【欠落の群像】透明な侵入者
ニケ
第1話 消えた下着の謎
「またなくなってる……」
山田瞳は最近盗難の被害にあっていた。それも下着だ。
最初のうちは風で飛ばされたと思い深刻になるほどではなかった。それもそのはず、彼女はマンションの5階に住んでいるのだ。ベランダに干してある下着を盗むのは無理に近いだろう。
しかし、5日間連続でなくなるとなれば話しは別だ。
警察に相談もしたが、何も手掛かりが見つからず見放されてしまった。
瞳は深いため息をついて、空になった洗濯バサミを見つめた。今朝干したばかりの白いブラジャーが、またしても消えている。昼休みに一度確認したときは確かにあったのに。
「一体誰が……」
彼女は周囲のマンションを見渡した。向かいの建物は少し距離があり、左右の部屋のベランダは仕切り壁で区切られている。上の階から手を伸ばすのも不可能だ。どう考えても物理的に侵入できる場所はない。
それなのに、下着だけが綺麗に消えている。タオルやシャツには手をつけず、必ず下着だけ。しかも毎回、彼女が仕事から帰る前の夕方に。
瞳は部屋に戻り、スマートフォンを手に取った。警察が動いてくれないなら、自分で何とかするしかない。彼女は通販サイトで小型の防犯カメラを検索し始めた。
その夜、瞳は近所のホームセンターで防犯カメラを購入し、ベランダの目立たない場所に設置した。小さなカメラは植木鉢の陰に隠れて、洗濯物を映す位置に向けられている。
「これで犯人が分かる」
翌朝、瞳はいつものように洗濯物を干した。そして仕事に出かける前に、もう一度カメラの角度を確認する。録画ボタンを押して、彼女は玄関を出た。
会社での一日は長く感じられた。デスクに座りながらも、瞳の頭の中は犯人のことでいっぱいだった。一体誰が、どうやって5階のベランダに侵入しているのか。もしかして隣人が仕切り壁を越えて……いや、それも考えにくい。左隣は60代の夫婦、右隣は女子大生の一人暮らしだ。
午後6時、瞳は急いで帰宅した。マンションのエレベーターに乗りながら、心臓が高鳴るのを感じる。5階で降りて、自分の部屋のドアを開ける。
そしてベランダに出た瞬間、彼女は息を呑んだ。
また、下着が消えていた。
今度は薄いピンク色のショーツだ。他の洗濯物はすべて無事なのに、それだけがない。
「でも……カメラがある」
瞳は震える手でカメラを回収し、部屋に戻った。ノートパソコンにSDカードを差し込み、映像を再生する。
午前9時、彼女が洗濯物を干している様子が映っている。それから数時間、何も起こらない。風に揺れる洗濯物だけが映り続ける。
そして午後3時47分。
画面に異変が起きた。
突然、洗濯物が激しく揺れ始めたのだ。風が強くなったわけではない。まるで何かが洗濯物の間を通り抜けていくように。
そして次の瞬間、ピンクのショーツが洗濯バサミから外れ、ふわりと宙に浮いた。
瞳は目を疑った。下着は誰の手にも触れられていないのに、まるで見えない何かに持ち上げられるように、ゆっくりとベランダの手すりを越えて消えていった。
カメラの視界の端で、一瞬だけ何か透明な揺らぎのようなものが見えた気がした。しかしそれも錯覚かもしれない。
映像はそこで終わっていた。
瞳は呆然とパソコンの画面を見つめた。これは一体何なのだろう。幽霊?それとも何か科学では説明できない現象?
彼女は映像を何度も巻き戻して見た。しかし何度見ても、下着は誰の手にも触れられずに消えていく。
「信じられない……」
瞳はソファに座り込んだ。警察にこの映像を持っていっても、信じてもらえるだろうか。いや、むしろ悪質ないたずらだと思われるかもしれない。
その時、スマートフォンに着信があった。画面には「管理人室」と表示されている。
「はい、山田です」
「あ、山田さん。管理人の佐々木です。実は他の住人の方からも同じような相談がありまして……」
瞳は受話器を握る手に力を込めた。
「同じような相談、ですか?」
「ええ。ここ一週間で、3人の女性住人の方から下着の盗難被害の報告があったんです。皆さん、5階か6階の住人で……」
瞳の背筋に冷たいものが走った。自分だけではなかったのだ。
「それで、明日の夜8時に住人の方を集めて緊急の会議を開こうと思いまして。山田さんも参加していただけますか?」
「はい、もちろんです」
電話を切った後、瞳は再びパソコンの画面を見た。透明な何かが映っているように見える部分を、彼女はスクリーンショットで保存した。
「もう一度、警察に」
瞳は決意して、映像データをUSBメモリにコピーした。以前相談した時は相手にされなかったが、今度は証拠がある。
翌朝、瞳は仕事を休んで最寄りの警察署を訪れた。応対したのは、40代くらいの疲れた顔をした刑事だった。
「下着の盗難で、前にも相談に来られた山田さんですね」
「はい。今回は証拠があるんです」
瞳はUSBメモリを差し出し、映像を見せた。
刑事は画面を見て、眉をひそめた。何度か巻き戻して確認してから、ため息をついた。
「山田さん、これは……」
「見えますよね?下着が浮いて消えていくんです」
「ええ、見えますが」刑事は困惑した表情で続けた。「これでは証拠にならないんですよ」
「どうしてですか!ちゃんと映ってるじゃないですか!」
「犯人の姿が映っていない。それに、この映像、加工されている可能性もありますし……」
「加工なんてしてません!」
「いや、僕はそう言ってるんじゃなくて」刑事は言葉を選びながら続けた。「裁判になった時、弁護士がそう主張する可能性があるということです。それに、仮に透明な何かが盗んでいるとして、それが誰の所有物なのか、誰が操作しているのか特定できない」
瞳は愕然とした。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「申し訳ありませんが、もう少し具体的な証拠が必要です。犯人の顔が映っているとか、所有者が特定できる物品が映っているとか」
「そんな……」
刑事は同情的な目で瞳を見たが、それ以上は何も言えなかった。
結局、警察は動いてくれなかった。証拠不十分。それが結論だった。
失意のまま警察署を出た瞳は、管理人からの住人会議の連絡を受けたのだった。
明日の会議で、他の被害者たちは何を話すのだろう。そして誰か、この不可解な現象を説明できる人はいるのだろうか。
窓の外では、夕暮れの空が濃い紫色に染まっていた。どこかで、誰かが、あるいは何かが、今日も新しい獲物を探しているのかもしれない。
瞳はカーテンを閉め、ベランダの窓に鍵をかけた。今夜は洗濯物を部屋干しにしよう。そう決めて、彼女は奇妙な一日の終わりを迎えた。
【欠落の群像】透明な侵入者 ニケ @gurin63
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