【短編】白紙の続き(カクヨムコン11お題フェス参加作品)
浅沼まど
白紙の続き
和紙は呼吸している。師匠の口癖だった。
〝工房〟は京都の
私がこの工房に弟子入りしたのは七年前、大学で日本美術史を学んでいた頃だった。卒業論文で調べものをしているうちに、古い本の修復という仕事があることを知った。本を「読む」のではなく、本を「直す」仕事。興味を持って調べているうちに、この工房にたどり着いた。師匠は最初、弟子は取らないと言った。それでも私は何度も通い、見学だけでもと頼み込んだ。三ヶ月ほど通い詰めた頃、師匠は黙って道具を渡してくれた。それが弟子入りの合図だった。
師匠は無口な人だった。技術は言葉ではなく、手の動きで教えた。私はその手を見つめ、真似をし、失敗し、また真似をした。和紙の扱い方、
師匠が亡くなったのは、急な心臓発作だった。朝、いつものように工房を開けると、師匠は作業台の前で倒れていた。手には修復途中の古文書を握ったまま。まるで最後まで仕事をしていたかのように。葬儀には、古書店の主人や大学の研究者、かつての依頼人たちが大勢集まった。師匠がどれだけ多くの人に信頼されていたか、そのとき初めて知った。
十一月の終わり、一人の女性が工房を訪ねてきた。
「
「これを見ていただけませんか」
「祖母の遺品なんです。祖母は生前、古書の
私は手袋をはめ、写本を手に取った。
最初に気づいたのは重さだった。この厚みなら、もう少し軽いはずだ。紙が水分を含んでいるのだろうか。しかし表紙に
次に気づいたのは匂いだった。古い和紙には独特の匂いがある。
「どうかしましたか?」
「いえ……少しお預かりしてもいいですか。詳しく調べてみます」
工房の奥には師匠の遺品を収めた棚がある。修復道具、参考資料、そして師匠が生涯をかけて集めた古書のコレクション。私はその中から、師匠が晩年に使っていた手帳を取り出した。
あった。
亡くなる三ヶ月前の日付で、走り書きのようにこう記されている。
「
読むたび変わる。どういう意味だろう。
私は写本を作業台に置き、慎重に開いた。
*
——黄泉の国へ降りてゆく女があった。
女は誰かを亡くしていた。その人の名はもう思い出せない。顔も、声も、
黄泉への道は暗かった。足元には名も知らぬ草が生え、踏むたびにかすかな音を立てた。葉擦れとも、囁きともつかぬ音。女はその音を聞きながら、ひたすら歩いた。どれだけ歩いたかわからない。時間の感覚が、少しずつ薄れていった。
やがて女は広い野原に出た。空には星がなく、月もない。それでも野原は薄明るかった。どこから光が来ているのか、女にはわからなかった。光は空からではなく、地面から、草から、死者たちの体から滲み出ているようだった。
そこには死者たちがいた。
死者たちは声を持っていた。口を開き、何かを語ろうとしていた。しかし意味がなかった。言葉が音だけになって、空へ散っていく。声はあるのに、言葉がない。形だけが残って、中身が消えてしまったような声。女はその光景を、悲しいと思った。自分もいつか、ああなるのだろうか。
女は足元の草を見た。草は三種類あった。細く白いもの、丸い葉のもの、棘のあるもの。それぞれが違う形で、違う色で、野原を覆っていた。草は風もないのに揺れていた。まるで呼吸をするように。
女は気づいた。この草が、死者の言葉なのだと。
声は空に散る。しかし言葉は草になり、根を張り、土に残る。死者たちが語ろうとした想いは、声としては消えても、草として生き続けている。死者の言葉は、土の中で眠っている。
女は草を
*
そこで本文は途切れていた。
続きの頁は白紙だった。虫食いでも欠損でもない。最初から何も書かれていない、真新しいような白。頁をめくっても、めくっても、白紙が続く。十頁、二十頁、三十頁。まるで物語の続きが、まだ書かれていないかのように。書かれるのを、待っているかのように。
私は写本を閉じた。奇妙な話だった。御伽草子にしては筋が見えない。
紙を調べた。
その夜、私は夢を見なかった。
翌日、
「
「読んでみると、御伽草子の中でも特に『黄泉国訪問譚』に関心を持っておられたようです。
「師匠は……なぜそのテーマを」
「わかりません。ただ、草稿の余白に、こう書いてありました」
「言葉ハ死者ノ側ニ残ル。生者ハ待ツシカナイ」
私は写本をもう一度開いた。
そして息を呑んだ。
草が増えていた。
昨日は三種類だった。細く白いもの、丸い葉のもの、
本文も変わっていた。
*
