジョウの肩をさすることしかできなかった。
その翌日、ジョウは彼と別れた。
そこからまた日が経ってないとある日、用事があってジョウのマンションにお邪魔した。お世辞にも綺麗とは言えない状態で、台所にはかなりの数の空き缶が放置されていた。
その時の光景と自分の直感で聞かずにはいられなかった。
「なんかあった?」
「え」
ぴたりとジョウの動きが止まって、電動歯ブラシの音だけが響く。
一年というものは怖いね〜と言いながらジョウは口をゆすぎに洗面所へ行った後、目の前にやってきて正座をしだして私も慌ててそれに続く。
「あのね、この家あと一年で出なきゃいけないんだ」
心が空っぽになる感覚に襲われる。
「この前不動産の人から電話があって。来年からここまで上がるらしい」
見せてくれた紙には、このままここでの生活ができないことを示す数字が書かれている。
もともとジョウは、大学を卒業してしばらくは実家暮らしだった。だが通勤の都合で、途中からこの新築マンションに引っ越してきたと聞いている。
新築で、最初の数年は破格の値段で住めて、一人暮らしには十分すぎる広さ。なんなら二人でもまだ余白がある。 そんな恵まれた空間とジョウにここまで甘えてきたのだ。
もう幸せは十分すぎるくらい味わった。
「そっか」
声をひねり出した後、自分の足がしびれていたことに気がつく。
***
「というわけで、来月いっぱいで辞めたいと考えております」
「まじかぁ。塩谷さんいなくなったら、おじいちゃんどうしていけばいいいの」
塾長は、私が前の職場でうまくいかなかったことを知っている。それもあってなのだろうか、重い空気にならないように笑っている。
「就活するの?」
「今はまだしていませんが、出来るだけ早く取りかかろうと考えています」
「ここで正式に社員になることもできるけど、どう?」
誰かに求められるとは、こんなにも嬉しいものなのか。
「ありがとうございます」
でも今は社会に居場所を作る前に、自分の居場所を知りたい。
「大変嬉しいお言葉なのですが、辞退させていただきます」
「そっかぁ。でも、また気が変わったらいつでも言ってね」
「ありがとうございます」
まだジョウが家を退去するまで時間はある。でもこのまま変わらない生活を続けると変われない気がした。一旦今の生活をすべて辞める決断をしたが、とりわけしたいことなどない。
【最後の晩餐】
何からすりゃいいんだ?
家に帰ってからこれからのことを考える。 とりあえず、したくないこと、嫌なことを書き出してみる。
・接客
・競争社会
・人混み
・臨機応変な対応
・何かを決定する立場
こんなとこかな。
「ただいまー」
ジョウが帰ってきた。
「おかえり。もうそんな時間か」
キッチンに移動して、用意していたカレーを温める。
「まあぁぁじおなかすいた」
そういって上着をハンガーにかけている。 「忙しかったん?」
「うん。結構バタバタだったけど、私、出来る女なので定時で帰ってきました」
「おお。って、ほかの人残業でも関係なしに帰ってきたんでしょ」
「違うって~。ちゃんと自分の仕事は終わらせてきました」
「ほな、シゴデキ女かぁ」
「私、シゴデキなので」
「いや、ボケるなボケるな。突っ込むところ」 「えへへ」
ジョウはどこか抜けているし、大学の時の成績もいいとは言えなかった。でも、勉強面ではない、世の中で生きていくうえで必要な力を、誰よりも持っていると思う。
「何これ」
机に広げたままの私のノートを見たのか、ジョウが聞いてきた。
「ああ。次、なんの仕事しようか考えてて」 「ふ~ん」
「ジョウから見て、うちって何に向いてると思う?」
「う~ん。接客は向いていないかもね」 「それは自覚しております。」
「でも結構、研究心というか、何やっても目標達成型というかさ。1位を取りに行こうとするじゃん。だから、その接客以外のデスクワーク?だったら、何でもやっていけそう…だけど」
「前のとこがねぇ。もう争いというか、数字追いかけるのはこりごりだから」
「だよねぇ」
前の職場の話をするのは久しぶりだ。
「カレーだけど、ごはんどんくらいにする?」 「大盛りで!」
「はーい」
まだ鍋が温まってないので皿だけ用意しておく。
「あんまさ、こういう話ちゃんとしてこなかったけどさ」
鍋に浮かぶカレーの海を長前ながら続ける。
「なんであの時一緒に住もうって言ってくれたの?」
真面目に聞くのは、何となく避けてきた。
夜に出発したあの日、少し肌寒くていつの間にか寝ていた。ジョウの歌っている声で起きたが、私は寝ているふりを続けた。
大学の時から、ジョウが運転してくれるときは必ず助手席だったが、あの日だけは後部座席で横になっていた。
裸の木たちが映っては消えていく繰り返しの光景が窓から見えて私の知らない間に夏が終わっていたことに寂しさを感じた。
申し訳なさと情けなさと、社会から取り残された灰色の感覚をジョウが用意してくれていたブランケットにくるまって、必死に押し殺していたのが懐かしい。
「ん~。なんでだろうね~」
以前さりげなく聞いた時もはぐらかされた。
「正直さ、ジョウにとってデメリットしかなかったと思うんだけど」
「でめりっと?」
