プロローグ

東京駅。年末年始の帰省ラッシュ。


人々は皆、何かに取り憑かれたように足早にホームへ向かう。  

この僕でさえ、その流れの一粒に過ぎなかった。  


目的地にたどり着けるかどうかもわからないまま、僕たち民衆はただ前の人に続いて、前へ、前へ。  


集団心理なのだろう。  

誰も自分の頭で考えず、流れに身を任せるのみ。


たまに立ち止まる者がいても、人々は無視して体当たりする。  

それが一瞬のうちにして怒声となるか、舌打ちとなるか。


そりゃそうだ。  

迷惑でしかないのだから。


そんな東京駅の雑踏の中、

僕は不思議な光景を目撃した。


人波が行き交う道の真ん中で、  

どこへ行くでもなく、  

ただ立ち止まっている少女がいた。


彼女は、まるで川の流れに逆らう一つの石のように、  

微動だにせず、そこに立っていた。


誰も振り向かない。  

誰も止まらない。  


僕は、流れに逆らって、  

彼女の前で立ち止まった。


そして、初めて気づいた。


この世界で、たった一人、  

「見られる」ことを拒みながら、  

どこかでそれを待ち焦がれている少女がいることに。


「ねぇ、名探偵さん」


 はっきりと聞こえた。僕から相当遠くにいるはずの、少女の声が。


その一瞬、耳の奥で喧騒が不自然に凪いだ。


キャリーバッグが床を叩く硬い音も、

駅員の拡声器が撒き散らす電子音も、

見送りに来た家族たちの湿った泣き声も。


すべてが水槽の外の出来事のように、厚いガラスを隔てて曇って聞こえる。

その静寂の僅かな裂け目から、彼女の、鈴を転がしたような声だけが鼓膜に直接触れてきた。


 僕は思わず、周囲の「流れ」に肩をぶつけられながら、彼女を凝視した。

しかし、彼女は微動だにしない。唇が動く微かな震えさえ、僕の眼には映らなかった。


――空耳か……?


 立ち尽くす僕を置いて、人波は容赦なく流れていく。再び訪れた静寂の中で、またあの声が届いた。


「こちらへ、いらっしゃい?」


 僕はハッとして、弾かれたように顔を上げた。  視界に入ったのは、灰色一色の冷淡な群衆だ。足を止めた僕を、邪魔者として訝しく眺める無数の瞳。僕は反射的に軽く頭を下げると、人並みを断ち切るようにして彼女がいたはずの地点へ向かった。


だが、辿り着いたそこには、何事もなかったかのように他人の背中が通り過ぎていくだけだった。


(どこへ行ったんだ……)


 僕はその場に立ち尽くした。

 周りを見ても彼女は見当たらない。しかし、微かに彼女が僕を呼ぶその気配だけは残っていた。


 それは、鼻を掠める冬の冷気よりも僅かに鋭く、あるいは、聞き馴染みのあるような不思議な鈴の音の残響のようでもあった。道行く民衆の凡庸な白い吐息に混じって、そこだけが真空のように透き通っていた。


 僕は立ち尽くしたまま、その見えない糸をどうにか手繰り寄せようと目を凝らす。

 世間は相変わらず、僕を無視して醜く、進み続けていた。


 だが、その不協和音の中に、確かに彼女の「謎」が溶け込んでいた。

 僕は、自分の鼓動が早まるのを感じながら、彼女が消えた雑踏の奥へと、ゆっくりと視線を向けた。

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孤独の飼い犬 桐谷ふるの @Asa_tsuki

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