彼女がキツネに憑かれたら
青川メノウ
第1話 彼女がキツネに憑かれたら
若き介護士の
一つは便秘だ。
一般に『女性は便秘になり易い』と言われるが、詩織のは五日間ないことは普通。
一週間とかも、わりとある。
さすがに焦る。
「もう、やだな」
うんざりだ。
センノシド、ピコスルファートNa、レシカルボン、いろんな下剤を使うのは当たり前。
それでもだめなら、グリカン(グリセリン浣腸)だ。
今までの最長記録が十日間。
さすがに、ヤバいと思って、絶対やりたくなかったけど、自己摘便(指でかき出すこと)で、どうにか解消した。
「花も恥じらう乙女が、こんなことしなきゃならないなんて」
ほんと、へこむ。
もう一つは――おそらくは、便秘に関係すると詩織は考えているのだが――『妖しい霊のようなものが見えること』だ。
普段は見えないが、どういうわけか便秘がひどくなると、『見えてしまう』のだった。
一応、霊能力ってやつ?
「要らないって、こんなスキル!」
望みもしないのに。
「しかも、便秘で発動するなんて、ハズすぎ」
あーん、泣きたい……
以上、だれにも言えない詩織の秘密である。
そんなわけで、ある日の夜勤で、詩織が施設内を巡回していると、得体の知れない小さな灰色の影が、ササッと廊下を横切った。
「あ、見えた」と思った。
ほら、やっぱ便秘中だから、ヘンなのが見えちゃう。
ま、しょうがないか。
いつものことだし、とりあえず実害もないし。
灰色の影は、小動物の霊のようだが、煙のようにぼんやりしていて、正体は不明だ。
詩織は、基本、関わらない。
下手にちょっかいを出して、取り
そもそも、
「小説とかの
だから、ずっと傍観者だ。
「てか、便秘治らないかなー」
お通じさえあれば、奇妙なものを見なくて済む。
それだけだ。
◇ ◇
その数日後、詩織が日勤の時、利用者さんが一人亡くなった。
高齢者施設で誰かが亡くなるのは、珍しいことではない。
家族が呼ばれ、医師が死亡を確認する。
詩織たち施設職員が、葬儀屋さんが来るまでに、必要な処置をして、ご遺体を清拭し、服を着替えさせる、というのが通常なのだが……
「我々で、すべて、やらせていただく」と、弥詠子さんの娘が、きっぱり言い放った。
『我々』というのは彼女と、後ろにぞろぞろ付き従う、信者らしき十人もの女性たちだ。
弥詠子さんは、なんとかいう新興宗教の幹部だったのだ。
当然、その娘も、教団内で相当な地位にあるらしく、なにもかも、自分たちのやりかたで、すませるというのだから、詩織たちは困惑してしまった。
「職員の方々は、全員、部屋から出て行ってもらいたい」
と屹然と言い放つ娘さんに、詩織は釈然としないものを感じた。
勝手に取り仕切る態度に、腹立たしささえ覚えた。
「でも、わたし、弥詠子さんの担当なんです。しっかり職務を全うする義務と責任があるんです」
と詩織は反論した。
「そうか、わかった。お前たちの安全を考えてのことだったが、それほど言うなら、お前一人だけ、部屋に残ってよい。ただし、余計な手出しはするでないぞ」
「なんて高飛車な」と思ったが、遺体の前で言い争っていても良くないと、詩織はしぶしぶ了承した。
さて、奇妙な儀式が始まった。
遺体の枕元に、祭壇が設けられ、太い
部屋の四方の壁に、奇妙な文字の書かれた護符が貼られ、細かい砂で、床に魔法陣のような文様が描かれてゆく。
準備が整うと、信者たちが、聞いたこともないような、妖しい呪文を唱え出した。
まるで黒魔術みたいだ。
(弥詠子さんって、生前から、神様の水で部屋を清めるとか、インフルやコロナの予防接種は絶対しないとか、ぜんぶ妙な宗教のせいだって聞いてたけど。ほんとに変だわ)と詩織は思った。
