【短編】白紙の続き(カクヨムコン11お題フェス参加作品)

浅沼まど

白紙の続き

 和紙は呼吸している。師匠の口癖だった。

 湿度しつどが変われば繊維が伸び縮みし、光を浴びれば少しずつせてゆく。百年前の紙も、昨日いた紙も、等しく息をしている。だから修復とは、その呼吸を止めないことなのだと。

 文月ふみづき冴子さえこって二年が経つ。〝工房〟を継いだ私は、今も師匠の言葉を反芻はんすうしながら仕事をしている。


 〝工房〟は京都の町家まちやを改装した建物で、師匠が四十年近くここで修復の仕事を続けてきた。表通りから一本入った路地の奥、観光客の喧騒けんそうが届かない静かな場所にある。格子戸こうしどを開けると、まずすみと紙のにおいが迎えてくれる。それから、かすかなこうぞの香り。師匠はよく、この匂いが好きだと言っていた。本の匂いは、時間の匂いだと。

 私がこの工房に弟子入りしたのは七年前、大学で日本美術史を学んでいた頃だった。卒業論文で調べものをしているうちに、古い本の修復という仕事があることを知った。本を「読む」のではなく、本を「直す」仕事。興味を持って調べているうちに、この工房にたどり着いた。師匠は最初、弟子は取らないと言った。それでも私は何度も通い、見学だけでもと頼み込んだ。三ヶ月ほど通い詰めた頃、師匠は黙って道具を渡してくれた。それが弟子入りの合図だった。

 師匠は無口な人だった。技術は言葉ではなく、手の動きで教えた。私はその手を見つめ、真似をし、失敗し、また真似をした。和紙の扱い方、のりの濃度、筆の運び。すべてが繊細で、すべてに意味があった。修復の仕事は地味で、一冊の本を直すのに何週間もかかることがある。派手さはないし、収入も多くない。それでも私はこの仕事が好きだった。古い紙に触れていると、時間が止まったような気持ちになる。何百年も前の人が触れた紙を、今、自分が触れている。その不思議さが、私をきつけてやまなかった。

 師匠が亡くなったのは、急な心臓発作だった。朝、いつものように工房を開けると、師匠は作業台の前で倒れていた。手には修復途中の古文書を握ったまま。まるで最後まで仕事をしていたかのように。葬儀には、古書店の主人や大学の研究者、かつての依頼人たちが大勢集まった。師匠がどれだけ多くの人に信頼されていたか、そのとき初めて知った。


 十一月の終わり、一人の女性が工房を訪ねてきた。


紙屋かみやはるかさん、ですよね。古い本の修復をされていると聞いて」


 朝比奈あさひな透子とうこと名乗ったその人は、私と同い年くらいに見えた。眼鏡の奥の目が知的に光っている。聞けば、東京の大学で古典文学を教えているという。御伽草子おとぎぞうしを専門に研究しているらしい。


「これを見ていただけませんか」


 透子とうこが差し出した桐箱きりばこを開けると、和綴わとじの写本が収まっていた。表紙はり切れ、題箋だいせんは半ばがれている。かろうじて「夜見草子よみぞうし」と読めた。


「祖母の遺品なんです。祖母は生前、古書の蒐集しゅうしゅうが趣味で。この写本も、どこかの古書店で見つけたものらしいのですが、どの研究者に聞いても、この題名の御伽草子は存在しないと言われて」


 私は手袋をはめ、写本を手に取った。

 最初に気づいたのは重さだった。この厚みなら、もう少し軽いはずだ。紙が水分を含んでいるのだろうか。しかし表紙に湿しめり気はない。持った感覚が、どこかおかしい。

 次に気づいたのは匂いだった。古い和紙には独特の匂いがある。ほこりと、かすかな甘さが混じった、時間の堆積たいせきした匂い。この写本にもそれはあった。しかしその下に、別の匂いが潜んでいる。墨の匂いだ。それも古びていない、新しい墨の匂いが。


「どうかしましたか?」

「いえ……少しお預かりしてもいいですか。詳しく調べてみます」


 透子とうこうなずき、連絡先を書いたメモを置いて帰っていった。


 工房の奥には師匠の遺品を収めた棚がある。修復道具、参考資料、そして師匠が生涯をかけて集めた古書のコレクション。私はその中から、師匠が晩年に使っていた手帳を取り出した。

