送り囃子

陽炎

第1話

坂道を上るタクシーの窓から、見慣れた風景が現れた。緑が濃い山の斜面。のびる稲の香り。ふと風が吹き込んで、肌に触れた空気の湿り気が、夏を思い出させた。


「八坂村、久しぶりですか?」


運転手が何気なく言った。


「……はい、五年ぶりです。僕も父の葬儀以来です」


懐かしいはずのこの村に、足を向けるのをためらっていた。それでも、久しぶりに思い切って戻ってきたのは、やはりあの人のことがあったからだ。小さな村の小さな家に、母が一人きりで暮らしている。東京での仕事にかまけて顔を出さなかった自分が、少し後ろめたかった。


カーブを抜けた瞬間、風景が開けた。鳥居が見える。赤く塗られたそれには、紙垂がかけられ、夏祭りの準備がされていた。


――ああ、今日だったか。八坂祭。


思わず、胸の奥がざわついた。


子供の頃、毎年楽しみにしていた祭りだった。太鼓の音、境内の屋台、浴衣姿の子供たち、りんご飴の甘い匂い。目を閉じれば、すぐにでも思い出せる。


タクシーを降りて家の前に立つと、木の格子戸が少しだけ開いていた。玄関から顔を出した母は、変わらぬ笑顔を浮かべていた。少し痩せた気がしたけれど、声は昔と変わらなかった。


「おかえり、拓海」


「ただいま、母さん」


靴を脱ぎ、畳の匂いを吸い込む。懐かしい。昔のまま、何も変わらない。


夜の帳が下りる頃、俺はひとりで家を出た。


祭囃子が風に乗って聴こえてくる。遠くで太鼓が鳴り、笛の音が追いかける。確かに覚えのあるリズムのはずだが、昔とは、何かが違う。半拍ずつ、遅れているような、妙な歪みを感じた。久しぶりだからだろうか。自分の記憶違いかもしれない。


神社へと続く参道は、赤い提灯で照らされていた。草が伸びきった石段の脇に、屋台が並んでいる。焼きそば、たこ焼き、金魚すくい。配置も看板も、子供の頃に見たままだ。


俺は、焼きそば屋の前で足を止めた。子供の頃、ソースが跳ねて服を汚し、怒った母に引きずられた記憶がある屋台だった。鉄板の前に立つのは、当時と同じ顔の親父。頭にねじり鉢巻きをして、鉄板の上を無言でかき混ぜていた。


 「……こんばんは」


思い切って声をかけてみたが、親父はこちらを一瞥しただけで、無表情のまま鉄板に視線を戻した。目が合ったはずなのに、無視されてしまった。地方の田舎の集落だ。よそものだと思って警戒しているのかもしれない。


金魚すくいの屋台の隣で、りんご飴を売る屋台を見つけた。子供の頃、ここで飴を落として泣いたことを思い出す。甘ったるい匂いが風に混じって鼻をかすめたとき、どうしようもない懐かしさが胸を押しつぶした。


無意識に近づくと、屋台の奥からぬっと現れた老婆が、俺の顔を見た瞬間、にっこりと笑った。


「坊や、また来てくれたんだね」


――坊や? 


「いえ……あの、俺……」


何か言いかけたが、うまく言葉にならなかった。老婆は俺の戸惑いなど気にする様子もなく、りんご飴を一本、丁寧に紙に包んで手渡してきた。


「お小遣い、持ってるかい? 十円でいいよ」


十円? 昭和じゃないんだぞ。そう言いかけて、ふと違和感が確信に変わった。


老婆の目は、優し気に細められた。まるで俺を九歳の子供だと思い込んでいるような…


慌てて屋台の横に置かれた金属の湯桶に顔を映す。湯面に揺れる自分の姿は――ほんの少しだけ、幼く見えた。顔の輪郭が丸く、瞳もどこかあどけない。けれど、それは「気のせい」と言えなくもない程度の変化だった。


なのに。


「拓海くん?」


背後から声をかけられて振り返ると、知らない中年女性が微笑んで立っていた。


「今日はひとりなの? お母さんの手、離れちゃだめじゃない」


何か言い返そうとしたが、言葉が出なかった。彼女は俺の返答を待つこともなく、「じゃあね」と手を振って去っていった。


俺の姿が、彼女にも“子供”に見えていたのか……?


不気味さを感じながらもさらに数歩進む。数人の村人にすれ違ったが、皆一様に「拓海くん」と呼びかけ、懐かしそうな眼差しで見つめてくる。どれも、俺が知っていた村の大人たちだ。もう七十を超えているはずの彼らが、誰も老けていない。記憶のままの姿でそこにいる。


足元がふらついた。混乱の渦の中、なぜか泣き出しそうになった。その時ふと頭に浮かんだ。


……俺は、本当に、二十七歳だったか?


