鵺のなく聖夜、幸福を分かつ

柊野有@ひいらぎ

🎄CHRISTMAS ❇︎


 窓際に並ぶ、真っ赤なポインセチアが、間接照明の部屋のなか、やけに鮮やかだった。  

 テーブルには、コンビニの残っていたデコレーションケーキ、オーブントースターであたためたばかりのフライドチキン。フライドポテト、チーズパスタ。チョコレートボンボン。シャンパングラスのなかで弾ける泡の音が、ぷつぷつと響いている。

 さきほど、プレゼント交換にお揃いのネックレスを、つけあったばかり。鎖が肌に冷たく感じたのは一瞬で、すぐに馴染んでいった。


「……朱音あかね? なんで、そんな窓ばーっかり見てるん? せっかくのクリスマスやのに」

 みおが、拗ねて朱音の肩をつついた。右手に持っているフォークが、チーズパスタの皿のふちに当たり、カチャリと音をたてた。

 朱音は穏やかに笑みを浮かべ、けれどすぐに硬い表情に戻り答える。

「……ねえ、聞こえない? さっきから、あの音」

「音ぉ? ああ、風や、風。隙間風が、ひゅうひゅう言うてるだけやって。それより見て、チキンの照り! これ絶対うまいやつやん。な?」

 澪は無邪気だ。三人兄弟の末っ子として育った彼女には、根源的な孤独の影がない。いつだって誰かがそばにいて、誰かが自分を愛してくれると信じて疑わない。その無防備さが好きなのに、今の朱音にはひどく鮮やかすぎるように見えた。

「違う。風じゃない。……ヒョー、ヒョーって。虎鶫とらつぐみみたいな、でももっと重い。ねえ、澪、ぬえ知ってる?」

「ヌエー? あのお猿さんの顔してて、胴体が狸で、手足が虎で、尻尾が蛇のやつ? またそんな古臭い妖怪の話して。今は令和やで、朱音」

「あれはね、過去の恐怖の集合体なのよ」

「ええ?」

 朱音は、冷え切った指先でグラスの縁をなぞった。

「『ジョジョ』のディアボロが言ってたわ。『恐怖とはまさしく過去からやって来る』って。あれ、真理だと思う。成長とは、未熟な過去に打ち勝つことなのよ。でも、打ち勝てなかった過去はどうなると思う? おりのように積み重なって、異形の化け物になるの」

 澪は、チキンをつまんで口に運ぼうとした手を止めた。

 朱音の瞳が、自分を通り越して、ずっと遠くのを見ていることに気づいたからだ。


「……朱音、今日、ちょっと変やで? 幸せなクリスマスやんか。うちら、やっとふたりで暮らせるようになったのに。ほーら。チキンも冷めるで」

「そう、幸せ。最高に幸せよ。だから怖いの」

 朱音は、ゆっくりと澪に向き直った。その表情には、深い絶望と、歪んだ愛情が混ざり合っていた。

「澪は末っ子だから分からないのよ。生まれた時から、同じ居場所があったでしょ。ひとりっ子だった私は、親の愛を独占していたのに、ある日突然、させられる恐怖を知ったの。自立という名の追放。恐怖はね、一度外に放り出され飲み込んだときに、初めて自分の持ち物になるの。それが、鵺なのかも」

「何ゆうてんの? 意味分からんて。分離の恐怖って。そんなん誰だってあるやろ」

「いいえ。違うの。ああ……鵺が鳴いてる。あれは、私たちが捨ててきたを食べに来たのよ。私たちが家族を捨て、過去を捨てて、この幸せな、閉じた空間に逃げ込んできた……その代償を」


