この恋の味は

紗久間 馨

この恋の味は

 丹波たんば杏子きょうこは朝の電車に揺られながら、自身の恋を汁粉のようだと思った。それも、甘さ控えめでぬるく、小さな餅がたった一つだけ浸る汁粉だ。

 これが華やかで甘美なチョコレートフォンデュなら、どんなに喜ばしいことだろう。けれど、それは叶わない夢でしかない。

 甘くならなくていい。熱くならなくていい。ささやかな幸せがずっと続けばいい。


 杏子は駅を出ると不織布マスクを外した。白い呼気が朝日を受けてより白く見える。師走の日本上空に強い寒気が流れ込んできたらしく、今朝は寒さが厳しい。風がびゅうっと吹くと、マフラーの隙間から首元に冷気が容赦なく入り込む。

 通勤ラッシュよりも少し早い時間のため、人通りはまばらだ。これがラッシュアワーともなれば、肩がぶつかりそうなくらいに混雑する。

 インフルエンザが流行しているというのでマスクは着けるし、着けている方が温かく感じる。けれど、冬のマスクというのは結露して息苦しさが増す。だから人の少ない屋外では外しておきたい。

 新卒で入社してから六年経つうちに、通い慣れた道の景色は少しずつ変わっていった。杏子自身にも、春に別の部署へ異動するという変化があった。新しい業務や人間関係に慣れるのは骨が折れる。


 会社のエントランスに入る前に、杏子は再びマスクを着けた。コンパクトミラーに顔を映し、指先で髪を整える。好ましく見られたいと思えば思うほど緊張感が増す。

 中に入って廊下を進むと、途中に飲料の自動販売機が設置された休憩スペースがある。そこは扉のない部屋のようになっていて、近くまで行かないと中の様子はよく見えない。

 ピッ、ガコンッという音が、ひっそりとした廊下まで聞こえてきた。その音を立てたのが居てほしい人なら幸いだ、と期待を込めながら杏子は近付いた。

 飲み物を買うふりをして休憩スペースに足を踏み入れる。実際に買うのだけれど、誰が居るかを確かめるのが主たる目的だ。


 ダウンジャケットを着た男性社員が一人、ブラックコーヒーの黒い缶に口を付けている。その姿を見て杏子の胸は高鳴った。

「おはようございます」

「んー。おー、おはよう」

 杏子が挨拶をすると、赤根剛雄あかねたけおがにこりと笑って返した。

 赤根は杏子より五歳上の先輩社員だ。名前のように聞こえる名字と、名字のようにも聞こえる名前の話を自己紹介で決まってする。杏子の教育係だった人で、その熱心な指導と頼もしさに憧れた。


 杏子が受けた赤根の第一印象は「普通」だ。まさか恋愛感情を抱くとは思っても見なかった。どこに惹かれたのかと問われれば、人柄と答える。赤根は人当たりが良くて親しみやすく、性別を問わず好感を持たれやすい。杏子も早くに打ち解けた。

 にもかかわらず独り身なのは、特定の恋人を作らないからだろう。これは赤根自身が明言したのではなく、「彼女の一人や二人は普通にいる」という発言から憶測したに過ぎない。真偽を知りたいと思う反面、知りたくないとも思う。実直な仕事ぶりからは想像できないほどの遊び人だとしたら、聞いたことを後悔するかもしれない。


 赤根への恋心を杏子が自覚したのは異動してからだ。別のフロアに移ると顔を合わせることがめっきり減った。赤根はずっと杏子を気にかけていたし、そばにいて当たり前のように思っていた。

 敬慕の情がいつから恋慕の情になったのかは、杏子自身にも分からない。他の女性社員と親しくするのを見て嫉妬した時には、もう恋をしていたのかもしれない。

 赤根の顔や声を思い出すたびに恋しさが募った。朝のほぼ同じ時間に赤根がここでコーヒーを買うことを知っているから、ほんの少しでも顔が見たくて、杏子は合わせて来るようになった。


