モジュラー・7

月立淳水

モジュラー・7


 カナタは、走っていた。

 この場所は走行禁止。人とぶつかるかもしれない、というわけではない。

 この微小重力下では、走るために足を大きく蹴りだすことは、単に天井に頭をぶつけることにつながるからだ。

 事実、彼は何度も天井に頭をぶつけかけては両手で天井に”逆立ち”し、投げ出されたピンポン玉のように廊下を走っていた。

 そうしてようやくたどり着いたのは、【火星移住者旅程説明会】の会場。

 受講カードを読み込ませたカナタが中を覗き込むと、五、六十人ほどが狭い部屋にひしめき、前方に投影されたスライドを見ながら、説明を聞いていた。

 カナタの両親を含むグループは前方に座っていたが、その周囲の席はすでに埋まっている。やむなく、入り口からほど近い空いた席に座り、ノートとペンを取り出して机に放り出した。

 ノートを広げ、メモを取る――ふりだけ。何度も繰り返されてきたこの説明会に、彼は半ばうんざりしていた。

 もちろん、次の旅程は飛び切りに特別な旅程であることはカナタも理解している。

 それにしても、だ。

 これで既に四回目。

 凡そ同じ話を三回も聞かされ、それが四回目となれば緊張感も薄れ、うっかり集合時間に遅れてしまっても仕方がない。彼の両親も時間までは好きに過ごしていると良い、と彼を解き放ったのだから、両親の責任でもある。

 そんなことをぼんやりと考えながら、彼は、真っ白なノートを逆向きにめくり、一見何が書いてあるのか分からない不可思議な絵の描いてあるページを開いた。

 その絵は彼なりの芸術だった。

 今日の日付を端に刻んでから、早速、新しい線を付け加え始める。


 ――僕は、アーティスト肌でさ。


 そんなことをはばからずに吹聴する程度には、カナタは絵を描くのが好きだった。それも、きっと誰にも理解できないだろう絵を。

 前方では、次の旅程の説明が続いている。

「繰り返しになりますが、次の旅程はマスドライブです。モジュラー・6までの搭載が終わりましたら、皆様はモジュラー・7に搭乗いただきます。それから一か月にわたる加速ののち、火星軌道に向けて打ち出されます。皆様は、打ち出し直前には2G、地球重力の倍程度の遠心力を受けまずが、打ち出しの瞬間に0Gとなります。最も多くのけが人を出している瞬間です。どうぞ、係員の指示に従い、安全を確保することを忘れませんようお願いいたします」

 係員の説明を上の空に聞きながら、カナタは鉛筆で図案にさらに線を付け加えている。


 ――これは、火星の地図なんだ。

 僕らが住み始めて、きっと千年後、火星はこんな風になる。

 地図に見えない? ははっ、それは読み方が違うんだ。これは、平面の地図と、そこから見える宇宙(ソラ)と、そこに住む人々の心、それを一つにしてある。そんな風に見てごらん。


 カナタは心の中の鑑賞者と問答をしながら、鉛筆を滑らせていく。

 夢中になったカナタの耳には、もはや旅程説明は届いていない。

 前方では、円形加速器が、運動量的反動と角運動量的反動を同時に打ち消すために、三千トン余りの宇宙船を四隻同時に打ち出すシステムであることが説明されている。

 ふと、カナタは、そんな雑音とは別のものを感じた。

 顔を上げ、ゆっくりと周囲を見回す。

 そして、左に座っている少女が、興味深そうな――あるいは瞠目ともいえる――表情で、カナタを見つめていることに気づいた。

 思わず目をそらし、自分の後ろを見つめているのではないかと確かめ、再び目線を戻す。

 少女は確かにカナタを見ていた。――否、正確には、カナタの描いていた”火星の地図”を見ていた。

「あっ、こ、これ?」

 思わずカナタは小声で自分の絵を指示した。

 とたん、少女は罰が悪そうに視線をそらし、うつむき、それから何か意を決したかのように顔を上げ、

「うん、その、ちょっと面白い絵だったから」

「この絵がわかるの? これ、その、僕が考えた――」

「繰り返し構造、フラクタル、この世のすべての美しいものの原始構造――それが形を変えて空白を圧倒して――すごい」

 少女の勢いにカナタは思わずのけぞったが、その隙間を埋めるように、少女はさらに身を乗り出してきた。

「ね、ここの構造、こっちの構造から回転縮小したものでしょう? その隣にこっちの、ほらこんな遠くの構造がまた違う角度ではまってて、なのに、完全に溶け合ってて、それなのに、その隣に生じたこの空白が、今度はこっちから持ってきた小さなタイルでぴったり埋められてて――ねえ、あなたの頭の中、どうなってるの?」

 少女は上気した顔でカナタの絵を指さしては、あれだこれだとその相似構造を見つけ出し、最後に多少失礼なことを付け加えた。

 カナタは、今さらそれが未来の火星地図とは言い出せなくなって絶句していたが、

「あっ、ご、ごめんなさい、私、ソラ。その、えっと、きっと一緒の船で火星に移住するの、よろしく。えっと、今年中学生になったばかりで」

 我に返った少女――ソラが慌てて自己紹介したことで、少しだけ落ち着きを取り戻した。

「僕はカナタ、今年中学生だったら、僕と同級生になるのかな、うん、よろしく」

 カナタも少し頬を赤らめながら、返した。


***


「……地図?……」

 改めて僕が説明したところ、ソラさんは頭を抱えてしまった。

「うん……わ、笑わないで聞いてよ、あれは、地表と、宇宙と、人々の暮らしとを一つにまとめて表現してみた地図で……いつどこでどんな人がってのが一目で分かるようになってて……」

 僕が説明している間も、ソラさんは僕のノートを斜めから見たりひっくり返したりしている。

「だけどこれを見て、その何とかって図形があって、なんてよく気が付くよね」

「うん、そういうの見つけるの大好きだから」

 ソラさんがそう言った時に見せた表情に、僕はまた小さく赤面してしまう。

 僕に向けて言ったわけじゃないって分かってても、女子が大好きだなんてつぶやくものだから。

 それに、彼女はその瞳いっぱいに好きっていう気持ちをあふれさせていて、とても――きれいに見えたものだから。

「小さなころから、数字とか図形とか大好きで。昔の人たちが見つけたいろんな法則を自分で追いかけてみると、なんだか自分も一緒に新しい発見をしている気分になれて。ふふ、ちょっと変な子なんだ」

「へ、ん、なんかじゃないよ、僕だって、小さなころから変な絵を描く子だってよく言われて――でも僕は変だって思わないし」

「ふふ、違うよ、私もカナタくんも、きっと変」

 面と向かって変と言われていても、あまり不愉快に思えなかった。

 僕にとって、変って言われるのは、ちょっとだけコンプレックスだったけど、ちょっとだけほっとする空間で。

 変じゃないよ、なんて気を使われるより、ちょっとだけ心地よかった。

「ね、家族は?」

「ちょっと僕が遅れちゃって、別に座ってる」

「そうなんだ、私も。参加スタンプだけもらいに来たの」

「ソラさんも」

「ソラ、で良いよ。うん、私も、カナタって呼ぶ」

「う、うん」

 そう答えたものの、僕は次に紡ぐ言葉を失ってしまった。

 と思うと、

「私って、カナタと違って芸術の才能ないんだ」

 ソラさん――ソラはそんなことを言い出した。

「でも、数字でなら理解できる。例えば、音階のラ。周波数は四百四十ヘルツ。きれいな和音を出そうと思ったら、その倍数に近い音階を重ねていくの。二倍はオクターブ上がるだけだから飛ばすとして、三倍の千三百二十ヘルツのミ、五倍二千二百ヘルツに近いド#、七倍三千八十ヘルツに近いソ――そんな風に、人間が心地よいって感じる音の組み合わせと数字ってすごく関係してて、ほかにも自然の美しさでいうと花とフィボナッチ数列の――」

