第5話 聞くとはなしに…

 ダイビングには資格検定がある。丸渕が持つのはアドバンスド・オープンウォーターと呼ばれる中級の資格だ。水深が18メートルを超える深いレベルの潜水をする場合に必要となる。


 こんなことは稀ではあるが、沈没船のお宝を探したり、あるいは海底洞窟を探索したりする場合にはこのアドバンスド・オープンウォーターの資格が必要になってくる。もとより海底の色彩豊かな光景を見るのが好きだった丸渕は、大学生時代にオープンウォーター・ダイバーコースという初級の資格を取り、海を楽しんでいたのだが、次第にそれだけでは満足できなくなり、20年ほど前にこの中級資格を取得し、より踏み込んだ海洋探索を楽しむようになった。


 彼は特に変化に富んだ岩石海岸を潜るのが趣味だった。そんな丸渕ではあったが、連続する死に不安になったわけではないが、やはり今回ばかりはダイビングにも多少は慎重になった。

 まずは天候である。夏の海はおおむね静かではあるが、神子元島は外海に当たるため、周囲と比べて風が強く、波も高いこともあり、また海流も速いところがある。台風などが南方海上にあるときなどは躊躇なく計画を中止するつもりであった。丸渕は豪胆な性格ではあるが決して無謀な性格ではない。


 幸いに…というか、今年の夏の海は例年に比べてもきわめて穏やかで、天気図上に台風はおろか、熱帯低気圧の姿さえない。まるで海のほうからダイバーを誘っているような平穏な条件だった。


 朝が弱いという丸渕は休みの日には遅くまで寝ているらしく、出発の日の22日は午後の出となった。せっかくだからと達人と理恵も夫婦で見送りに来ている。妻の理恵は連続する怪死には特に気を払ってはいなかったようだが、最近とみに親しくなった丸渕の見送りには一緒についていくと言い出したのだ。


 乗るのはワンボックスの家庭用ミニバンだ。燃費は高そうだが、2人の子供も同行するそうなので、4人で乗るにはいいかも知れない。これだけの広さがあれば、車内でも余裕を持ってくつろげる。


 なんでも家を一部くりぬいて、車庫を作り購入したそうだ。狭い人情路地の家々の中ではもっとも大きな車に属するだろう。

「吹上さん、お土産品と土産話を楽しみにしててくださいよ」

 とりあえず無事に帰ってきてもらえばそれでいいですと口に出しそうになったが、余計なことを言って本人が気にするようになってはまずいと思い、丸渕に合わせた発言内容となった。


「ええ楽しみにしてます。気をつけて楽しんできてください」

 そのとき、理恵はあるものに気づいた。

「あれ? 丸渕さん、あの人形を車に乗せてらっしゃるんですね」

 達人は妻がなにを言い出したのかと指さす方向を見た。

「あれは…璃空が誕生のさいに町内会からもらった人形じゃないか」


 あの人形、正式名はなんというか知らないが、中南米風の衣装をまとい、口を開けて笑っているように見える人形は、吹上家のリビングに鎮座しているものと同じだ。吹上家の人形は少々年季が入って色あせてきたが、このミニバンの人形は同じ時期のものなのにまだまだ色彩豊かに見える。

「車内に飾ってあるのですね、あの人形」

「ええ、なかなかユニークな人形でしょ。飾っておくと殺風景な車内も少しは賑わって見えるかと思いましてね」

 この車内にはほかには特にアイテムが飾られていない。人によってはキャラグッズなどをところ狭しと飾る人もいるが丸渕にその趣味はなさそうだ。

「いいんじゃないですか。日本人形とかだと笑うとかまばたきするとか髪が伸びるとか、なかなか気味の悪い話が伝わってもきますが、この人形なら悪さをすることもなさそうだ。愛嬌もありますし」

「うちの車のお守り代わりですよ。たしかにこの人形を置いてからは幸運が舞い込んできてるような気がする」

 ふたりは子供たちが生まれた時のことを思い出しては十数分にわたっておしゃべりを続けた。


「ではそろそろ出かけますかな。奥さんもお見送りありがとうございました。楽しんできますのでよろしく」

 ミニバンに乗り込んだ4人はそれぞれが手を振りながら笑顔をふりまいている。達人と理恵も手を振りながら4人を見送った。


「さてと…」

 今日は休日、これからどうしようか?

 璃空は趣味の鉄道模型の会合があるとかで、午前中から外出中だ。これからはゆっくり休日の午後を過ごそうとしたときだった。玄関先で人影が見えた。


「あの、すみません。吹上さん…ですよね」

 ある年配の女性が声をかけてきた。

「はい?」

「突然の訪問で驚かれたと思います。少しお話しできますか?」

「え、ええ別にかまいませんが」

「じつはわたしはここより東の端に住む各務(かかみ)という者です。以前数回お目にかかったことがありましたが、言葉を交わしたわけではありませんのでおそらく覚えてはおられないかとは思います」


 達人は目の前にあらわれた各務という中年女性にはあまり見覚えがない。町内会の会合とかで会っただろうか? 会ったとしても挨拶を交わす程度なら失礼ながらよく記憶に残っていない。

「よろしいんです。覚えておられないのは仕方ないこと。なにせ町内行事で挨拶をしただけですからね」

 やはりそうか。しかし唐突にこの女性はなんの用でここに来たのだろう?