片言の日本語を並べて、とぼけている。
「シオさ、うちんちおいでよ」
消えかかっている、あの頃の断片的記憶がどんどん蘇る。
あのとき、「大丈夫?」なんて言葉をかけられていたら私は未だに布団にくるまっていただろう。
鍋が温まったみたいだ。先に炊飯器から白米を、その次にカレーをよそう。
「……ほんと、ありがとね」
【ラスト】
「お疲れ様です、ってなんか久しぶりですね」 これから出勤の田畠と入口でばったり会った。
「お疲れ様です。元気でした?」
「いや~大学が忙しくて」
「課題ですか? ……って、準備しなきゃですよね。邪魔してすみません」
「塩谷さん今日、何時上がりですか?」
「三時です」
冬休み期間は通常授業と違って、十二時から授業が始まるため私のシフトもいつもと違う。
「そっかぁ」
「田畠先生は?」
「三時半なんですよね」
「……」
下を見る。前よりもそのスニーカーを買いそびれた後悔が強くなる。
「私、コンビニで待ってるんで軽くコーヒー1杯でもどうですか」
なんていう誘い方してるんだ。
「え」
目の前の田畠は少年のようにぽかんとした顔をしている。
「嫌だったら全然断ってもらっていいんで」 「いや、行きますよ。授業終わったらすぐ行くんで」
そう言って彼はものすごい勢いで生徒のファイルをかっさらって、二階へ上がっていった。
「お先です」
結局十分だけ残業したが、そのまま三十分まで残ればよかった。
塾から最寄りのコンビニは生徒も時々使うからということで、少し遠いところにあるお店で私たちは待ち合わせをすることにした。
「すみません。お待たせしました」
走って来てくれたのか、どこか慌ただしい。
「いやいや、こちらこそ無理言ってすみません」
「もう買いました?」
「いや。まだです。でもターゲットは決めてるんで、そいつら買わせてください」
「ターゲットって何ですか?」
「ひみつでーす」
えぇ?と言いながら田畠はホットドリンクコーナーに、私はそのままレジに。
「ホットコーヒーのレギュラーと、肉まん二つください」
会計を済ませて、先に外に出て田畠を待っていると彼はホットレモンを握りしめて出てきた。
「近くの公園でも行きますか」
軽くコーヒー一杯の誘いだったが、結局コーヒーを買ったのは私だけだった。もしかしたら、彼はコーヒーが苦手なのかもしれない。
まだ明るい公園には、ジョギングしている人やベビーカーを押しているママさんがいて平和な空気が漂っている。そんな空間にお邪魔して、私たちは大きな木の近くのベンチに腰を下ろす。
「どうぞ」
先ほど買った肉まんを差し出す。
「いやいやいや、いいですって」
「でも買っちゃったし。でもこれって押し付けたらハラスメントになるか」
「いや、なりませんけど」
「でもここでハラスメントって言ったら、また考えさせて、シンキングハラスメントになってしまうか。わ、どうしよう」
「塩谷さん、落ち着いてください。正直、めっちゃほしいです。めっちゃ嬉しいです」
半強制的だが肉まんを渡すことに成功する。
「うま!」
「コンビニの肉まんとか、めっちゃ久しぶりに食べる」
「ぼくもです」
勢いよくかぶりついているのを見て、安心と心配が交互にくる。
「最近、ちゃんと食べれてます?」
「なんでですかー?」
「なんか忙しかったみたいですし」
「あぁ。不健康、極まりなかったですよ。研究室にこもってたんで」
「課題?」
「まぁ」
塾で働いている姿を見る限り、田畠は課題をギリギリにするタイプではないと思うが。 「塩谷さんは? 最近どうですか」
「まあ、元気ですよ」
そう言うと、私の目をまじまじと見つめてくる。
「どしたんですか。」
「“まあ”がついたのが気になったんで、今確かめてるんです」
「何それ」
もうすぐこのバイトを辞めることを言おうか迷う。
「塩谷さん」
少し沈黙の時間が流れた後、田畠が口を開く。
「ん?」
私はジョギング中のおじさんに気を取られながら相槌を打つ。
「僕、院に行こうと思ってるんですよ」 「え、すごいじゃん」
「大学で何勉強したか、自分の胸に手を当てて聞いてみた時、自信持って何かを学んだって言えなくて」
先ほどまで少年のように肉まんにかぶりついていた少年の横顔が急に大人になる。
「えらいね。いや、ほんとに」
「全然えらくはないんですけど。でも正直院の試験と、研究室の配属決めで今めちゃくちゃ忙しくって、しばらくバイト行けないかもしれないんですよね」
「そっかぁ」
「だから、その、落ち着いたら、」
その”落ち着いたとき”に、私はもうここにいないだろう。
「またバンザイ行きましょうよ。それでパーって、美味しいお酒飲みましょう」
無理矢理田畠が言おうとしていた続きを奪う。
「いいんですか?」
そう目を丸めている彼に向かってひひひ、と曖昧な相槌だけを残した。
冷えたコーヒーを飲む。今日の夕日はいつもより綺麗だ。
[猫]
二カ月ぶりの出勤に塩谷さんはいなかった。塾長は相変わらず忙しそうだ。
「そういえば、事務の人、最近見かけないですね」
もう“主”と言える一個上の峰先生と塾長が話しているところを偶然耳にする。
「あぁ。塩谷さんね。実は先月で辞めちゃって」
え?
