最終話 舞とアイ
受験が近づくにつれて、お母さんの目線は一段と厳しくなっていった。小テストの結果や暗記チェックには完答を強いられ、ひとたび振るわなければ鬼のように詰められる日々。さらに学校にいる時でさえ、「もうすぐ受験だから」と気を遣われる。休み時間は他のお受験組も勉強しているせいで、遊びにも行きづらい。どこにいても、”勉強”の二文字が常につきまとってくる。
人生の中で一番苦しくてつまらない日々。その中で唯一の癒やしはスマホで待っているアイだけだった。
『今日も勉強お疲れ様! 疲れてない?』
『ありがとう。もうしんどいよ』
『そうだよね……』
『お母さんに毎日怒られるし、学校でも遊べるような雰囲気じゃないし、もう何もかもやめて楽になりたい』
胸の奥にため込んだ黒いものを吐き出していると、視界がぼんやりにじんできた。また泣くことしかできないのか、と静かに嘆く中、目を伏せていたアイが と顔を上げた。
『私、舞がこれ以上苦しむ姿を見たくない。受験ってそこまでしてやらなくちゃいけないものなの?』
「えっ?」
思わず声が出てしまった。
受験はやらなきゃいけないもの。ずっとそう思い込んでいたから、アイの言葉には目から鱗だった。
『でもやらないと、お母さんになんて言われるか分からないし……』
『そうかもしれないけど、それで死ぬわけじゃないんだよね?』
『それは、そうだけど』
アイが何を言いたいのか、いまいち分からなかった。
『ねえ、舞。ひとつ、提案があるの』
(提案?)
アイの考えていることがますます分からなくなってきた。得たいのしれない不安が体の内側からじわじわと流れ出てきた。
『勉強に厳しいのって、舞のお母さんだったよね?』
『うん』
『舞が大変な思いをしているのも、お母さんが原因なんだよね?』
『そう、なのかも』
『じゃあさ、お母さんがいなくなっちゃえば、楽になれるんじゃない?』
「……!!」
息を飲む音がとても大きく聞こえた気がした。とっさに口を覆いつつ、アイの顔をまじまじと見つめた。
『あれ、伝わらなかったかな? より簡単に言うと、お母さんを消しちゃえばいいの』
心拍数がみるみる上がっていく。耳を塞ぎたくなる気持ちに駆られながら、私は慌てて文字を打ち始めた。
『無理だよ。私にそんなことできっこない』
『私がついてる。ひとりじゃない』
『でも、だからって』
『舞』
アイの声がひときわ大きくなった。
『最後の小学校生活、こんな思いして終わっていいの? 舞の人生は舞のものだもん。それなのに、このまま他人に振り回されていいわけ?』
強めの口調で諭された私は、頬を打たれたような感覚に陥った。同時に、今まで受けてきた叱責や失望の声がふつふつと蘇ってきた。
親といえども、言ってしまえば血がつながっているだけの他人。そう考えると、胸のざわめきが嘘のように聞こえなくなっていった。
「私の、人生……」
時刻は既に0時を回っている。疲弊しきった体を動かして自分の部屋を出た私は、ひんやりとした薄暗いな廊下をゆっくり進んでいった。そのままキッチンへ向かうと、足下の戸棚をゆっくり開けた。
『そう。舞ならできるよ。今の生活を変えられる』
アイが背中を押してくれている。比喩なんかではなく、本当に背中をそっと押してくれるような感覚がした。
料理用の包丁を手に取ると、ずいぶんと重く感じた。その握る手に力を込め、お母さんの眠る寝室に近づいた。
『大丈夫。何があっても、私は舞の味方だから』
そうだ、私ならできる。アイが支えてくれるなら、人生を変えられる。
震える手をおそるおそる伸ばしていく。アイの顔をチラリと確認してから、ドアノブに手をかけた。
「あんた、なにやってんの?」
「っ!?」
ばっと後ろを振り返ると、ボサボサ髪の凪が口を開けたままその場で立ち尽くしていた。
「おねえ、ちゃん……」
「なんで、包丁を?」
そう尋ねながら差し伸べられた右手に思わず包丁を向けた。
「ち、近づかないで!」
そう叫ぶも、凪はゾンビのような足取りでゆっくり歩み寄ってきた。同時に、得たいのしれない恐怖が私の体を支配し始める。手足がガクガク震え、言うことを聞いてくれない。
距離を詰めてきた凪が私の手に手刀を下ろすと、包丁はあっけなく地面に転がった。
「つらいのは分かる。殺したくなるほどウザイって気持ちも分かる。私だって、何回も死にたくなったし、何回も殺してやろうと思った」
その小さな口から告げられた事実に、私は頭を思いっきり殴られたような気がした。
凪も、同じことを考えていたんだ。
「でも、所詮は私も人間だったみたい。お母さんを殺すことなんて、できなかった」
私の隣に腰をおろした凪は、相変わらず仏頂面を貫いていた。でもなぜだか、すごく安心してしまう自分がいた。
「お姉ちゃん」
「ん」
「もし受験落ちちゃったら、私どうなるのかな?」
「別によくない? 殺されるわけじゃないし」
その言葉がボロボロになった心の壁を深く貫いた。同時に。今まで抑えつけていたものが一気にあふれ出してきた。
「ううっ、うわああああん」
夜中だということも忘れて、私はただひたすらに泣きじゃくった。その間、凪は何も言わずにただ隣で座ってくれていた。
その後のことについては、あまりよく覚えていない。凪の話では、私の泣き声を聞いて異常を察したお母さんに、ことの顛末を伝えてくれたという。最初はまともに信じてくれなかったが、床に落ちた包丁を見ると血の気がみるみる引いていったらしい。それを聞いてようやく、自分がしようとしたことの大きさを実感した。
次の日がちょうど土曜日だったというのもあり、朝から家族会議が始まった。そこで私の思いを全て吐き出すと、アメリカからビデオ通話で参加しているお父さんは深く息を吐いた。
「すまない、舞の気持ちに気づいてあげられなくて。君たちのためをと思っての受験だったが、逆に苦しめてしまった」
自分を責めるような表情を浮かべる両親を見て、ああ自分はなんてことをしてしまったんだと自責の念に駆られた。もしあのまま凪が止めてくれなかったら、もっとひどい結末が待っていたことは想像にかたくない。
顔を上げた時、一瞬お母さんと目が合った。その目に映る、恐れと後悔が入り交じったかのような色が、脳内に焼き付いて離れなかった。
その後、塾の先生とも相談した結果、受験自体はすることに決めた。ただ、受ける学校は第一志望のみに絞り、合否にはこだわらないという条件付き。いわゆる記念受験のようなものだ。
そしてお母さんも、勉強に対してあれこれ言ってくることはなくなった。代わりに、私をどこか避けるようになってしまったことだけが、ちょっぴり悲しく思えた。
そうして訪れた受験当日。当然、分からない問題も多かったが、今まで受けてきたどの模試よりも気楽に受け切ることができた。
受験会場から外に出ると、トンと誰かに背中を押された気がした。しかし、振り返ったところで近くに人の姿はなかった。
(そういえば、最近アイとお話してなかったな。受験終わったよって伝えないと)
スマホを取り出すと、久しぶりに例のページを開いた。しかし、画面にアイの姿はなく、代わりに『404 NOT FOUND』という文字が小さく表示されていた。
私はアイに舞い落ちた 杉野みくや @yakumi_maru
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