兎猫翠

私の世界は補聴器を付けてから始まる。


下の階から聞こえてくるお母さんの料理の音。

ドタバタと動き回るお父さんの足音。

ふふっと笑顔になり、朝を実感する。


「おはよう!」


飼っている金魚に挨拶をすると、金魚は音を出さないけれど、口をパクパクと挨拶を返してくれた。


私はすぐに制服に着替え、リビングへ降りる。リビングではお母さんが朝ごはんを作ってくれていた。


「おはよう。今日もギリギリね」


優しく微笑むお母さんに、私もへへーっと笑い返した。


「行ってきまーす!」


「ちょっと!お弁当!」


お母さんは私のカバンを開け、一番上にお弁当を入れた。


「はい、行ってらっしゃい」


学校へ行くには電車に乗る必要がある。

いつも満員だが、三駅だけだ。


駅に着くと、がやがやとした音が一気に押し寄せてきた。

私はその音に包まれながら、電車に乗った。


覚悟はしていたが、今日はいつもより車内に人が多く、狭く感じた。

少しだけ身構えた。


正面の男性は何も言わず、動きも少なかった。

その静けさに、私は少しだけ安心した。


誰かのイヤホンから、かすかに音が漏れていた。

何の曲かはわからないけれど、嫌な音ではなかった。


次の駅でさらに人が入ってきて、わー潰される!と思ったが、正面の男性がぐっとこらえて私を守った。


私は思わず男性に会釈をしたが、男性はそっけなくそっぽを向いていた。


思っていたほど疲れることもなく、降りる駅に着いた。

視線を上げると男性はまだそっぽを向いていたので、気づかれない程度にまた会釈をして電車を降りた。



学校に着き、午前の授業を受けて昼休憩を迎えた。


私を含めた仲良し三人組で食事をしている時だった。


「ねぇ、補聴器ってどんな風に聞こえるの?」


笑顔の友人に、私は首を傾げた。


「どんな風にって…」


みんなと一緒だよ、と言おうとしたはずが、言葉が出なかった。


だって、私は知らないのだから。


今まで考えたことがなかった。私の聞いているこの音が真実だと思っていたが、果たしてどうなのだろう?


「普通に私たちと一緒か」


友人はそう言った。

でも、その言葉がすぐには頭に入ってこなかった。


そこからの授業の内容は覚えていない。

考えれば考えるほど、今まで聞いていた音を疑ってしまった。


先生の声、黒板に書く音、学校のチャイム。


もしかしたら笑い声だと思ってたものが泣いてた声かもしれない。

あの時話が合わなかったのは、全然違う言葉で私に届いていたのかもしれない。


無駄だとわかっていても、考えずにはいられなかった。


放課後のチャイムが鳴り、教室が一気にざわついた。


椅子を引く音、机に鞄をぶつける音、誰かの笑い声。

全部、聞こえているはずなのに、どこか遠い。


「ねえ!今有名な焼き鳥屋さんに行こうよ!」


友人にそう言われて、私は一瞬だけ考えた。

焼き鳥を網に置いた時の音が、私は好きだ。

じゅっと鳴って、何かが始まるあの音。


でも、今はその音が、うまく思い出せなかった。


私は友人から誘いを断り、鞄を持って廊下に出た。


足音が反響する。自分の歩く音だけが、やけに大きい。

階段を上ると、下から部活の声が聞こえてきた。掛け声なのか、ただの雑音なのか、区別がつかない。


屋上へ向かう途中で、私は一度立ち止まった。

補聴器に触れる。

外すつもりはなかったが、その存在だけが、妙に気になっていた。


屋上の扉を開けると、風が吹き抜けた。思わず目を閉じる。


音は、思っていたより少ない。

校舎の中にいた時はあれほど溢れていたのに、

ここでは空が近くて、足元が遠い。


私はフェンスのそばまで歩き、鞄を足元に置いた。

補聴器に、もう一度触れる。

外す前に、音をよく聞いた。


サッカー部の掛け声、音楽室のメロディ、自分の心音。


その心音だけが、やけに大きく聞こえた。


私は補聴器を外した。


世界は、静止した。


頭の中で友人の言葉が木霊した。


けれど、完全な無音ではなかった。

胸の奥で、何かが確かに鳴っていた。


私は補聴器を付け直し、

その音を連れて、友人たちを追いかける。


そこには、

音に溢れた

私の大好きな世界が、確かにあった。

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