——女は草を摘んだ。三つの草を、五つの草を。
蔓を伸ばす草は、呼びかけの言葉だった。誰かの名を呼ぶ声が、地を
花を閉じた草は、言い残した言葉だった。開かれることのなかった想いが、
女は抱えきれないほどの草を持っていた。摘んでも摘んでも、草は減らない。野原は広く、死者は多く、言葉は尽きない。すべてを持ち帰ることはできない。でも、一本でも多く。一つでも多くの言葉を。
これを地上に持ち帰れば、死者の言葉を聴けるかもしれない。女はそう思った。
しかし女は気づいていた。黄泉の草を持ち帰れば、自分の言葉が減ってゆくことを。死者の言葉を受け取るたびに、生者の言葉は薄れていく。それでも女は構わなかった。自分の言葉より、あの人の言葉が聴きたかった。
それでも女は歩き始めた——
*
私の手が震えていた。
紙を調べた。劣化の具合、繊維の状態、すべて昨日と同じだ。綴じ糸も、表紙の擦れ方も、何も変わっていない。新しく書き加えられた形跡はない。インクの染み方も、百年は経っているように見える。
けれど内容は、確かに変わっている。
師匠のメモが脳裏によみがえった。「読むたび変ハル」。師匠は知っていたのだ。この写本の異常を。だから何度も読み返し、確認しようとしていた。
私は写本を見せ、昨日との差異を説明した。ノートに書き写しておいた昨日の本文と、今日の本文を並べて比較した。草の数、文章の変化、すべてを細かく記録していた。
「……ありえない」
「でも、現にこうなっています」
「
私は答えられなかった。本物とは何か。過去に書かれたものが本物なら、これは偽物だ。しかしこの写本は確かに「在る」。変化しながら、呼吸しながら、ここに在る。和紙は呼吸している。師匠の言葉が、頭の中で響いた。
「わかりません。でも、師匠もこれを追っていた。亡くなる直前まで、何かを知ろうとしていた」
私は師匠の手帳を
「
私は答えられなかった。
師匠の過去を、私はほとんど知らない。修復の技術を教わり、古書への敬意を学び、隣で仕事をした。七年間、毎日のように顔を合わせていた。朝は一緒にお茶を飲み、昼は近所の食堂で並んでうどんを食べ、夕方は工房の掃除をした。それでも師匠の私生活については何も知らなかった。家族の話も、若い頃の話も、聞いたことがない。
一度だけ、師匠が昔の話をしてくれたことがある。ある写本を修復していたとき、ふと師匠が言った。
「この仕事を始めたのは、誰かの言葉を残したかったからかもしれない」
私は聞き返そうとしたが、師匠はそれ以上何も言わなかった。そのとき師匠が何を思っていたのか、今となってはわからない。
師匠が何を
「
「師匠です」
それ以上の言葉が出なかった。師匠以上の何かだったのかもしれない。でも、それを言葉にする方法がわからなかった。
それから、私は毎日写本を開いた。
写本を開くたび、草は増えた。七種類、九種類、十一種類。枯れかけた草、種をつけた草、根だけの草……それぞれに意味があるのだろう。物語も変わり続けた。女は草を持ち帰り、庭に植えた。草は育ち、花を咲かせ、枯れ、また芽吹いた。季節が巡るように、言葉も巡る。その過程で、死者の言葉が少しずつ「聞こえる」ようになる。最初は音だけだったものが、少しずつ意味を持ち始める。断片的な言葉が、やがて文になる。しかし聞こえるたびに、女自身の言葉が失われていく。話そうとしても、声が出ない。書こうとしても、文字が浮かばない。自分の名前すら、忘れかけている。
私は毎日写本を開き、変化を記録した。ノートは何冊にもなった。
「類話がないんです」
ある夜、透子が言った。工房の作業台で、資料を広げながら。師匠が使っていた電気スタンドの光が、透子の手元を照らしている。
「黄泉国訪問譚は数多くあります。伊邪那岐と伊邪那美の話、オルフェウスとエウリュディケの話。世界中に類話がある。でも『言葉を草として持ち帰る』というモチーフは、どこにもない。伊邪那岐は何も持ち帰らなかった。オルフェウスも、結局エウリュディケを連れ帰れなかった。冥界から何かを持ち帰ることは、本来タブーなんです。この話は、そのタブーを破っている」
「だからこそ、女は自分の言葉を失っていくのかもしれません」
「代償……。でも、それでも女は草を摘み続けている。持ち帰り続けている。どれだけ自分が失われても」
「会いたい人がいるから」
私は自分で言って、胸が痛くなった。師匠のことを考えていた。もし黄泉の国へ行けるなら、草を摘んでくるだろうか。自分の言葉を失ってでも、師匠の言葉を聴きたいと思うだろうか。