 あっという間にソラの話が分からなくなってくる。

「――この絵のここも七十二度の倍数で回転する法則が……あ、ごめん、えっと、なんの話だっけ」

 彼女の独演会に僕がきっとぽかんとしてるのを見たのだろう、彼女は話を中断したけれど、僕は思わず笑った。

「うん、君って変だ。僕も変。よく分かった」

 すると、

「変って言われてうれしいの、初めて」

 彼女は少し恥ずかしそうにはにかんだ。その笑顔に、僕はドキリとした。

「もしかするとこの説明会も、ソラにとってはみんな数字なのかな」

 僕にとっては、マスドライブは最も醜い真円とちょっと落ち着くゆがんだ曲線。真円が気に食わないのでいくつか五角形を足していったらその数は四十七個になってた。その数字にはきっと何の意味もないけれど、ソラには意味があるのかな。

 彼女は僕の問いかけを受けて、僕との距離を少しだけ縮めながら滔々と語り始める。

 ――加速器の腕の長さは4941キロメートル、661番目の素数で、661自身も121番目の素数。スーパー素数っていうの――

 ――加速エネルギー源の太陽光パネルは一辺8128メートル! よりによって8128よ!――

 ――さらに私たちが載るモジュール名はモジュラー・7。素敵な数字。私たちはこれからモジュラー・7の中で暮らすの。わくわくしちゃう――

 ――モジュラー・7はたくさんの生活ブロックの集まり。発射直前にグループ分けがされて完全に同じ重量に統一されるの。つまりたくさんの数字を同じ和になるようにグループ分けする分割問題。もし百ブロックの分割問題だったりしたら、旅行中にいくつ組み合わせ見つけられるか、――直行組はたった半年よ? 逆行組でも十八か月。起きてる間十秒に一回組み合わせを試して、たった二百万通りしかチェックできないなんて、あんまりね――