「今日みたいな日でも丹波さんは早いなあ」

「どんな日ですか?」

「寒い日だよ。そういう時って布団から出たくないって思ったりしない?」

「ええと、少しは思いましたね」

 杏子が答えると、赤根は「しまった」という顔をして心苦しげに眉根を寄せた。

「ごめん。今の発言、なかったことにして」

「どうしてですか?」

「個人的なことを聞くのは良くないから」

「こういう会話は今までに何度もしてきましたよね? 何を気にするんですか?」

「嫌だと思ってても我慢してた、なんてことがあるかもしれないし」

「それは絶対にありません」

「そう? なら、安心した。丹波さんに『実はハラスメントだと思ってました』なんて言われたら、合わせる顔がないよ。本当ね、気を付けないとね」

 赤根は悩ましげに目を伏せた。

 きっとハラスメント防止研修を受けたのだろう。杏子も研修を受けてから、それまで以上に周囲との付き合い方に配慮するようになった。

「赤根さんが私に嫌がらせをしたことは一度もありません。だから、私には今までと同じく接してください。赤根さんと普通に話せなくなったら寂しいです」

 杏子はうっかり本音をもらしたことに気恥ずかしさを感じた。


「あの、私からも個人的な質問をしていいですか?」

 前言を散らすように杏子は言葉を続けた。

「おー、いいよ。何でも聞いて」

 赤根が明るい口調で返すのを聞いて、杏子の「寂しい」は気にするほど重く受け止められていないのだと思った。

「赤根さんも今朝はもっと寝ていたくありませんでしたか?」

「質問って、そんなこと? 身構えることなかったな」

 赤根は気が抜けたように笑い、コーヒーをすすった。

「俺は普通に起きたよ。この時間に来なかったら、丹波さんに会えないし」

「ええと・・・・・・」

 思いがけない答えに、杏子はどぎまぎした。赤根も杏子に会いたいと思っていたのなら嬉しい。

「それに、新人の頃からの習慣だからなあ。えーと、カタカナで何て言うんだっけ?」

 赤根が胸の前で人差し指を立てるような仕草をするのを見て、杏子はぴんと来た。

「ルーティン? ですか?」

「そうそう。それ。ルーティンね。先輩よりも早く来て、ここでブラックコーヒーを買って飲むんだよ。今じゃ普通に飲めるけど、昔は苦手だったなあ」

「だけど、かっこいい大人っぽくて飲み続けたんですよね?」

「そう。この話、丹波さんには何回もしたんだったね」

 赤根ははにかんだ笑みを浮かべた。


「あ、でも春から少し変わったよ。丹波さんと挨拶をするってのが増えた。異動してもこんなに会えるなんて思わなかったなあ」

「そう、ですね。新しい仕事に早く慣れようとしたら、こうなりました」

 杏子は当たり障りのない理由を述べた。本当は赤根に会いたくて早く会社に来ているとは言えない。

「どう? うまくいってる?」

「うまくいってると思いたいです。まだ慣れないこともありますし、足を引っ張らないように頑張るしかないですね」

「無理してない? 不安に思ってること、ちゃんと周りに相談できてる?」

「はい」と返事をしながらも、杏子は口ごもった。

 異動先では新入りだけれど、入社してからはそれなりに経験を積んでいる。業務に必要なことは相談できても、精神的なことまで相談するのは気が引けた。

「よし。久しぶりに飯でも食べに行くか。俺が相手なら吐き出せることもあるだろうし」

「ぜひ行きたいです。でも、迷惑になりませんか?」

「迷惑だなんて、とんでもない。可愛い後輩が悩んでるんだから放っておけないよ。遠慮しないで頼りなさい」

 赤根は得意げに笑んだ。

 赤根が杏子のことを「可愛い後輩」と言うのは珍しくない。杏子自身ではなく、後輩として可愛いというだけの薄っぺらな「可愛い」だ。分かっていても胸の高鳴りを抑えることはできない。


「あの、他の人にあんまり『可愛い』って言わない方がいいですよ」

「へ? 何で?」

「ハラスメントになるかもしれませんから」

 赤根のためを思って言っているように聞こえるけれど、これは杏子の独占欲だ。赤根が指導した後輩は杏子だけではない。それが当たり前なのに、赤根の可愛い後輩は他に居てほしくないと思ってしまう。