 冴子さえこ先生は几帳面な人だった。修復した書物の記録、気になった古書の情報、調査のメモ、すべてこの手帳に書き留めていた。私はぺーじを繰り、「夜見草子よみぞうし」の文字を探した。

 あった。

 亡くなる三ヶ月前の日付で、走り書きのようにこう記されている。


夜見草子よみぞうし。出所不明。所有者ヨリ調査依頼。内容、読むたび変ハル? 要再確認。黄泉国訪問譚よみのくにほうもんたんノ類話カ」


 読むたび変わる。どういう意味だろう。

 私は写本を作業台に置き、慎重に開いた。


  *


 ——黄泉の国へ降りてゆく女があった。


 女は誰かを亡くしていた。その人の名はもう思い出せない。顔も、声も、かすみがかかったように遠い。ただ「会いたい」という気持ちだけが、胸の底によどみのように残っていた。それは悲しみとも、苦しみとも違う。もっと静かで、もっと深い何か。朝起きるたびに、そこにある。眠りに落ちる瞬間まで、そこにある。

 黄泉への道は暗かった。足元には名も知らぬ草が生え、踏むたびにかすかな音を立てた。葉擦れとも、囁きともつかぬ音。女はその音を聞きながら、ひたすら歩いた。どれだけ歩いたかわからない。時間の感覚が、少しずつ薄れていった。

 やがて女は広い野原に出た。空には星がなく、月もない。それでも野原は薄明るかった。どこから光が来ているのか、女にはわからなかった。光は空からではなく、地面から、草から、死者たちの体から滲み出ているようだった。

 そこには死者たちがいた。

 死者たちは声を持っていた。口を開き、何かを語ろうとしていた。しかし意味がなかった。言葉が音だけになって、空へ散っていく。声はあるのに、言葉がない。形だけが残って、中身が消えてしまったような声。女はその光景を、悲しいと思った。自分もいつか、ああなるのだろうか。

 女は足元の草を見た。草は三種類あった。細く白いもの、丸い葉のもの、棘のあるもの。それぞれが違う形で、違う色で、野原を覆っていた。草は風もないのに揺れていた。まるで呼吸をするように。

 女は気づいた。この草が、死者の言葉なのだと。

 声は空に散る。しかし言葉は草になり、根を張り、土に残る。死者たちが語ろうとした想いは、声としては消えても、草として生き続けている。死者の言葉は、土の中で眠っている。

 女は草をんだ——


  *


 そこで本文は途切れていた。

 続きの頁は白紙だった。虫食いでも欠損でもない。最初から何も書かれていない、真新しいような白。頁をめくっても、めくっても、白紙が続く。十頁、二十頁、三十頁。まるで物語の続きが、まだ書かれていないかのように。書かれるのを、待っているかのように。

 私は写本を閉じた。奇妙な話だった。御伽草子にしては筋が見えない。異類婚姻譚いるいこんいんたんでも、貴種流離譚きしゅりゅうりたんでもない。教訓も、笑いも、恋も含まれていない。黄泉へ降りる女が草を摘む——それだけの話が、なぜ書き残されたのか。誰が、何のために、この話を書いたのか。

 紙を調べた。楮紙こうぞがみだ。繊維の具合から見て、江戸中期から後期にかけてのものだろう。墨のにじみ方、綴じ糸の状態、すべてが時代相応に劣化している。しかし、あの匂いが気になった。どこかに、新しい墨が使われている。

 その夜、私は夢を見なかった。


 翌日、透子とうこから連絡があった。

文月ふみつき冴子さえこさんの論文を見つけたんです。十五年前のもので、未発表のまま残っていた草稿なんですが」

 透子とうこは大学の図書館で、古典文学関連の未整理資料を調べていたという。その中に師匠の名前を見つけ、驚いて連絡をくれたのだった。

「読んでみると、御伽草子の中でも特に『黄泉国訪問譚』に関心を持っておられたようです。伊邪那美イザナミを訪ねる伊邪那岐イザナギの話、それから各地に伝わる類話。冥界めいかいへ降りて死者と会い、何かを持ち帰る——そういう話を集めて分析しておられました。でも論文は途中で終わっていて、結論がないんです」