「わからないほうがいいのかもしれません」
「この写本が何なのか。いつ、誰が、何のために書いたのか。わからないまま、読み続ける。変化を見届ける。それでいいんじゃないかって、最近思うんです」
「文月さんも、そうしていたのかもしれませんね」
師匠が何を喪っていたのか、私には永遠にわからない。
師匠が私に何を伝えたかったのかも、わからない。
言葉は死者の側に残る。生者は待つしかない。
けれど「待つ」ことは、「諦める」ことではない。草が育つように、時間をかけて、言葉が届くのを待つ。届かないかもしれない。届かなくても、待ち続ける。それが、生きている者にできる唯一のことなのかもしれない。
十二月になった。
写本の草は、十三種類になっていた。物語の中の女は、ほとんど言葉を失っている。口を開いても、音しか出ない。死者と同じになりかけている。それでも女は毎日庭に出て、草の世話をしている。水をやり、枯れた葉を取り除き、新しい芽を見守っている。言葉はなくても、手は動く。想いは、形を変えて残る。
私は物語の中の女を見ながら、師匠のことを思い出していた。師匠も言葉の少ない人だった。口数は少なかったけれど、手は常に動いていた。壊れかけた本を直し、朽ちかけた紙を蘇らせ、消えかけた文字を残した。言葉ではなく、手で語る人だった。
ある朝、一本の草が花を開いた。
女はその花を見た。蕾のまま閉ざされていた草。言い残した言葉の草。それがついに、開いた。物語の中で、季節が何度も巡った。女は待ち続けた。自分の言葉を失いながら、それでも待ち続けた。
花弁が震え、かすかな音を立てた。それは声だった。誰かの声だった。女が会いたかった、あの人の声だった。
何を言っているのかは、わからない。意味のある言葉なのかも、わからない。風の音かもしれない。自分の願望が聞かせる幻聴かもしれない。けれど女は確かに聴いた。確かに聴いたと、信じた。そして女は泣いた。声を失った女は、涙だけで泣いた。
――物語は、そこで途切れていた。
「続きはないんですか」
「今日はここまでです。明日には、また変わっているかもしれない」
「終わらないんですね、この話」
「たぶん。でも、それでいいんじゃないかと思います。終わらない話があってもいい」
私は写本を閉じた。相変わらず、重い。最初に手に取った時より、少し重くなった気がする。草が増えた分だけ、物語が重くなっている。言葉の重さ。想いの重さ。
「私、もう少しこの写本を追いかけたいんです」
透子が言った。窓の外を見ながら。冬の光が、
「研究としてじゃなく。論文を書くためでもなく。ただ、知りたい。何が起きているのか。どこへ向かうのか。この物語が、どんな結末を迎えるのか」
「わからないかもしれませんよ。永遠に」
「わからなくてもいいんです。
「来年も、来ていいですか」
「もちろん」
私は答えた。それ以上の言葉は、必要なかった。
その夜、師匠の手帳をもう一度読み返した。
何度も読んだはずの頁を、ゆっくりと繰っていく。師匠の
最後の頁に、一行があった。
見落としていたのか、前はなかったのか、それすらわからない。師匠の手帳も、写本と同じように変化しているのかもしれない。あるいは、私の目が変わったのかもしれない。見えなかったものが、見えるようになっただけなのかもしれない。
「
それだけだった。
続く言葉はない。何を伝えたかったのか、書かれていない。もしかしたら、師匠も言葉を探していたのかもしれない。伝えたいことがあって、でもうまく言葉にできなくて。物語の中の女のように。
私は手帳を閉じた。
泣きそうになった。泣かなかった。
言葉は、まだ届いていない。でも、名前を呼ばれた。師匠は私の名前を書いた。それは呼びかけの草だ。蔓を伸ばす草。誰かの名を呼ぶ声。それだけで、今は十分だった。
窓の外で、
私は工房を出た。
冬の空気が冷たい。息が白くなる。路地の向こうで、透子が手を振っている。寒いのに、ずっと待っていてくれたのだ。
未知は、まだそこにある。写本の中に、師匠の言葉の中に、透子との日々の中に、これから始まる何かの中に。
私はそれを、もう怖いとは思わなくなっていた。
【短編】白紙の続き(カクヨムコン11お題フェス参加作品) 浅沼まど @Mado_Asanuma
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます