記憶の体温

おげんさん

第1話

朝、目が覚めたとき、彼は自分の指先が少し冷たいことに気づいた。

冬にはまだ早い時期だったし、窓も閉まっている。冷たい理由は特に思い当たらない。ただ、冷たかった。


布団の中で、何度か指を曲げ伸ばしする。感覚はある。しびれているわけでもない。

それでも、まるで長い間使っていなかった物を急に動かすような、微かな違和感という心地良さが残った。


洗面所で顔を洗う。

水の音が思ったより大きく、部屋の中に反響した。

蛇口を閉めても、音だけが少しの間、耳の奥に残る。


鏡の中の自分と目が合う。

髭の剃り残し、寝癖、いつもと変わらない輪郭、やる気の失った気怠げな目。

それでも彼は、一瞬だけ「これは昨日の続きだろうか」と考えた。

問いは形になる前に消えた。


通勤電車では、吊り革を掴んだ。

指に伝わるプラスチックの冷たさが、妙に現実的だった。

誰かの肩がぶつかる音。謝罪の声。アナウンス。

どれも知っているはずなのに、少し距離がある。


会社では、必要な会話だけをした。

資料の数字を確認し、メールを送り、頷く。

「最近どう?」と聞かれ、「少し疲れてます」と答える。

その言葉が、質問を終わらせる力を持っていることを、彼は前から知っていた。


昼休み、机の引き出しを整理していると、使っていないボールペンが一本出てきた。

もらった記憶はあるが、いつ、誰からだったかは思い出せない。


彼はペンを指で転がした。

軽い。

思っていたよりも、ずっと。


その瞬間、理由もなく、誰かに手を引かれた感覚が蘇った。

駅の階段だった気もするし、夜の道だった気もする。

顔も、声も、はっきりしない。

ただ、指に残る温度だけが確かだった。


彼はペンを机に戻した。

思い出そうとはしなかった。

思い出せる気が、しなかったからか。

思い出す気も、なかったからか。


午後の仕事は、特に印象に残らなかった。

気づけば日が傾き、窓に夕方の色が映っていた。

誰かのキーボードの音が、遠くで一定のリズムを刻んでいる。


帰り道、駅のホームで電車を待つ。

風が吹き抜け、上着の袖が揺れた。

指先が、また少し冷える。


彼はポケットに手を入れた。

鍵とスマートフォン以外、何も入っていないはずだった。

それでも、確かに「何かがあった」


形はない。

重さもない。

名前もない。


失くした、という感覚だけが、そこにあった。


彼は指を握り、開き、もう一度握った。

確かめるように。

あるいは、手放さないように。


熱は、体温計で測れる。

でも、それだけでは足りないことを、彼はうまく説明できない。


熱は、体温計で測れるのに、ぬくりもりは触れ合わなければ測れなかった。


「少し疲れたな」

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記憶の体温 おげんさん @sans_72

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