祭りから逃げ出すように歩き出した。胸の奥に渦巻く不安は、もう「違和感」なんて言葉では片づけられないほどだったからだ。


ようやく家にたどり着き玄関を開けると、母が台所で湯を沸かしていた。


「拓海、帰ってたのね。ほら、冷たい麦茶入れてあるから飲んで」


何も変わらない。変わらなさすぎる。あの外の異常が、家の中には届いていないような、奇妙な静けさ。それに、よく見れば母が若い頃のままの姿だ。


俺は意を決して、母に尋ねた。


「……母さん。俺って、今何歳?」


コップを手渡しかけていた母の動きが、ふと止まった。長い間を置いて、ゆっくりと微笑んだ。


「なに言ってるの、九歳でしょ?」


いつものように、笑いながら答える。


「ちがう!俺は二十七だ。東京で働いてる!父さんの葬儀以来5年ぶりに帰ってきただろ?」


「お父さん……?」


母は困ったような顔で、視線を彷徨わせた。


「あなたったら、また変な夢でも見たの? お父さんなら、仕事で今朝早くに出かけたでしょう?」


目の前が、ぐにゃりと歪んだ気がした。


5年前の葬式。棺。焼香の匂い。俺が泣きながら遺影を見つめた日のことは、はっきり覚えている。なのに、母の中では、父はまだ生きていて、しかも今朝、出勤したという。


――おかしい。


慌てて自分の部屋に駆け込んだ。記憶ではスーツやバッグを置いたはずなのに、そこにあったのは小学生のランドセルと体操服。机の上には、宿題のプリントと「九九カード」が並んでいる。引き出しを開けると、自由帳、キャップ付きの鉛筆、こども電話帳。どれも、俺が小三だった頃に使っていたものと同じだった。


スマホ……スマホはどこだ。あれさえあれば、自分が大人だって証明できる。


――ない。


ポケットにも、机にも、ベッドの下にも、どこにも。


息が苦しくなった。肩で息をしながら、壁の鏡に目をやる。そこには、見慣れない顔があった。あどけない少年の顔。輪郭が丸く、目だけが大きくて、少し怯えた表情。


鏡の中の“俺”が、まばたきをした。


「……うそだろ……」


喉の奥で声が乾いた。

記憶は二十七歳のままなのに、身体も周囲も、なにもかもが――過去に戻っている。


いや…もし、東京での生活そのものが夢だったとしたら? 仕事も、部屋も、会社の同僚も――全部、死ぬ前に見ていた“未来の願望”だったとしたら?


その可能性が頭をよぎったとき、背中が凍りつくような寒さに襲われた。


夜の風が生温かく、首筋をなでていった。気づけば、止める母を振り切って、俺はまた家を出ていた。どこへ向かうかも分からず、ただ足の向くままに歩いていた。身体が、自分の知らない正しい場所を覚えているかのように。


いつのまにか、足元の土は舗装された道から草地に変わっていた。木々の影が黒くのしかかる山道。夏草の香りに混じって、土の匂いと、ほんのわずかな線香のような匂いが鼻をかすめた。


その匂いが、胸の奥に引っかかった。


思い出せそうで思い出せない。けれど、それが“祭りの日の匂い”ではないことだけは分かった。


森の奥、子供の頃に一度だけ入ったことのある墓地が現れた。夜の墓地にひとりで立っているというのに、不思議と怖さはなかった。


古びた墓石が並ぶ中、ひときわ低く、苔むした小さな石に目が留まった。無意識のうちに、その前まで歩いていた。


草をかき分け、石に刻まれた文字を指先でなぞる。風で提灯が揺れ、わずかに差し込んだ月光が、文字を照らし出した。


「拓海 九歳 永眠 平成一五年 七月十五日」


脳が、一瞬で真っ白になった。指が震え、喉がつまる。理解できない。いや、理解したくない。それでも、目の前の石は確かに、俺の“墓”だった。


「うそだ……俺……東京に……」


そう口に出しても、言葉の重みが自分に戻ってこない。抵抗しようとすればするほど、胸の奥で何かが軋んだ。記憶の底から、水の音がよみがえる。


そうだ。川だ。9歳の夏休みの八坂祭りの日、友達とふざけて橋の上から飛び込んだ。浮き輪はなかった。流れが思ったよりも速く、冷たくて、底に引きずられて……。


そこで、記憶は途切れていた。その先は…ない。


東京での人生、父の葬儀。仕事も、通勤電車も、同僚の顔も――全部、死ぬ間際に見ていた夢だったのかもしれない。


子供の頃に死んだ俺が、もしも生きていたら……そう願った未来の姿。それが、二十七歳の「俺」だった…?記憶がどんどん剝がれていく。同僚の顔も、上司の顔も、住んでた東京のアパートも、すべてがぼんやりとして思い出せない。


