第五話 心を蝕む猛毒
――――どさり、巨体が倒れ、洞窟に静寂が戻る。
巨大なトカゲの頭部が、胴体から滑り落ちた。
荒い呼吸も、高鳴る鼓動もない。
ただ、左腕に走る、焼けるような痛みだけが、現実の感覚として残っていた。
「おい!大丈夫か!?」
背後から、必死な声が聞こえる。ライハの声だ。
私は、その声に応えることなく、ゆっくりと彼の方へと振り返った。
だが、そこにいたのは、ライハではなかった。
血塗れの軍服。頬には深い傷。
そして、その瞳には、私に対する、悲しみと、失望と、そして、かすかな憎しみが浮かんでいる。
戦場で、最後に見た、あの顔。
私が、守れなかった。
私が、殺してしまった、親友の顔。
「……誰」
声が、震えた。
なぜ。なぜ、お前がここにいるんだ。
ここは、雪原のはずだ。
あの、炎と血に染まった地獄じゃない。
それとも、私も、ようやく死んだのか?
「なにいってる!しっかりしろ、俺だ! ライハだ!」
耳元で、知らない男の声が、怒鳴るように響く。
その声に、目の前の親友の姿が、陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。
幻影が薄れ、再び、心配そうに私を覗き込む、ライハの顔が現れる。
だが、おかしい。
彼の向こう、洞窟の壁が、燃え盛る故郷の街並みに変わっている。
足元には、無数の兵士の死体が転がっている。
耳鳴りのように、
「……なんでもない」
私は、かろうじてそれだけを絞り出し、彼から逃げるように一歩、後ずさった。
ズキリ、と左腕の傷が、脈打つように痛む。
この傷からだ。
この傷から、何かが、私の身体に流れ込んできてる。
これは――――毒だ。
私の精神を内側から蝕み、現実と過去の境界線を破壊し、私を、あの地獄に永遠に繋ぎとめるための、猛毒だ。
猛毒、と認識した瞬間、私の意識の糸は、ぷつりと切れた。
最後に見たのは、私の名前を叫びながら駆け寄ってくる、ライハの必死な顔。
それさえも、すぐに過去の亡霊たちの顔と重なり、やでて、全てが、深い、深い闇に飲み込まれていった。
次に目が覚めた時、最初に感じたのは、微かな温かさだった。
私が眠っていたはずの、冷たい石の床ではない。
誰かが、私の身体を暖炉のそばまで運び、毛皮の上に寝かせたのだろう。
私自身の外套だけでなく、ライハのものと思しき、分厚いマントまでが、身体にかけられていた。
左腕に目をやると、傷は、驚くほど丁寧に処置されていた。
血は綺麗に拭き取られ、消毒薬草を塗り込んだ布が、しっかりと巻かれている。
焼けるような痛みは、鈍い疼きに変わっていた。
「……また、生き残った…」
「……気がついたか」
すぐそばから、疲労の滲む声がした。ライハだった。
彼は、ほとんど眠っていないのか、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
それでも、私が目を覚ましたことに、心底ほっとしたような表情を見せた。
「昨夜、あんたが倒れてから、ひどい熱でうなされていた。……妹の病気のおかげで、医学や薬学は、少しだけ知ってるんだ。応急処置しかできていないが…」
彼は、そう言って、水筒を私に差し出す。
私は、黙ってそれを受け取り、乾ききった喉を潤した。
そして、改めて、彼の顔を見る。
その、心配そうに私を覗き込む、優しい顔が。
――次の瞬間、ぐにゃりと歪んだ。
ライハの顔に重なるように、私がかつて殺した、敵国の将軍の、憎しみに満ちた顔が浮かび上がる。
『人殺しめ』
幻聴が、脳に直接響く。
私は、息を呑み、瞬きをする。
幻は消え、再びライハの顔がそこにあった。
だが、安堵したのも束の間。
彼の背後にあるはずの洞窟の壁は、黒く焼け焦げ、崩れ落ちた、故郷の街の瓦礫に変わっていた。
風の唸り声は、炎が燃え盛る轟音に聞こえる。
どこを見ても、地獄だった。
昨夜の、一時的な錯乱ではない。
毒は、完全に私の精神と視界を掌握し、現実世界に、過去の亡霊を上書きし続けている。
「……大丈夫か? 顔色が、まだ悪い」
ライハが、心配そうに言う。
彼の顔が、また、泣きそうな顔で私を見つめる、親友の顔に、一瞬だけ変わった。
私は、奥歯を強く噛み締める。
この男に、この猛毒のことを知られるわけにはいかない。
これは、私が背負うべき罰だ。
私が殺した、私の罪。
私は、全ての幻覚を、心の奥底に無理やり押し込める。
そして、いつもと同じ、感情の読めない無表情を顔に貼り付けた。
痛む腕を庇いながら、ゆっくりと立ち上がり、壁に立てかけてある大鎌へと歩み寄る。
「おい、まだ動けるのか!?」
「……問題、ない」
私は、彼に背を向けたまま、短く答える。
嘘だ。
一歩進むごとに、足元の岩が、骸骨の山に見える。
それでも、私は、進む。
この地獄の中を、この男を連れて、進むしかないのだ。
『月下の涙』を見つけ出す、その時まで。