「師匠は……なぜそのテーマを」

「わかりません。ただ、草稿の余白に、こう書いてありました」

 透子とうこが写真を送ってきた。師匠の筆跡だった。細い万年筆の字で、こう記されている。


「言葉ハ死者ノ側ニ残ル。生者ハ待ツシカナイ」


 私は写本をもう一度開いた。

 そして息を呑んだ。


 草が増えていた。


 昨日は三種類だった。細く白いもの、丸い葉のもの、とげのあるもの。今日は五種類になっている。新たに、つるを伸ばすものと、花を閉じたものが加わっていた。

 本文も変わっていた。


  *


 ——女は草を摘んだ。三つの草を、五つの草を。

 蔓を伸ばす草は、呼びかけの言葉だった。誰かの名を呼ぶ声が、地をうように絡みついてくる。名を呼ばれることは、存在を認められること。死者たちは誰かに名を呼ばれたくて、蔓を伸ばしていた。呼ばれなければ、存在は消えてしまう。忘れられることは、二度目の死。

 花を閉じた草は、言い残した言葉だった。開かれることのなかった想いが、つぼみのまま固く閉ざされている。言いたかったのに言えなかったこと。伝えたかったのに伝わらなかったこと。その無念が、蕾の形をしていた。開くことを待っている。誰かに聴いてもらうことを、待っている。

 女は抱えきれないほどの草を持っていた。摘んでも摘んでも、草は減らない。野原は広く、死者は多く、言葉は尽きない。すべてを持ち帰ることはできない。でも、一本でも多く。一つでも多くの言葉を。

 これを地上に持ち帰れば、死者の言葉を聴けるかもしれない。女はそう思った。

 しかし女は気づいていた。黄泉の草を持ち帰れば、自分の言葉が減ってゆくことを。死者の言葉を受け取るたびに、生者の言葉は薄れていく。それでも女は構わなかった。自分の言葉より、あの人の言葉が聴きたかった。

 それでも女は歩き始めた——


  *


 私の手が震えていた。

 紙を調べた。劣化の具合、繊維の状態、すべて昨日と同じだ。綴じ糸も、表紙の擦れ方も、何も変わっていない。新しく書き加えられた形跡はない。インクの染み方も、百年は経っているように見える。

 けれど内容は、確かに変わっている。

 師匠のメモが脳裏によみがえった。「読むたび変ハル」。師匠は知っていたのだ。この写本の異常を。だから何度も読み返し、確認しようとしていた。


 透子とうこを工房に呼んだ。

 私は写本を見せ、昨日との差異を説明した。ノートに書き写しておいた昨日の本文と、今日の本文を並べて比較した。草の数、文章の変化、すべてを細かく記録していた。透子とうこは最初、信じられないという顔をした。眼鏡を外し、写本を近づけて見た。また眼鏡をかけ、ノートと見比べた。何度も、何度も。しかし自分でも読み、何度も比較し、やがて黙り込んだ。


「……ありえない」

「でも、現にこうなっています」

偽作ぎさく……いえ、偽作ならなぜわざわざ内容を変える必要があるのか。紙屋かみやさん、これが本物だと思いますか。本物の、御伽草子だと」


 私は答えられなかった。本物とは何か。過去に書かれたものが本物なら、これは偽物だ。しかしこの写本は確かに「在る」。変化しながら、呼吸しながら、ここに在る。和紙は呼吸している。師匠の言葉が、頭の中で響いた。


「わかりません。でも、師匠もこれを追っていた。亡くなる直前まで、何かを知ろうとしていた」


 私は師匠の手帳を透子とうこに見せた。透子とうこは手帳と草稿の写真を見比べ、長い沈黙の後に言った。


文月ふみつきさんは、誰かを亡くしていたんでしょうか」


 私は答えられなかった。

 師匠の過去を、私はほとんど知らない。修復の技術を教わり、古書への敬意を学び、隣で仕事をした。七年間、毎日のように顔を合わせていた。朝は一緒にお茶を飲み、昼は近所の食堂で並んでうどんを食べ、夕方は工房の掃除をした。それでも師匠の私生活については何も知らなかった。家族の話も、若い頃の話も、聞いたことがない。