「わかる? この世のなにもかもが、きっと一つ一つ特別な数字でできていて!」

 視線を遠くにしたソラの横顔。僕も思わず同じ方に視線を向けてしまう。

 だって、じっと見てるのが恥ずかしいから。

「うん、そうか……なんだか僕もそんな気がしてきた」

「でしょ?」

 これはもう病気だな、なんて失礼なことが頭に浮かぶけれど。

 僕と違う。

 それがこんなに心地よく聞こえるなんて、初めてのことだった。

 知りたい、と思った。

 僕の知らないことがどんどんあふれ出てくる。

 なにもかもが数字から産まれてくるソラの世界。

 イモムシやクジラやセコイアの大木ややっと火起こしに成功したサルのなれの果て……そんな全てを、彼女のその世界では母なる数字が育んでる。

 まるで――

「君にとって数字は大地なんだね」

 僕がうっかり口に出すと、ソラは少し目を丸くして、笑った。

「そう、そうかもね。カナタって、絵描きというよりも詩人ね」

 そんな話をしているとき、周囲の人々が椅子を軋らせながら立ち上がる音が聞こえてきた。説明会が終わったようだった。

「あ、説明会終わったね。お話、楽しかった。いつかまた会えたら――」

「次は、いつ?」

 僕は思わずソラの言葉を遮っていた。

 いつかまた。

 その言葉の空虚さに、僕は、言いようのない焦燥感を憶えていた。

 この発射基地はそれほど大きな構造じゃない。でも、通路全長は数十キロに及ぶし、そのどこかで偶然に会えるなんて思わない。

 約束をしたかった。

 また会えるって。

「……普段は図書室で過ごしてる」

 驚いたように目を丸くしていたソラだが、少し口元を緩ませて、ぽつりとつぶやいた。


***


 私もどうかしてると思った。

 普段はよほど退屈したときでないと図書室になんて行かないのに、今日は朝食を終えたらすぐに図書室に向かった。

 いつカナタが来るかわからないから。

 変な私を変なまま受け入れてくれる人が――なんていうロマンティックな動機じゃない。と思う。

 ただ、カナタはなんだか……違ってる。そう思った。

 誰もが、すごいねと言いながらも聞き流す私の言葉。

 ――君にとって、数字は大地なんだね。

 そんな風に私のことを表現した人は、今までにいなかった。

 ちょっとおどおどしてて話下手で、なのに、私の中に数字の大地を見つけてくれた。私自身も気づいていなかった、未踏の大陸。

 きっと彼は私に何かをもたらしてくれる――。

 そんな不思議な予感。

 だから、図書室に来た。

 やってきたカナタはすぐに私を見つけた。

 彼はさっそくノートを開いて、新しい図案を私に見せてきた。

 相変わらずの数学的秩序、でもそこに、新しいノイズがたくさん入ってた。

 ここはなんだろう。あっ、これはきっと、和音の仕組みを説明したときの話。もともと彼の絵はとても突飛な組み合わせで、でも全体が調和していた。なのに、あえてきれいな整数倍の図案が組み込まれて彼独特の調和をひどく乱してる。

 ほかにも私の話を取り込んだ不安な線が平然と並んでいる。

 私はそれらを一つ一つ指摘した。

 カナタは、少し驚いた顔をしながらも、照れ笑いでそれを認めた。

 私は、なぜこんな美しい数列をこんな不安な並べ方にできるのか、聞いた。

 カナタは、分からない、と応えた。

 私の言ってることはちっとも分からない、だけど、イメージがわくんだ、と。

 彼自身も見たことのないイメージが、と。

 ――。

 こんな日を何度か繰り返した。

 そしてある晩、気づいた。

 数字しか知らない私の言葉に、カナタが命を吹き込んでる、ってこと。

 私は生まれて初めて、『生み出す人』になってる。

 これまでは、先人たちの偉業をなぞって私の中に古い世界を作るだけだった。

 でもそれは、カナタを通して新しい世界を生み出してる。

 カナタの指先から生み出される、見たことのない、でも、私の言葉から生まれた世界。

 私が生み出した私の知らない世界。

 感動して涙が出そうになった。

 慌てて毛布をかぶってこらえた。

 ずっと、ずーっと、こうしてたいと思った。

 二人で永遠にこうして――そんなことが頭をよぎったけれど、でも、これはきっと恋じゃない、そう思った。

 これは、恋じゃない。


***


 ――僕はずっと劣等感の雨の中を歩いてきた。

 僕は、何も持ってなかった。

 持つための努力もしてこなかった。

 例えば、この前別れを済ませてきたクラスのセヤさんは、頭脳明晰、スポーツ万能、絵画も音楽もこなし誰とも明るく会話できるスーパーガールで僕の持たない何もかもを持っていて、――でも、僕は彼女に何も感じなかった。

