第7話 誰も知らない残業と、二人の共犯関係
翌日の会社。俺は鉛のように重い体を引きずってデスクに座っていた。昨晩、美咲が作ってくれたお粥。その優しさが胃の腑に重く残っていて、まともに眠れなかったのだ。モニターに向かって仕事をしながらも、頭の隅には常に「罪悪感」というノイズが走っている。
そんな憂鬱な一日が終わりかけ、ようやく定時のチャイムが鳴ろうとしていた時だった。
「あー、マジっすか……」
営業部の一角で、間の抜けた声が上がった。トラブルだ。明日のプレゼン資料に重大な数値ミスが見つかったらしい。原因は、担当の後輩がチップの自動計算ツールを過信して、検算をサボったことだった。
「えー、でももう定時っすよ?明日早起きして直せばよくないっすか?」
後輩は悪びれもせず、ヘラヘラと言い訳をしている。周りの社員も「まあまあ、ドンマイ」と甘い顔だ。チップが普及してから、人々は「責任感」というものまで麻痺してしまったらしい。俺の目には、彼らの顔が「責任逃れをしてニタニタ笑う猿」のように見えて、さらに気分が悪くなった。
「……全員、帰っていいわよ」
その弛んだ空気を、冷たい声が切り裂いた。西園寺麗華だ。彼女はパソコンの画面を睨みつけたまま、静かに告げた。
「私が全部直しておくわ。アンタたちがやっても、どうせまたミスが増えるだけだし」 「いやーすいません、……んじゃお願いしまーす!」
後輩たちは「ラッキー」と言わんばかりの顔で、そそくさと退社していった。 数分のうちに、フロアには静寂が訪れた。
残されたのは、西園寺ただ一人。……そして、家に帰る勇気がなくて、帰り支度の手を止めていた俺だ。
俺はそっと西園寺の席へ近づいた。広いオフィスの中、ポツンと明かりのついたデスクで、彼女はキーボードを叩いていた。その背中は、痛々しいほど小さく、そして孤高に見えた。
美しい、と思った。顔の造形の話ではない。誰もが見て見ぬふりをする泥仕事を、文句一つ言わずに引き受けるその姿勢。このふやけた世界で、彼女だけが歯を食いしばって戦っている。
俺は無言で自分のデスクに戻り、パソコンを再起動した。
「……は?何してんの、アンタ」
西園寺が驚いて顔を上げる。
「手伝うよ。その量、一人じゃ朝までかかるだろ」 「いらない。アンタに貸しなんて作りたくないし」 「俺がやりたいんだ。……それに、俺も今日は、あんまり家に帰りたくない気分だからさ」
俺は苦笑いをして、資料の束を手に取った。西園寺はしばらく俺を睨んでいたが、やがて「……勝手にすれば」と小さく呟き、作業に戻った。
そこからは、言葉のない時間が続いた。聞こえるのはキーボードを叩く音と、時折めくる紙の音だけ。
四時間後。俺たちは黙々と作業を続け、ようやく全ての修正を終えた。
「……終わった」
西園寺が大きく背伸びをする。その拍子に、彼女の髪がサラリと肩に流れた。ふと見せた無防備な仕草に、心臓が跳ねる。
「ありがとう。……まさか、本当に終わるとは思わなかった」
彼女はモニターから目を離さずに言った。素直じゃない彼女なりの、精一杯の感謝なのだろう。
「西園寺はさ、なんでそんなに頑張れるんだ?」
俺は以前から気になっていたことを聞いた。チップがあれば、適当にやっていても「有能な社員」に見せることはできるはずなのに。
「……気持ち悪いからよ」
彼女はポツリと答えた。
「みんな、チップに頼って自分を磨くことをやめてる。仕事も、見た目も、全部機械任せ。そんなの、人間じゃなくてただの『データの塊』じゃない」 「西園寺……」 「私は嫌なの。自分の足で立って、自分の頭で考えて、自分の手で掴み取りたい。たとえ周りから『要領が悪い』って笑われてもね」
彼女は強い瞳で俺を見た。その瞳には、揺るぎないプライドが宿っていた。
ああ、そうだ。俺が彼女に惹かれたのは、顔が綺麗だからだけじゃない。彼女の魂が、この世界で一番「美しい」からだ。
「笑わないよ。俺は」
俺は真っ直ぐに彼女を見た。
「君のそういうところ、すごくカッコいいと思う。……周りの奴らは節穴だよ。君の本当の価値に気づいてない」 「っ……」
西園寺が息を呑んだ。彼女の瞳が揺れる。今まで自分をバカにしていたと思っていた男から、一番欲しかった言葉を言われたのだ。動揺しないはずがない。
「……アンタ、ずるいわよ」
彼女は顔を伏せ、耳まで赤くして呟いた。
「普段は冴えないくせに。……そういう時だけ、なんでそんな……人の痛いところ突いてくんのよ」
彼女はガサゴソと鞄を探り、一本の缶コーヒーを取り出した。それを、乱暴に俺のデスクに置く。
「……これ、あげる。お礼」 「え、いいのに」 「うるさい! 私が借りを残したくないだけ! ……あと、これも」
彼女はもう一つ、小さな包みを取り出した。コンビニのチョコレートだ。
「……糖分、足りてない顔してたから」
顔を真っ赤にしたまま、そっぽを向く西園寺。それは、彼女が初めて見せた「明確なデレ」だった。顔がいいだけじゃない。彼女もまた、不器用な人間なのだ。
俺はそのチョコレートを受け取った。体温で少し溶けたチョコの感触。まずい。 これは、本当にまずい。俺の中で、「憧れ」だった感情が、明確な「恋心」へと変わり始めている。
誰もいない深夜のオフィス。俺たちは共犯者のように、二人だけの甘い空気を共有していた。
その頃。俺のスマホには、美咲からの『ご飯冷めちゃうから、冷蔵庫入れとくね』というLINEが、未読のまま届いていた。
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