「突然の来訪、失礼ですみません。電話番号も知らないので…迷惑かと思いましたが直接お邪魔にまいりました。吹上さんにご相談したいことがありまして、少しの時間よろしいでしょうか?」

 展開の早さについていけない達人。各務という女性はなおも続けた。

「わたしの夫、各務善久というのですが、あの飲み会…失礼しました。町内会の会合でしたね、あのとき員弁さんの隣に座っていたのです」

 そうだったのか。そういえば隣で特に誰と話すでもなく、タバコを吸っていた人がいたな。あの人が各務さんのだんなさんなのか。


「なんとなく記憶にあります。しばらくどなたかと話していて…そのあとタバコをひとりで吸われていたかたですね」

「そうです。うちの人はヘビースモーカーで、今はどこに行っても禁煙だらけで肩身が狭いと言っておりました。屋外のビアガーデンなら気兼ねなくタバコを吸えると、参加を決めたものでした」

「そうでしたか。それでわたしどもになにか?」

 急に表情が曇る各務夫人。


「あのとき、主人は退屈しのぎにおふたりの会話を聞いていたのです」

「おふたりというと…わたしと員弁さんですね」

「そうです」

 特に注意を払っていなかったが、あのときの会話は聞かれていたのか…。

「それでですね、員弁さんが言うには、あの方、亡くなる前になにか得体の知れない音楽を聞かれていたとか」

「そう言っておりましたね」

「じつはうちの娘の葵(あおい)が最近変なことを言い出したのです。なんでも部屋にいると隣の部屋からくぐもったような音を奏でるメロディが聞こえるとかで、本人も気味悪がっておりまして」

「音楽ですか」


 そういえば梅田で事故死した加納も同じようなことを言っていた。音楽というか、謎の音だったそうだが。

 それにしても、音楽のあと死亡した2人はともに中年男性だった。今回は若い女性というのはパターンが違う。


 各務は自分の家族のことを打ち明ける。

「うちの家族構成は夫とわたし、そして長女の葵の3人です。上に兄と姉がいるのですが、ふたりとももう独立して家を出ております。一番上の長男はすでに子供がおります。現在は3人で暮らしております」


 各務、各務…、思い出そうとしても思い出せない。

「失礼。各務さんは思い出せません。どちらにお住まいですか?」

「川沿いの、各務工務店という小さな事業所を営んでおります」

「川沿いですか。ちょっとここからは距離がありますね。あまりお逢いしないのもそのせいですかね」

「おそらくそうでしょうね」

「あちらは駅と反対方向なのであまり行ったことがなく、その工務店もよく知りませんでした。申し訳ない」

「いえいえ、当然ですから」


 そのとき、夫人の表情が曇ったのが見てとれた。

「会社の方はなかなかうまくいかなくて…なんとか立て直そうとは思っているのですが、それでもうまくいかなくて。あ、今日はそんな話をしにきたのではなかったのです。さきほどの音楽の話でしたね」

「どんな音楽かわかりますか?」

「娘は音楽は好きで、よく聴いておりましたので知っていたようです。フォルクローレという南米の民謡だそうです」

「曲のタイトルまでわかりますかね?」

「そこまではわからないと言っておりました」

「そうですか…。それでわたしになにかできることがあるのですか?」

 いまだに謎の多すぎる音楽のことを聞かされても、達人にはどうにかしようもない。この各務夫人の期待にこたえることはできるのだろうか?


「いえ…じつはその娘の葵というのが、今年20歳を迎えたばかりでして。吹上さんの息子さんと同い年になります」

 ああ、この人も同世代の子供を持ってるのか。

「そこで…気がつかれているでしょうけど、今まで亡くなられた員弁さん…でしたか、あと噂で聞いたもうひとりの方…」

「加納さんですね」

「そうそう、その方もともに20歳のお子さんがいるとのことで、なにか嫌な偶然かなと思いまして…ええ、特になにをしたらいいというわけではないのですが、一応お耳に入れておこうかなとも思いました」

「なるほど」

 いろいろ感じるものがある。

 これまでは犠牲となったのはアラフィフの中年男性だ。年配者だからいいというわけではないが、もし20歳の前途ある若者が謎の音楽によって死に招かれるようなことがあれば、その悲劇は比べようがない。

「わたしになにができるかわかりませんが、いろいろ当たってみることにします。でも…あまり大きな期待はしないでください。わたしにもここのところの事件がなんなのか、よくわかっておりません」

 もし悪い結果になったときに恨みを受けたくない達人はそう告げた。

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2025年12月28日 21:00
2025年12月29日 21:00
2025年12月30日 21:00

ひんながみ たにがわみやび @mksa1979d

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