 一度だけ、師匠が昔の話をしてくれたことがある。ある写本を修復していたとき、ふと師匠が言った。


「この仕事を始めたのは、誰かの言葉を残したかったからかもしれない」


 私は聞き返そうとしたが、師匠はそれ以上何も言わなかった。そのとき師匠が何を思っていたのか、今となってはわからない。

 師匠が何をうしない、何を求めていたのか、聞く機会がなかった。いや、聞こうとしなかったのかもしれない。聞けば答えてくれたのだろうか。それとも、やはり黙っていただろうか。


紙屋かみやさんにとって、文月ふみつきさんは」

「師匠です」


 それ以上の言葉が出なかった。師匠以上の何かだったのかもしれない。でも、それを言葉にする方法がわからなかった。透子とうこは何かを察したように、静かに頷いた。


 それから、私は毎日写本を開いた。

 写本を開くたび、草は増えた。七種類、九種類、十一種類。枯れかけた草、種をつけた草、根だけの草……それぞれに意味があるのだろう。物語も変わり続けた。女は草を持ち帰り、庭に植えた。草は育ち、花を咲かせ、枯れ、また芽吹いた。季節が巡るように、言葉も巡る。その過程で、死者の言葉が少しずつ「聞こえる」ようになる。最初は音だけだったものが、少しずつ意味を持ち始める。断片的な言葉が、やがて文になる。しかし聞こえるたびに、女自身の言葉が失われていく。話そうとしても、声が出ない。書こうとしても、文字が浮かばない。自分の名前すら、忘れかけている。

 私は毎日写本を開き、変化を記録した。ノートは何冊にもなった。透子とうこ足繁あししげく工房を訪れ、内容を書き写し、分析を重ねた。最初は週に一度だった訪問が、やがて二度、三度と増えていった。二人で夜遅くまで写本について話すことも多くなった。話題は写本のことだけではなくなった。互いの研究のこと、好きな本のこと、学生時代の思い出。透子とうこは東京の下町育ちで、幼い頃から古い本が好きだったという。祖母の家に遊びに行くと、古い蔵書を見せてもらうのが楽しみだった。この写本も、その祖母の遺品だった。


「類話がないんです」


 ある夜、透子が言った。工房の作業台で、資料を広げながら。師匠が使っていた電気スタンドの光が、透子の手元を照らしている。


「黄泉国訪問譚は数多くあります。伊邪那岐と伊邪那美の話、オルフェウスとエウリュディケの話。世界中に類話がある。でも『言葉を草として持ち帰る』というモチーフは、どこにもない。伊邪那岐は何も持ち帰らなかった。オルフェウスも、結局エウリュディケを連れ帰れなかった。冥界から何かを持ち帰ることは、本来タブーなんです。この話は、そのタブーを破っている」

「だからこそ、女は自分の言葉を失っていくのかもしれません」

「代償……。でも、それでも女は草を摘み続けている。持ち帰り続けている。どれだけ自分が失われても」

「会いたい人がいるから」


 私は自分で言って、胸が痛くなった。師匠のことを考えていた。もし黄泉の国へ行けるなら、草を摘んでくるだろうか。自分の言葉を失ってでも、師匠の言葉を聴きたいと思うだろうか。


「わからないほうがいいのかもしれません」


 透子とうこが私を見た。


「この写本が何なのか。いつ、誰が、何のために書いたのか。わからないまま、読み続ける。変化を見届ける。それでいいんじゃないかって、最近思うんです」


 透子とうこは眼鏡の奥の目で、じっと私を見つめた。何かを探るような、何かを確かめるような眼差しだった。

「文月さんも、そうしていたのかもしれませんね」


 師匠が何を喪っていたのか、私には永遠にわからない。

 師匠が私に何を伝えたかったのかも、わからない。

 言葉は死者の側に残る。生者は待つしかない。

 けれど「待つ」ことは、「諦める」ことではない。草が育つように、時間をかけて、言葉が届くのを待つ。届かないかもしれない。届かなくても、待ち続ける。それが、生きている者にできる唯一のことなのかもしれない。


 十二月になった。

 写本の草は、十三種類になっていた。物語の中の女は、ほとんど言葉を失っている。口を開いても、音しか出ない。死者と同じになりかけている。それでも女は毎日庭に出て、草の世話をしている。水をやり、枯れた葉を取り除き、新しい芽を見守っている。言葉はなくても、手は動く。想いは、形を変えて残る。