詩織の隣に、信者の一人が座っていた。小太りの中年女性だ。詩織は彼女にたずねた。
「あの、すみません。これ、なんの儀式なんですか?」
「今から〈クダ
「え、クダ狐って?」
「お
弥詠子さんの遺体を囲む数人が、服を脱がせ、呪文を唱えながら、タオルでお体を清拭し始めた。
彼女らが遺体のオムツを外した時だった。
「これは、お
と遺体を拭いていた信者の一人が言った。
「はい、ただ今」
隣の女性は、ミオと言うらしい。名前を呼ばれて、立ち上がり、遺体に近づいた。
「では、始めさせていただきます」
と言って、オムツ交換を始めた。
排泄物を取り除き、
「気をつけろ、ミオ。いつ腹から出てくるやもしれん」
と娘が注意を促す。
「はい、承知しました」
とミオが、緊張した面持ちで返事をする。
排泄物は意外に多く、拭き取りに手間取った。
やっと終わったと思ったら、また新たに腸内の残りが、排出されて、せっかく交換した新しいオムツも汚れてしまった。
「あ」
戸惑うミオ。あまり慣れていないようだ。
カバンを開けて、予備のオムツを探し始めたが、焦っているのか、なかなか見つからないらしい。
「なにをしている。早くしないか」
娘がイライラした調子で咎める。
「はい、すみません。ただ今……」
カバンの中身が次々、床に散らばる。あたふたしているのが、伝わってくる。
「オムツなら、ありますよ」
見かねた詩織が、部屋に備え付けのオムツを取って渡した。
「あ、すみません」
助け舟に、ホッとしたようすだ。
詩織は立ち上がりついでに、一緒にオムツ交換を始めた。
「余計な手出しは無用と言ったはずだ」
と娘が厳しい声で言った。
詩織は、むかっときた。
「だって、オムツ交換は二人でおこなうほうが、やりやすいんです!」
そう言い返した時だった。
遺体の下腹が、急にグネグネと波打つように動いたかと思うと、臀部から「ブーッ」と一気にガスが噴出した。
「きゃっ」
腸内の残物が、ガスと一緒に周辺に飛び散り、お尻を拭いていたミオが驚いて数歩下がったので、詩織が代わりにタオルをお尻に当てた。
「そろそろヤツが出てくる。我々にまかせて、早くさがるんだ」
「でも、まだちゃんと拭き取れてないわ……」
そう詩織が言った時、遺体の肛門から、キツネのような尖った顔をしたケモノが、頭をのぞかせた。
(えっ、なに、これ……)
詩織は驚いて、思わず体が固まった。
「出たぞ、クダ狐だ。竹筒を持て。封印するのだ!」
娘が叫んだ。
クダ狐は、肛門から頭を出したまま、鋭い歯をむいて、苦しんでいる。「キーッ!」と甲高い鳴き声が聞こえる。
信者が延々唱える呪文と、部屋を満たす不思議なにおいのお香に、苦しんでいるらしい。
信者の一人が、竹筒をお尻に近づけて、クダ狐の頭にあてがおうとした。
しかし、それより早く、クダ狐はヌルリと穴から抜け出して、ぴょんと高く跳び上がった。
一尺ほどの、イタチに似た細長い体をしている。
「しまった。部屋から出すな。捕まえろ!」
娘が叫んだ。
部屋の中を灰色の影が飛び回った。
信者たちがそれを追う。
(あの影、時々廊下で見かけたやつだ)
と詩織は思った。
部屋の中は、遺体をほっぽって、「あっちへ行ったぞ」、「こっちへ来た」とドタバタ劇さながらだ。
魔法陣や壁の護符が結界となって、部屋からは出て行けないらしく、クダ狐は、ひたすら室内を跳び回って逃げている。
詩織があっけにとられて、眺めていると、突然、お尻に違和感を感じた。
「きゃっ!?」
(やだっ、アソコに、な、なにか入ってくる!)
