第8話 背徳のラーメンと、冷え切ったシチュー
深夜のオフィスビルを出ると、冷たい夜風が火照った頬に心地よかった。 二人並んで歩道を歩く。終電まではまだ少し時間がある。
「……お疲れ。助かったわ」
西園寺が、ふと足を止めて小さく言った。その横顔には、さすがに疲労の色が滲んでいる。
俺のポケットの中で、スマホが重く存在を主張していた。美咲からの『ご飯冷めちゃうから、冷蔵庫入れとくね』というLINE。家に帰れば、彼女の手料理がある。レンジで温め直して、一人でそれを食べるべきだ。
でも。帰りたくなかった。あの優しくて、残酷なほど「醜く見えてしまう」空間に一人で戻るのが、怖かったのだ。それよりも、今は隣にいるこの美しい人と、もう少しだけ空気を共有していたい。
「なあ、西園寺。腹減ってないか?」
俺は勇気を出して声をかけた。
「駅前にさ、うまいラーメン屋があるんだよ。食べて帰らないか?」 「はあ?」
案の定、西園寺は信じられないものを見る目で俺を睨んだ。
「アンタ、時計見てる?もう二十三時よ。こんな時間に炭水化物と脂の塊なんて、自殺行為だわ」 「でも、今日は頭使ったからカロリー消費してるし、プラマイゼロだって」 「なわけないでしょ。筋肉が泣くわ。私は帰ってプロテインを……」
ぐうぅぅぅ――。
その時、可愛らしい音が夜の街に響いた。西園寺の言葉がピタリと止まる。
「…………」 「…………」
沈黙。西園寺の白い頬が、街灯の下でみるみるうちに赤く染まっていく。
「い、今のは違うの!胃が活発に動いただけというか……!」 「行こう。俺が奢るから」 「いらない!そういう問題じゃ……」 「頼むよ。一人じゃ入りにくいんだ。……今日のご褒美だと思ってさ、付き合ってくれよ」
俺は食い下がった。ここで彼女を帰してしまったら、俺はまた一人ぼっちになる。それだけは避けたかった。
西園寺は真っ赤な顔で俺を睨み、それから恨めしそうにお腹をさすった。そして、大きなため息をつく。
「……一杯だけよ」 「え?」 「ラーメン。一杯だけなら、付き合ってあげなくもないわ。……アンタがそこまで言うならね」
彼女はツンと顔を背けたが、その足先はすでにラーメン屋の方を向いていた。 俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。チョロい。そして可愛い。こんな感情、美咲以外に抱くはずがないと思っていたのに。
入ったのは、駅前の古びたラーメン屋だった。カウンターだけの狭い店。店員のおじさんは、俺の目には「脂ぎった巨漢」に見えるが、今の俺はそれを視界の端に追いやり、隣の西園寺だけに意識を集中させた。
「お待ちどう!」
湯気を立てて運ばれてきたのは、背脂たっぷりの豚骨ラーメン。チップの補正がなくても、これは普通に美味そうだ。
「……いただきます」
西園寺が割り箸を割り、レンゲでスープを恐る恐る一口飲む。そして、意を決したように麺を啜った。
「ん……っ!」
彼女の目が輝いた。普段の澄ました表情が崩れ、年相応の少女のような顔になる。
「おいしい……!なによこれ、暴力的な味がするわ」 「暴力的な味って」 「だってそうじゃない。化学調味料と脂の塊。……でも、今の私には最高のご褒美ね」
彼女は嬉しそうに、また麺を口に運ぶ。口元に脂がついても気にしない。その姿は、俺の目にはどんな高級フレンチを食べる貴婦人よりも美しく、そして「生命力」に溢れて見えた。
俺もラーメンを啜った。美味い。西園寺と二人で、肩を並べて食べるラーメン。 ただそれだけのことが、どうしようもなく楽しかった。
会話が弾んだ。仕事の愚痴、上司の悪口、学生時代の話。彼女は意外と笑い上戸で、俺のくだらない話にも、コロコロと鈴のような声で笑ってくれた。