 ――ヒョー、ヒョー。


 今度は、澪の耳にもはっきりと聞こえた。窓の外ではない。天井の裏から、あるいは、自分たちの足元から這い上がってくるような、細く、高く、震える声。

「……今の、なんなん?」

「鵺よ。私たちがだと感じれば感じるほど、その隙間に過去が入り込んでくる。ねえ、澪。恐怖って、分かち合えると思う?」

 朱音の手が、澪の首筋に伸びた。氷のように冷たい。

「うちは……うちは、ただ、朱音とケーキ食べて、笑ってたいだけやねん! なんでそんな、怖いことばっかり言うん?」

「だって、これがほんとうの幸せだから」


 朱音は微笑んだ。その背後の闇が、ぐにゃりと歪んだ気がした。


「ひとりで抱える恐怖はただの地獄だけど、ふたりで共有する恐怖は、もう、ひとつのでしょう? 誰にも邪魔されない、ふたりきり。……ほら、また鳴いた」


 ――ヒョー……ヒョー……。


 その声は、次第に言葉の形を成していく。それは、捨ててきた親の嘆きか。選ばなかった人生の呪いか。それとも、これから二人を待ち受けるの予言か。


「メリー・クリスマス、澪。これからずっと、この鵺の鳴く夜の中で、ふたりで震えて暮らしましょう」


 朱音はそう言って、笑顔を貼りつけた顔で静かに立ち上がり壁のスイッチに手を伸ばした。


 ――パチリ。


 部屋の明かりが消える。完全な闇が訪れたわけではなかった。


 このマンションの角には信号機がある。夜十時を過ぎると、それは赤色の点滅に変わるのだ。  

 少しだけ空いたカーテンの隙間から、その赤い光が、まるで血管の中を流れる血のように、部屋の中へ細く差し込んできた。光は規則的に明滅し、こたつの上を、そして向かいに座る朱音の顔を照らし出した。


 赤一色の光が、朱音の顔の真ん中を縦に半分に割いている。  

 その瞬間、澪は息を呑んだ。朱音は笑っていなかった。その眼は、大きく見開かれている。朱音の視線は、澪の背後にあるに釘付けになっていた。


「……あ、朱音?」


 澪が振り返ろうとした時だった。  

 ヒョー……という、あの湿った音が、今度は耳元で聞こえた。  

 直後、澪の「オ」の形に開いた口の中に、ゆっくりと、ヌメヌメとした冷たい塊が侵入してきた。腐葉土と、古い血を煮詰めたような臭いが鼻腔を突き抜ける。


「……んぐ、ぅ、あ……っ」


 吐き出そうにも、その粘着質な塊は生温かい肉塊のように脈打ちながら喉の奥へと滑り込み、口はもう閉じられなかった。肺に酸素ではなく、腐った泥のような重みが流れ込んでくる。音にならない悲鳴が、喉の奥で溺れる。


 それと同時に、頭蓋骨がきしむような激痛が走った。  

 鋭く、細く尖ったが、澪の頭に深々と突き刺さっていた。それは生き物の爪のようでもあり、硬質な楔のようでもあった。


 あらがう間もなく、澪の身体は中空に持ち上げられた。

 彼女を包み込んだのは、生き物としての、生温かく湿った感触。それは巨大な軟体動物のようでありながら、無数の人間の腕が溶け合ったようでもあった。


 ――これが、鵺。これが、私たちのの成れの果て。


 朱音は、赤い点滅のなかで、その光景をただ見つめていた。自らが望み、呼び寄せた結末。けれど、実体化したは、彼女の想像を絶するほどにおぞましく、圧倒された。


 澪の両脚が、空中でばたばたと無様に暴れた。こたつの布団を蹴り上げ、宙を掻く。  

 しかし、その抵抗も長くは続かない。  

 ヌメヌメとした闇の塊に、さらに深く包み込まれていくにつれ、脚の動きは鈍くなり、やがて、だらりと重力に従って垂れさがった。


 あたたかな部屋には、信号機の赤い点滅だけが繰り返されている。  

 チキンの冷えた脂の臭いと、鵺の放つ腐臭が混ざり合い、朱音の震える短い呼吸音だけが響いた。


 ヒョー、ヒョー……。  


 鵺は、満ち足りたように、また一つ鳴いた。



(了)

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