「そうか……ここが、俺の最後だったのか」


石の前に膝をついた。指先が土に埋もれ、湿った草の冷たさがじんと伝わってくる。涙が止まらなかった。どうして、こんなにも長く気づけなかったのか。


遠くで、祭囃子がまた鳴り始めた。今までよりも、ずっと柔らかく、悲しみに満ちた音色で。


翌朝――いや、それが“朝”と呼べる時間だったのかも、もう定かじゃない。気がつけば、俺は墓地の脇にうずくまったまま、空を見上げていた。


囃子の音は止んでいた。空は鈍く曇り、風は冷たかった。祭の熱も、人の気配も、どこにもなかった。


もう一度、自分の名の刻まれた墓石を見てから、立ち上がった。土の感触が生々しく靴底にまとわりつく。


歩き出す。神社へ戻ろうとして、ふと違和感に気づいた。


参道の石畳は、雑草に覆われていた。提灯のはずれた柱が倒れかけ、錆びた屋台の骨組みだけが、風に軋んでいた。


屋台……?


昨夜、あんなに賑わっていたはずの焼きそば屋や金魚すくいの場所には、瓦礫と朽ちた板きれしかなかった。神社の階段を上がると、拝殿は屋根が崩れ、土砂や大きな石が転がっており、木は黒く炭のように焦げていた。


 まるで、焼け落ちたような痕跡。

 境内全体が、誰にも使われていない、打ち捨てられた空間だった。


 「……うそ、だろ……?」


声が震える。こんなもの、見たことがない。こんな八坂神社、俺の記憶にはない。昨夜だって…

神社の裏手にまわり、小上がりの丘から村の集落を見下ろす。そこに広がっていたのは、かつての美しい風景ではなかった。


屋根の落ちた民家。崩れた土壁。草に覆われた電柱と、傾いた井戸。村全体が、瓦礫と土に埋もれていた。


まるで……ここにはもう、人なんて住んでいないかのように。


膝が震えた。


祭りのあの賑わいは? 屋台の明かり、子供たちの笑顔、母の声、あれは全部――幻だったのか?


その時、神社に立札があるのに気が付いた。


“平成16年八坂村で大規模な地滑りと山火事。全村壊滅。犠牲者150名。集落ごと消失。消えた神社跡”


平成16年…俺が亡くなった翌年、村はもう、この世には存在していなかった。


そして俺は、その“存在しない場所”に戻ってきた。

どうやって? なぜ?……いや、そうじゃない。


戻ってきたんじゃない。ずっとここにいたんだ。

死んだ九歳の俺は、この壊れた村に取り残されたまま、幻想の中で、時間の止まった夏を繰り返していただけだった。


自分がようやく真実にたどり着いたその瞬間、誰もいない空の下から、微かに――また、あの祭囃子が聴こえてきた。


それは、今度こそ、本当の“終わり”の音だった。


廃墟と化した境内に座り込み、俺はもう立ち上がる気力すら失っていた。ここには、誰もいない。母も、友達も。俺の知っている村は、もうどこにもなかった。


太鼓も笛も、今は聞こえない。ただ風が吹き、錆びた鳥居が軋む音だけが、時折耳を打つ。


今になってようやく理解する。八坂祭は、死者の魂を慰め、送るための祭だった。火災で焼かれ、山に飲まれた村人たちは、その祭の“記憶”の中でしか、もう存在できなかった。