私たちが洞窟を出た時、世界は、白と静寂に包まれていた。
ライハは、これからの道のりについて何かを尋ねようとして、しかし、私の纏う空気に気圧されたのか、結局口をつぐんだ。
それで、よかった。
今の私に、言葉を交わす余裕など、ひとかけらも残されていなかったからだ。
一歩、足を踏み出すごとに、きしりと鳴る雪の音が、骨の砕ける音に聞こえる。
吹き付ける風の音は、兵士たちの断末魔の叫びに重なる。
目の前に広がる真っ白な雪原は、黒い煙の立ち上る、死体だらけの戦場へと姿を変える。
私は、この地獄の幻覚を振り払うように、ただ、前を歩くライハの足跡だけを見つめ、それを正確に踏みしめながら、無心で歩き続けた。
それだけが、今の私を、かろうじて現実に繋ぎとめる、唯一の術だった。
「……おい、あんた」
不意に、ライハが足を止め、声をかけてくる。
「少し、様子がおかしい。何もない場所を睨んだり、時々、何かに怯えているように見える。もしかして、毒か?」
「……なんでもない。気のせいだ」
私は、短く答え、彼を追い越して先に進む。
この男は、存外、鋭い。
これ以上、悟られるわけにはいかない。
私は、硝煙の匂いのする戦場を歩き続ける。
どれくらい、歩いただろうか。
目の前に、信じがたい光景が広がった。
天を突くほどの巨大な氷柱が、まるで森のように林立している。
氷柱は、雲間から射す太陽の光をその内部で乱反射させ、世界を、七色の淡い光で満たしていた。
あまりにも、美しかった。
そして、その美しさが、私の心の、一番柔らかな場所を、容赦なく抉った。
――ああ、この光は、あの日の光と、よく似ている。
その瞬間、私の意識は、過去へと飛んだ。
戦場だった。だが、そこには炎も、悲鳴もなかった。
駐屯地の裏にある、小さな泉のほとり。戦争が始まって以来、初めてと言っていいほどの、穏やかな午後のことだった。
『ねえ、フィーネ。あんた、聖女様なんて呼ばれてるけど、本当はただの堅物だよね』
隣で、親友の――アリアが、楽しそうに笑いかけてくる。
『堅物って⋯、全く失礼な』
『だって、いつも難しい顔してるじゃない。たまには、こうやって笑わないと』
そう言って、アリアは私の頬を、むに、とつねった。
私は、溜息をつきながら、手にしていた白樺の杖を、そっと泉の水に浸す。
『――こういうことなら、得意だけど』
私が小さく呪文を唱えると、杖の先から、光る魔力が水面に広がり、見る間に、一体の小さな氷の鳥が形作られた。
鳥は、命を宿したかのように軽やかに飛び立つと、アリアの周りを、きらきらと光の尾を引きながら、楽しげに舞い始めた。
『わあ! すごい! フィーネ、きれい!』
アリアが、子供のようにはしゃいで、その光景に手を伸ばす。
その笑顔が、太陽よりも、眩しかった。
「……フィーネ?」
ライハの声で、私は、はっと我に返る。
目の前には、ただ、冷たい氷柱の森が広がっているだけ。
アリアの笑顔も、氷の鳥も、どこにもない。
頬に、何か冷たいものが触れた。
一筋だけ流れた涙が、瞬時に凍りつき、氷の粒となって、私の肌に張り付いていた。
その夜の野営は、気まずい沈黙の中で始まった。
私は、炎を見つめながら、先ほどの幻覚の残滓に、心を苛まれていた。
そんな私に、ライハが、不意に語り掛けた。
「……俺の妹のサーシャ、笑うと、あんたの親友に、少し似てるかもしれないな」
彼の言葉に、私は、びくりと身体を強張らせる。
「あ、いや、悪い! あんたの友達のことなんて、何も知らないのに…」
彼は慌てて言葉を濁したが、もう遅い。
彼は、私の心の、一番触れてほしくない場所に、触れてしまった。
だが、彼の口から続いたのは、謝罪ではなく、妹への、愛おしさに満ちた、思い出話だった。
「サーシャは、甘いものが好きなんだ。特に、蜂蜜をたっぷりかけたパンケーキが。病気になってからは、あまり食べられなくなったけど…。だから、病気が治ったら、腹いっぱい、食べさせてやりたいんだ。街一番のパンケーキを」
「えっと、つまり」
「俺が言いたいのは、あんたの親友も、今のあんたをみたら心配しちまうってこと、なのかもな」
彼は、未来を語っていた。
私が、アリアと共に、永遠に失ってしまった、未来を。
守りたい、未来の笑顔。
守れなかった、過去の笑顔。
私は、何も答えない。
ただ、燃え盛る炎の向こうで、必死に未来を紡ごうとする男の横顔を、じっと、見つめていた。
この男の未来を、私と同じにしてはならない。
それだけが、今の私を動かす、唯一の誓いだった。
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死にたがりの聖女は、雪原の魔女となって贖罪を探す。〜妹を救いたい青年と行く、再生の旅路〜 R.D @r_d
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