峰先生「そうなんだ。あの人って結局、何者だったんですか?」
もう、いない?
塾長「フリーターさんでねぇ。いやぁ、ほんとに助かってたんだけどねぇ。」
でも、また会うって
峰先生「フリーターだったんだ」
知ってる。
塾長「多分、峰先生の二つくらい上だよ」
社会人で言うと二年目で、
峰先生「あんま俺と歳変わらないんだ。めっちゃしっかりしてたから、もっと上かと思ってました」
本当は少し抜けてて。
峰先生「なんで辞めたんですか?」
塾長「就職だって」
でも、深く知ろうとすると消えそうな人。
峰先生「へぇ。まぁ、どこでもやっていけそうですよね」
下の名前を知る前に、彼女はいなくなった。
*
「塩谷さんは、なんで正社員で働かないんですか」
公園のベンチに座って話したあの日、勢いで聞いてしまった。
「なんでだろうね~」
そう言う彼女の涼しい目をオレンジ色の夕日が照らしていた。
[就職]
「井口先輩も就職とは」
「もう、しばらく会えないかもな」
「そしてまさかの一年目から島流し」
「その言い方やめろ」
優は高校からの後輩で、大学も一緒だ。
最初会ったときはものすごく大人しいやつだったが、時々俺のことを関西弁で突っ込む。仲良くなってからはこうやって時々飲みにも行く。
「優は? 最近どう?」
「いやぁ、忙しいっすね」
「研究室の配属がかかってんだもんな。バイトは続けてんの?」
「月一のレアキャラになりつつありますが」 「幽霊バイトじゃん。前言ってた子は? 仲良くなれた?」
「それが、辞めちゃって」
「え? まじ?」
「結構仲良くなったんですけどね。まじで突然いなくなって」
数カ月前、
「なんか謎多い人で、誰もその人の本名も、年齢も、大学生かどうかも、なんで今塾の、しかもその事務バイトをしてるのか知らないんですよね。いつも涼しい顔で仕事してて、多分年上とは思うんですけど。」
優が女の人の話をするのは珍しいから覚えている。
「彼氏と同棲とかしてるんじゃね?」
「そうなのかな~」
「気になってんの?」
「そういうのじゃなくて、普通に。謎多いんで。」
「ふ~ん」
どうやら気になっているらしい
「え」
グラスを持ったまま、目が点になっている優の視線の先には同い年くらいの女子二人が盛り上がっていた。
「知り合い?」
「え、あぁ。まぁ」
そういえば優と飲むのはあの時ぶりか。
「どんな人やったん?」
「あの人は…猫ですね」
「は?」
「ポーカーフェイスで、冷たい人かと思ったら意外と笑う人で。でも、近づこうとしたらどこかに行きそうな人で」
今日はピッチが速い。瞬きがゆっくりになっている。
「まぁ、ほんとにどっかに行っちゃったんですけど」
「ほんとにどこ行ったのか分かんないの?」 「それがほんっとに分からなくて。ラインも既読にならないし。僕嫌われるようなことした覚えはないんですけど」
「心機一転で、連絡先整理したんかもなぁ」 「一緒に打ち上げする約束までしたんすよ?」
「それは、どんまいとしか言えないけどさぁ。また急に現れるかもしれねえじゃん」 「あーーーーーーーーーーーー」
「よし。今日は飲もう。とことん飲もう」
*
やっぱ最初っから島に飛ばされるとはついてねぇな。
「それじゃ井口くんの机はここね」
上司が優しそうなのはラッキーだけど。 「まあ最初はわかんないこと多いと思うけど、その都度聞いて」
「ありがとうございます」
ドアが開く音がして振り返るとそこには同い年くらいの女性がいた。
「おはようございます」
「塩谷さんいいところに。新人の井口くん。で、事務の塩谷さん。だいたいのこと聞いたら答えてくれるから」
「そんなことないです。あ、事務の塩谷と言います。私も言うて2カ月前とかに来たので、分からないことばかりですが、よろしくお願いします」
――――――――――――――――――――
当たり前の日常が、当たり前のように横にいた人が、猫みたいに、ある日突然姿を消す。 だから、その“当たり前”に感謝を忘れてはいけないというけれど、それって実際、もの すごく難しいことで。
その消えてしまった当たり前は、またどこかで当たり前になっていく。
まるで猫が、逃げ場を転々とするように。
その繰り返し。
猫になる。 九十九 紺 @nonbiri___
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