 一つでも自分のものにしてやろうなんて思ったこともない。

 芸術家肌だからと言い訳をして僕よりたくさんのものを持つ人から目をそらしてきた。

 その芸術でさえも、才能がなかった。

 目の前にある景色なんて、写真に撮ってしまえばいい。

 紡がれた言葉なんて本にしてしまえばいい。

 そこにあるものを描くなんて、つまらない。

 そんなことをうそぶきながら、僕は僕の空想を僕だけに向けて描き続けてきた。

 どうせ僕には届かないものだから。

 どうせ誰にも分らないから。

 そう決めてしまうと、降り注ぐ雨に濡れずに済んだ。

 なのに。

 僕はソラに嫉妬した。

 人生で初めて誰かに嫉妬した。

 それはただの嫉妬ではなく。

 僕がソラに感じたのは、どうしようもない憧れだった。

 僕と違う世界が、ソラの中にある。

 手に入れたいと思った。

 虚勢の傘を投げ捨ててずぶ濡れになってでも、僕のものにしたい。

 僕にはその手段があると気づいた。

 描きたい、と思った。

 初めて、描きたいと思う世界を見つけた。

 それはこの世のどこにもないし、形もないし音もない。きっと、キラキラだとかサラサラだとかいうオノマトペだけを残して消えていく。

 だから、描かないといけない。

 残さないと消えてしまう。

 ソラの中にある世界。

 僕の知らない世界。

 まだまだずっとあふれてくる世界。

 ずっと永遠に描き続けなければならない。

 描かないと消えてしまう。

 ソラが消えてしまう――そんなことは、絶対に、絶対に許されないんだ。


***


 二人は、ちょっとした冒険をした。

 それは、生活ブロック閉鎖を翌日に控えたその日。

 この後、彼らは生活ブロックに戻るよう指示を受け、厳重に閉鎖され、きれいに半分の重量に分けられる。

 正回転組と逆回転組、それぞれにまっすぐに火星に向かう直行組と、一年以上遅れて裏から火星に向かう逆行組、合わせて四組が正確に同質量とされる。宇宙船への搭載の都合上、ソラとカナタが正回転組に属していることは決まっているので、あとは、直行組と逆行組のどちらに彼らのブロックが所属するか――

 過去のちょっとしたトラブルのために、それは発射直後まで明かされないことになっていた。

 もし二人が直行組と逆行組に分かれてしまったら。

 二人とも、どこかでそれに気づいていた。

 興味の赴くままにという風を装って、その情報にアクセスしてみよう、そう言い出したのはどちらからだったか。

 二人はめったに人の訪れることのない資料室に出向き、最新のブロック情報を当たった。

「思ったよりたくさんのブロックがあるんだね」

 カナタの言葉に、ソラもうなずく。

「私のブロックが22トンちょうど、全部で三百トンに近いっていうんだから、たくさんあるよ」

「ぼ、僕のブロックは、ほかの家族も乗ってて31・1トンなんだ」

 カナタは慌てたように言った。ソラがさりげなく自身のブロックの情報を出したことに気付き、彼もそうすることにしたのだ。

 彼らの目の前のモニターには、今回の打ち出しで搭載される予定の、合計二十八個のブロックのリストが表示されている。

 245、220、140、196、196、126、245、133、175、294、91、280、385、182、105、203、311、287、133、119、175、329、189、154、112、357、224、294、という無機質な数字が並ぶ。