 私は物語の中の女を見ながら、師匠のことを思い出していた。師匠も言葉の少ない人だった。口数は少なかったけれど、手は常に動いていた。壊れかけた本を直し、朽ちかけた紙を蘇らせ、消えかけた文字を残した。言葉ではなく、手で語る人だった。


 ある朝、一本の草が花を開いた。

 女はその花を見た。蕾のまま閉ざされていた草。言い残した言葉の草。それがついに、開いた。物語の中で、季節が何度も巡った。女は待ち続けた。自分の言葉を失いながら、それでも待ち続けた。

 花弁が震え、かすかな音を立てた。それは声だった。誰かの声だった。女が会いたかった、あの人の声だった。

 何を言っているのかは、わからない。意味のある言葉なのかも、わからない。風の音かもしれない。自分の願望が聞かせる幻聴かもしれない。けれど女は確かに聴いた。確かに聴いたと、信じた。そして女は泣いた。声を失った女は、涙だけで泣いた。

 ――物語は、そこで途切れていた。


「続きはないんですか」


 透子とうこが訊いた。いつものように工房を訪れ、写本の変化を確認した後で。窓の外は暗くなり始めていた。十二月の日暮れは早い。


「今日はここまでです。明日には、また変わっているかもしれない」

「終わらないんですね、この話」

「たぶん。でも、それでいいんじゃないかと思います。終わらない話があってもいい」


 私は写本を閉じた。相変わらず、重い。最初に手に取った時より、少し重くなった気がする。草が増えた分だけ、物語が重くなっている。言葉の重さ。想いの重さ。


「私、もう少しこの写本を追いかけたいんです」


 透子が言った。窓の外を見ながら。冬の光が、透子とうこの横顔を照らしていた。眼鏡のフレームが、夕日を反射してきらめいている。


「研究としてじゃなく。論文を書くためでもなく。ただ、知りたい。何が起きているのか。どこへ向かうのか。この物語が、どんな結末を迎えるのか」

「わからないかもしれませんよ。永遠に」

「わからなくてもいいんです。紙屋かみやさんがそう言ったから」


 透子とうこは私を見て、笑った。初めて見る笑顔だった。これまでは研究者の真剣な表情ばかりで、こんなふうに柔らかく笑うことはなかった。私も笑い返した。いつからだろう。透子とうこがいる工房が、自然に感じられるようになったのは。


「来年も、来ていいですか」

「もちろん」


 私は答えた。それ以上の言葉は、必要なかった。


 その夜、師匠の手帳をもう一度読み返した。

 何度も読んだはずの頁を、ゆっくりと繰っていく。師匠の几帳面きちょうめんな文字。修復した書物の記録。気になった古書の情報。日々の仕事の覚書。師匠の人生が、この小さな手帳に凝縮されている。四十年分の仕事。四十年分の想い。

 最後の頁に、一行があった。

 見落としていたのか、前はなかったのか、それすらわからない。師匠の手帳も、写本と同じように変化しているのかもしれない。あるいは、私の目が変わったのかもしれない。見えなかったものが、見えるようになっただけなのかもしれない。


はるかへ」


 それだけだった。

 続く言葉はない。何を伝えたかったのか、書かれていない。もしかしたら、師匠も言葉を探していたのかもしれない。伝えたいことがあって、でもうまく言葉にできなくて。物語の中の女のように。

 私は手帳を閉じた。

 泣きそうになった。泣かなかった。

 言葉は、まだ届いていない。でも、名前を呼ばれた。師匠は私の名前を書いた。それは呼びかけの草だ。蔓を伸ばす草。誰かの名を呼ぶ声。それだけで、今は十分だった。


 窓の外で、透子とうこが待っている。今日も写本を開いて、変化を確かめるのだ。昨日より草は増えているだろうか。物語は進んでいるだろうか。女は、声を聴けただろうか。

 私は工房を出た。

 冬の空気が冷たい。息が白くなる。路地の向こうで、透子が手を振っている。寒いのに、ずっと待っていてくれたのだ。

 未知は、まだそこにある。写本の中に、師匠の言葉の中に、透子との日々の中に、これから始まる何かの中に。

 私はそれを、もう怖いとは思わなくなっていた。

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【短編】白紙の続き(カクヨムコン11お題フェス参加作品) 浅沼まど @Mado_Asanuma

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