チップのバグなんて忘れていた。いや、バグっているからこそ、俺は彼女の素顔を見ることができ、彼女もまた「見た目」ではなく「中身」で俺を見てくれている。
錯覚しそうになる。これが、俺の日常なんじゃないかと。家に帰れば、この綺麗な人が待っていてくれるんじゃないかと。
「……ごちそうさま」
西園寺が満足げに丼を置いた。スープまで完飲している。
「あーあ。食べちゃった。明日からまた筋トレ地獄ね」 「付き合うよ、筋トレ」 「お断りよ。アンタみたいな貧弱なのと一緒じゃ、ペースが乱れるわ」
彼女は意地悪く笑い、それからふと真顔になった。
「……ありがとね、高坂」 「え?」 「仕事手伝ってくれたことも。ラーメン強引に誘ってくれたことも。……楽しかったわ」
彼女は少し恥ずかしそうに目を逸らした。街灯の明かりが、彼女の長いまつ毛に影を落としている。
胸が高鳴る。これは、もう言い逃れができない。俺は、西園寺麗華に惹かれている。生理的な安らぎだけでなく、一人の女性として。
「俺も……楽しかったよ」
喉まで出かかった「もっと一緒にいたい」という言葉を、俺は必死で飲み込んだ。
午前一時。俺は自宅のドアの前に立っていた。ラーメン屋での高揚感は、アパートの階段を上るごとに急速に冷めていき、今は重い鉛のような罪悪感だけが残っていた。
静かに鍵を開ける。美咲はもう寝ているはずだ。起こさないように、そっと入ろう。
「……おかえり」
暗闇のリビングから、声がした。
「うわっ!?」
心臓が止まるかと思った。電気のついていない部屋。ダイニングテーブルの椅子に、美咲が座っていた。スマホの画面の明かりだけが、彼女の顔を下から照らしている。
その顔は、やはり俺の目には「知らない女」に見える。だが、その表情が強張っていることだけはわかった。
「み、美咲? 起きてたのか?」 「……うん。心配だったから」
彼女の声は、いつものような明るさがなく、低く沈んでいた。
「遅かったね。残業、大変だった?」 「あ、ああ。トラブルがあってさ。みんなで修正してたんだ」
嘘をついた。「みんな」じゃない。西園寺と二人きりだ。それに、その後ラーメンを食べて笑い合っていたなんて、口が裂けても言えない。
「そっか。……お疲れさま」
美咲は立ち上がり、テーブルの上を指差した。
「シチュー、作ったんだけど。……もう冷めちゃったね」
そこには、ラップのかかった白い皿があった。クリームシチューだ。具材のニンジンやブロッコリーが彩りよく入っているのが、ラップ越しでもわかる。普段なら食欲をそそるはずのその光景も、ラーメンで腹を満たした今の俺には、ただただ「罪悪感の塊」にしか見えなかった。
「ごめん。会社で軽く食べてきちゃったんだ」 「……そっか」
美咲は短く答え、ラップの上からシチューの皿を手に取った。
「じゃあ、捨てとくね」 「えっ? いや、明日の朝食べるよ!」 「ううん。ジャガイモ溶けちゃってるし、美味しくないから」
彼女は有無を言わせぬ手つきで、中身を生ゴミ入れに流し捨てた。ボトボト、という鈍い音が響く。
せっかくの手料理が。俺のために作ってくれた、美味しそうなシチューが、無残に捨てられていく。俺は背筋が凍る思いでそれを見ていた。美咲が、怒っている。 いや、怒りとは違う。もっと冷たくて、諦めにも似た空気。
彼女は空になった皿をシンクに置くと、俺の方を見ずに言った。
「シャワー、浴びてきたら? ……豚骨の匂い、すごいよ」
心臓が、早鐘を打った。
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『愛する君の、バグった顔面】 @yamayamatomtomo
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