「この数字が重さ? 245トンってこと?」

「ううん、これは、百キログラムの単位ね。245って数字は、24・5トンってこと」

「じゃあ……あった、この、311が、僕がいるブロックだ」

「そうね、私はこの220」

「ねぇ、これって、」

 カナタはためらい、かつてソラの語った分割問題の困難性を思い出しながら、続けた。

「ソラならすぐに組み分けってできる?」

「すぐにってのは……ちょっと無理かな」

 何をしに来たんだろう、という想いがカナタの脳裏によぎるが、それでも、意を決して彼は言葉を続けた。

「二分の一、だよね」

 ソラも、その言葉の意味を正しく理解した。

「そう、ね、分割のパターンも色々ありそう。きっと、二分の一」

 お互いに、何が、とは問わなかった。

 確率。

 ここで二人が別れる確率。

 単なる確率、コインの裏表。

 それを、言葉にしただけだった。

「その、一応、」

 再び、カナタが口火を切った。

「さよならを、言っておこうかと」

 それを聞いて、ソラはめまいのようなものを感じる。

 カナタがどんな覚悟でここに来たのかを知って。

 でも、ソラはそれを半ば本能的に拒否した。

「私はさよならは言わない。きっと――」

 言いながら、ソラはじっと数列を眺めた。

 そして彼女は、ふと何かに気づく。

 あ、と小さな声が漏れ、それから、

「――絶対に一緒だよ」

「ぼっ、僕もそうだ。さよならは、言わない」

 何かを飲み込むようなしぐさを見せたソラは、モニターの電源を切った。

 ほのかに照らされていた資料室がふっと暗くなる。

 先に背を向けたソラに続いて、カナタは暗い資料室をあとにする。

 やがて通りかかった図書室の前。

 ここが二人の分かれ道だった。

「じゃあ……その、また」

「うん……」

 二人はお互いに背を向け、自分の家族の待つブロックに向けて歩み始めた。

 数歩、歩いたところで、ソラが振り返る。

「カナタ!」

 ソラの絞り出すような声に、カナタも立ち止まる。

 ソラは、ぎゅっと奥歯をかみしめた。

 涙はこぼさない。

 悲しい別れになんか、しない。

「また、ね!」

 カナタが肩越しにうなずくのを認めると、ソラは振り返って、駆け出した。


***


「忘れ物?」

 カナタは係員に聞き返した。

「はい、届けがありました。資料室に、このハンカチが、と。今はわずかでも重量を動かしたくないですからね、忘れてはいけませんよ」

「は、はい、すみませんでした」

 そう言いながらハンカチを受け取ったカナタは、でも、首をかしげていた。

 確かに、ハンカチにはカナタの名が書いてある。でもそれは彼のものではなかった。

 とはいえ、押し問答をする時間もない。まもなくブロックの扉は発射に向けてロックされる。

 だから素直に受け取って――ハンカチ一枚くらいいいだろう――係員に退去いただいた。

 彼はその落とし主が誰か、分かっている。

 ソラだ。彼女のハンカチだ。わざとカナタの名を書いて届けさせたのだ。

「でも一体どうして――」

 そう思いながらハンカチを広げると、ノートの切れ端のような紙が中から出てきた。

 それは、ソラからの手紙だった。


***


「私はさよならは言わない。きっと――」

 私は数列を見つめて、何か心にしっくりくるものを感じて、――気づいてしまった。

 なんてこと。

 全部。全部――

 七で割り切れる。

 モジュラー7が合同な数字たち。

 たった二つのブロックを除いて。

 ……嘘だ。

 そんなわけがない。

 一瞬のうちに、何度も検算した。

 でも。

 私とカナタのブロックだけが、3余り。

 どんな組み合わせにしても、私とカナタのブロックを一緒にすることだけはできない。

 モジュラー7の美を乱す、たった二つの異物。

 それは決して一緒にはいられない、二人っきりのモジュラー7。

 あらゆる可能性がひしめく中、二人が一緒にならないことだけが決まっていた。

 確率は――ゼロ。

 量子コンピューターを持ち出すまでもなく、ゼロだった。

 あんまりだ。

 どうして。

 どうして私たちなの。

 数字なんてなんでもよかったじゃない。

 どうして――どうしてこんな意地悪をするの?

 私が気づかなければよかったの?

 どうして私をこんな風にしたの?

 神様……あんまりです。

 今すぐカナタを抱きしめて泣き叫びたい。

 思わず小さな声を漏らしてしまった。

 ――でも、泣き声にならないように歯を食いしばった。

 泣かない。

 泣いてなんか、やらない。

 こんな運命を刻んだ神様に、せめて意趣返ししてやるの。

 おあいにく様、ここで泣き叫ぶ私を見たかったんでしょ、神様。

 私は、泣かないの。

 それから。

 声が震えないように。

「――絶対に一緒だよ」

 カナタがなんと返してくれたかも聞こえなかった。

 こみあげてくる嗚咽を必死で飲み込んだ。

 悲しい別れになんか、しない。

 してやらない。

 だから私は、嘘をついた。


 またね、と。


***


 加速の日々を終えて宇宙船は放り出された。係員の指示通り安全を確保して、突然の無重力でけがをすることもなかった。

 まもなくブロックは解放され、モジュラー・7内での行き来ができるようになる。

 でもそこにソラはいない。

 今も、ソラとの距離は毎秒二十キロメートル以上の速さで遠ざかっている。

 もう何万キロという、空の彼方に、行ってしまった。

 空の星はあんなに近くて手を伸ばせば届きそうなのに。

 ソラには届かない。

 天の川はサラサラとながれ、星々はキラキラと輝いてるのに。

 もうソラの世界は聞こえない。

 灰色になった視界の中、でも、僕には、ソラから受け取った言葉を抱きしめた。

 それを忘れない限り、僕とソラはずっとつながってると思うから。

 ――悲しい別れになんかしない。

 ――私たちは、同じモジュラー・7に生きているから。

 ――そして、いつか。

 僕は、ノートの新しいページに今日の日付を刻んだ。

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モジュラー・7 月立淳水 @tsukidate

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