ハンドルの向こう側
旭
第1話 夜明け前の国道と、味噌汁の湯気
午前四時半。
まだ星の残る国道を、**相原 恒一(あいはら こういち)**のトラックは静かに走っていた。
エンジン音とタイヤがアスファルトをなぞる低い響き。
その間を縫うように、ラジオから流れてくるのは深夜の再放送ラジオドラマだった。
『——人は、失って初めて、本当に大切なものに気づくのかもしれません』
不意に胸の奥がきゅっと縮む。
ハンドルを握ったまま、恒一は小さく鼻をすすった。
「……ずるいよな、こういう台詞」
誰に聞かせるでもなく呟く。
トラックのキャビンは、彼だけの世界だった。
仕事は建材の配送。
昨日は静岡、今日は長野、明日は新潟。
全国を巡る生活に、派手さはない。だが、恒一はこの仕事が嫌いじゃなかった。
夜が明けるころ、長野の山あいにあるサービスエリアに立ち寄る。
自動ドアが開くと、ふわりと漂ってくる味噌汁の匂い。
「お、今日はやってるな」
食堂で頼んだのは、焼き鮭定食。
湯気の立つ味噌汁をひと口すすった瞬間、思わず表情がゆるんだ。
「……ああ、うまい」
隣の席には、年配の男性が一人。
同じくトラック運転手らしく、黙々とご飯をかき込んでいる。
「兄ちゃん、どこまで?」
不意に声をかけられた。
「新潟です。そちらは?」
「富山。まあ、似たようなもんだな」
二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。
名前も詳しい事情も聞かない。ただ、それで十分だった。
「この辺の味噌、うまいだろ」
「ですね。体に染みます」
それだけの会話。
それだけなのに、心が少し温かくなる。
再びトラックに戻り、エンジンをかける。
今度はラジオから、懐かしい80年代のヒットソングが流れ始めた。
「……来た」
恒一は誰もいないキャビンで、思い切り歌い出す。
音程なんて気にしない。
国道と山と朝焼けが、唯一の観客だ。
トラックは今日も走る。
知らない町へ、知らない人へ、そしてまだ知らない味へ。
それでも、ハンドルの先にあるのは、確かな「今」。
「よし、行くか」
恒一はアクセルを踏み込み、朝の国道へと溶け込んでいった。
ハンドルの向こう側 旭 @nobuasahi7
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