彼らは、祭を繰り返していた。毎年、同じ音を、同じ灯を、同じ風景を。


「ごめん……」


声にならない言葉がこぼれた。


「ずっと、俺だけ……眠ってたんだな」


土の上に手をつくと、どこか懐かしいぬくもりを感じた。夏の地熱。陽の光。子供の頃、よく寝転がって空を見ていた、あの感覚。

風がそっと吹き、草が揺れ、空のどこかから、また――笛の音が聴こえた。

けれどそれは、もう俺を引き戻すための音ではなかった。

優しく、切なく、そして静かに――送り出すための音だった。

境内に、風が吹き抜けた。


鈍く曇っていた空の雲が、ゆっくりと裂けて、朝の光が差し込みはじめる。どこか現実味のない淡い光だった。まるで夢の終わりにだけ訪れる、やさしい目覚めのような。


俺は立ち上がった。身体が軽い。背負っていた重さが、少しずつ剥がれていくのが分かる。


視界の端に、ひとりの子供が立っていた。健太だ。昔、よく遊んだ親友。あの事故の前日も、一緒に川へ行った。


「おそかったな、拓海」


笑って言うその顔は、何一つ変わっていなかった。


「ごめん……ずっと、夢を見てたみたいだ」


俺がそう答えると、健太はうんうんと頷いた。


「みんな、待ってたよ」


振り返ると、境内のあちこちに懐かしい顔が並んでいた。子供も、大人も、あの祭りで見た誰もがそこにいた。焼きそば屋の親父、りんご飴の老婆、浴衣姿の同級生たち――


全員が静かに微笑み、こちらを見つめていた。


「もう、帰れるんだな……?」


そうつぶやいたとき、胸の中にあった棘のようなものが、すっと消えていくのを感じた。誰かを許すのではなく、自分を許せた気がした。自分が死んでいたことも、現実を受け入れられなかった弱さも、すべてを。


太鼓の音が、どこからともなく鳴った。


それはもう、重くのしかかるものではなかった。遠く、懐かしい場所へと誘うような、軽やかな囃子。笛の音が重なり、夏の終わりを告げる風が吹いた。


神社の鳥居を、俺はゆっくりとくぐった。光が視界を満たす。境内が薄れていく。人々の姿も、屋台も、すべてがやわらかい光の中に溶けていく。


母の姿が、現れた。やさしく微笑みながら、何も言わず、ただそっと頷いた。


ありがとう、と言おうとしたその瞬間――すべてが、ふっと静かに消えた。

無音。風も、光も、音もない。だけど、不思議と怖くなかった。あたたかい毛布に包まれて眠る前のような、安心だけが残っていた。

もう、終わったんだ。そう思った。……けれど、なぜだろう。この虚無感は。


草を踏む音、土の感触、遠くで鳥が鳴いている。やがて姿を現したのは、一人の若い女性だった。白いシャツにジーンズ、カメラを肩から提げている。汗をぬぐいながら、朽ちた鳥居の前で立ち止まり、周囲を見渡した。


「本当に……あったんだ。八坂村」


声に出した彼女の言葉が、森の奥へと吸い込まれていく。


村は完全に崩れていた。屋根の落ちた家、焼け焦げた神社、草に埋もれた道。生きた人間の気配など、どこにもない。地図から消えた廃村。それでも彼女は、都市伝説のひとつとしてこの場所を訪れたのだろう。


「資料で見た祭りの記録、ぜんぶ消されてるのも妙だったけど……本当に“何か”があったのかもね」


彼女がそう呟き、シャッターを切った瞬間――風が吹いた。


途端に空気の密度が変わる。草のざわめきの向こうから、笛の音が、かすかに響いてきた。


ピィ――ヒャララ――……。


「……え?」


女性は足を止めた。耳を澄ます。誰もいないはずの境内から、太鼓の音が、確かに聴こえていた。


「冗談……でしょ……?」


鳥居の先に視線を向けると、ひとりの青年が立っていた。黒髪の短い男。薄い笑みを浮かべ、じっとこちらを見ている。浴衣姿ではない。現代的な服装。だけど――その存在が、あまりにも“静かすぎた”。


まるで、風景の一部のように、動かず、ただそこに“いる”。


彼女は、おそるおそる声をかけた。


「あなた……ここの人?」


青年は答えない。ただ、その場を離れようとする彼女の歩みに合わせて、ふっと鳥居の中へと姿を引っ込めた。


「待って……!」


カメラを構えた彼女が一歩踏み出す。そのときだった。


笛の音が、ぐんと近くなる。


草の中から、古びた提灯がひとつ、風に揺れて現れた。どこにも灯りはないのに、かすかに赤く滲んでいる。


――まるで、また祭りが始まる前の合図のように。


鳥居をくぐろうとした彼女に、青年が背を向けたまま、低く静かな声を落とした。


「……ようこそ、八坂祭へ。」


その言葉とともに、囃子が再び鳴り響く。


まるで、長い眠りから目覚めたかのように、どこからともなく屋台が立ち並び、ぼんやりとした人影たちが動き出す。


光のない提灯。音だけが響く神社。過去を模倣した、死人たちの夏。

境内の奥、薄闇の中で。俺は、笑っていた。


「一緒に行こう?」


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送り囃子 陽炎 @kagerouss

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