「この女の尻にとりついたぞ。奥に入ってしまう前に、捕まえるんだ!」
信者たちが詩織を取り囲んだ。
「ちょ、ちょっと、なにするの、や、やめて」
詩織は信者たちに体を押さえつけられ、無理やり四つん這いにさせられた。
同時にズボンと、ショーツまで下ろされて、たちまち下半身丸裸だ。
「あ、やだッ」
詩織は抵抗を試みたが、押さえられて、体が動かせない。
「静かにしていろ。尻からキツネが入ろうとしておる」
と娘が厳しい声で言う。
クダ狐は、まだ完全に詩織の中に入り切っていなかった。
細長い体の半分くらいが入って、尻尾の部分が、四つん這いになった詩織の臀部から出ている。
まるで詩織のお尻に、尻尾が生えているみたいだ。
娘が、そのクダ狐の尾を、片手でさっとつかんだ。
「よし、引き止めたぞ。中に入られたら面倒だ」
娘が尻尾をぐいっと引っ張る。
「きゃあああっ!」
お尻に入った異物を無理に引っ張られて、詩織は激しい痛みを覚えた。
目から涙が出て、苦しみのあまり、鼻水やヨダレまで垂れてしまう。
クダ狐も、必死に抵抗して、なかなか抜けきらない。
また何センチか、詩織のお尻に入り込む。
「えいっ」
娘がそれを再び引っ張る。
まるで両者の綱引きだ。
「は、はやく、抜いてぇ……」
詩織がほとんどパニックになって、涙目で訴える。
しかし、なかなか思うようにいかず、引っ張り合いが続く。
詩織は、初めは痛みを感じていたのだが、クダ狐がお尻から出たり、入ったりしているうちに、だんだんヘンな気分になってきた。
「あっ、やだ……これ、なんか、気持ちイイかも……あんっ!」
詩織は目がとろんとして、表情も緩み始めた。
「む、いかんな。この女、キツネの
「かしこまりました」
信者が取り出したのは、茶色の小瓶だ。
信者の一人が詩織の口を開けさせ、もう一人が瓶に入った液体を流し込む。
「さ、呑み込むんだ」
「あああ、うう……」
詩織は苦しげな顔で、幾らかこぼしながら、言われるまま、ゴクリ、ゴクリと呑み込んでから「ゲホ、ゲホ」と数回むせた。
「よし、弱って来たぞ」
そう娘が言って、一息に尻尾を引っ張ると、クダ狐の体全部が、ずるりと抜けた。
「ああああんっ……!」
詩織は、その瞬間、えも言われぬ快感が電気のように、脳天を突き抜けるのを感じ、派手な声を上げて、失神してしまった。
数時間後、詩織は仮眠室のベッドで目を覚ました。
弥詠子さんの遺体の処置も済んで、無事、お見送りも終わったと同僚から聞かされた。
詩織は、壮絶な体験を思い出して、恥ずかしくなった。
「あんなこと、みんなに知られたら、明日から仕事に来れないわ」
幸いにも、ほかの職員に詳しいことは、なにも伝わっていないようだった。
詩織は貧血で倒れたことになっていた。
◇ ◇
その後、詩織は普段通り、施設の勤務を続けている。
恥ずかしい記憶は、だれにも話さず、封印したままだ。
クダ狐の騒動による体への影響は、ほぼなかった。
『ほぼ』というのは、若干の変化があったからだ。
あの一件以来、腸内活動が活発になったのか、毎朝すっきり便が出るようになった。
同時に霊能力も消失して、得体のしれないものの気配を、全く感じなくなった。
理由はわからないけど、胃腸と脳は強いつながりがあるというし……
「クダ狐が腸に貼り付いていた『悪いもの』を、すっかり持って行ってくれたのかな」
詩織はそう思って、自分なりに納得している。
そして、「キツネに
と一人笑ってつぶやいた。
彼女がキツネに憑かれたら 青川メノウ @kawasemi-river
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