「あー、だよね。ごめん。丹波さんは俺が最初に指導した後輩だから、思い入れが強くてさ。いつまでもこれじゃ駄目だよね」

「駄目じゃありません。できたら、私はずっと可愛い後輩でいたいです」

 どうして今日はこんなにも本音を口にしてしまうのだろう、と杏子は自身の言動に戸惑いを感じた。

 どんな表情を赤根に向けているのか想像ができないけれど、マスクをしているから目元しか見えていないはずだ。その目元すら隠すように前髪をつんつんと引っ張った。


 赤根は目を泳がせながら、コーヒーの缶に口を付けた。うまく飲み込めなかったらしく、「げほっ」とむせる。

「大丈夫ですか?」

 杏子は赤根に近付き、背中をさすろうと手を伸ばした。けれど、触れるか触れないかのところで手をぴたりと止める。触れてしまったら愛しさがあふれそうな気がした。

「んんっ。平気、平気。ちょっと喉が。空気が乾燥してるからかな?」

 赤根が喉に手を当てて咳払いをする。杏子は鞄の中から飴を適当に取り、手のひらを上に向けて赤根に差し出した。

「のど飴です。よければ、どうぞ。風邪予防に効くハーブが入ってるらしいです」

「へえ、そういうのがあるのか。ありがとね」

 杏子と手を合わせるようにして赤根は飴を受け取った。赤根の手は温かく、少しかさついている。杏子はこのまま握ってしまいたいという衝動に駆られた。

「ちょっと持ってて」と赤根がコーヒーの缶を差し出す。杏子は訳が分からないまま、黙って受け取った。缶の心地よい温かさが手に染みる。

 赤根は自動販売機を操作し、落ちてきた缶を取り出した。赤根が飲むのと同じコーヒーの黒い缶が杏子に手渡され、飲みかけの缶が赤根の手に戻る。

 杏子がきょとんとしていると、赤根が杏子の手に軽く触れた。

「手、冷たいから。俺が温めてあげたいところだけど、それはちょっとまずいでしょ」

 冗談めかした口調で言う赤根の頬は赤みを帯びていた。


「戻ってきてほしいなあ」

 赤根が弱々しい声でぽつりとつぶやいた。

「何が、ですか?」

「あ、えっとね、丹波さんが俺のとこに帰ってきたらいいな、って。よく分からないんだけど、丹波さんがいないとはかどらないんだよね」

「そんなこと、ありませんよ」

「いいや。あるんだよ。心の支えって言うのかな? ふとした瞬間に『ここに居てほしい』って思う感じ?」

 赤根に必要とされていることを、杏子は嬉しいと思った。その一方で、陰りを漂わせる赤根の様子に胸騒ぎを覚える。

「もしかして何かありましたか?」

「うーん・・・・・・あれだよ。ほら、今朝は寒いから。寒いと弱っちゃう、みたいな」

「はぐらかさないでください。私に話してほしいです。少しは役に立てるかもしれませんから」

「おー、すっかり頼もしくなったなあ」

 赤根が杏子の頭をでる。大切な物に触れるようにそっと優しく触れるから、杏子の胸はときめいた。

「こういうことは私以外にしないでくださいね。ハラスメントになるかもしれませんよ?」

「そうだね。気を付けるよ。何だか今日の丹波さんはいつも以上に可愛いね」

「それは、赤根さんの可愛い後輩ですから」

「本当に可愛いなあ。好きだよ」

 そう言って微笑む赤根が杏子には輝いて見えた。きっと赤根の「好き」には深い意味なんてないと思いつつも、甘やかな期待を抱いてしまう。

 鼓動が速さを増して呼吸が荒くなり、杏子はたまらずマスクを外す。風邪かもしれないなんて考えるほどの余裕はなかった。


「私だって、好きですよ。叶うなら、赤根さんのそばに居たいですよ」

 伝えるつもりのなかった思いが、杏子の口から自然とこぼれる。赤根の顔を見るのが怖くて、視線を手元に落とした。

「ねえ、それって・・・・・・」

「赤根さんが優しくしすぎるからいけないんです。恋しさを抑えてきたのに、我慢できなくなるじゃないですか」

「俺が恋しいの?」

「はい。だから、赤根さんに温められたいです」

 杏子は赤根の手を握った。

「一応、確認なんだけど、俺は丹波さんの彼氏になれるのかな?」

「なってほしいです」

「じゃあ、俺を彼氏にして」

 杏子が顔を上げると、耳まで赤くした赤根が満面に笑みを浮かべていた。

「はい」と答えて、赤根の背中に腕を回す。

「すごく嬉しいんだけどね、そろそろ人が来るかもしれないし、離れた方がいいと思うよ」

「ですね。もう行きますね」

 杏子は惜しむようにゆっくり一歩下がって、赤根に背中を向けた。

 心に不安がよぎり、ざわつく。誰かに見られることで赤根に迷惑がかかるのは避けたいけれど、ほんの一瞬だけでも抱き締めてほしかった。

「後で連絡するね」

「はい」

 振り向きもせずに返事をし、杏子は廊下に出た。


 エレベーターに乗るとスマホの通知音が鳴った。ロック画面に表示された赤根のアイコンを見て、心臓がどきんと跳ねる。

『今晩は予定ある?』

 杏子はすぐに『ありません』と返した。

 赤根の言う「彼氏」が一夜で終わる可能性を捨てきれず、浮かれてばかりもいられないと思う。それなのに赤根との甘いひとときを求めてしまう自分が嫌になる。

 いっそのこと、熱を強めて焦がしてしまえばいい。コーヒーのように苦くなってしまえばいい。

 杏子は「ふうっ」と大きく息を吐いて、黒い缶を両手でぎゅっと強く握った。

 この恋が帯びるのはコーヒーの苦さであってはいけない。魅惑的な苦みから逃れられそうにないから。


(了)

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