朝霧

辛口カレー社長

朝霧

 ――霧の朝は、外に出るな。

 それが、僕が少年期を過ごした美濃部みのべという町の、鉄の掟のようなものだった。

 四方を険しい山々に囲まれたその町は、すり鉢の底のような地形をしている。湿気が滞留しやすく、季節の変わり目ともなれば、町全体が牛乳を流し込んだような濃密な白に沈むことが珍しくなかった。

 この町において、霧は単なる気象現象ではない。もっと土着的で、ある種の信仰や畏怖いふに近い対象だった。

「霧が出ているから、今日は学校を遅刻してもいい」

 そんな理屈が、大真面目に通用するくらいに。学校だけではない。役場も、商店も、霧が晴れるまではシャッターを開けない。それが暗黙の了解として機能している奇妙な閉鎖空間。それが僕の故郷だった。


 子供たちは、大人から口酸っぱく教え込まれる。「霧の中には『悪いもの』が紛れ込んでいる」とか「境界が曖昧になるから、あちら側に連れて行かれる」と。

 しかし、僕はそんな迷信じみた教えを、ただの生活の知恵の変形だと思っていた。

 この町の道路は狭く、ガードレールのない用水路や崖が至る所にある。視界が五メートル先も見えないような濃霧の中で出歩けば、車にはねられたり、足を踏み外して転落したりする危険性が高い。

 大人たちは子供を危険から遠ざけるために、わざとそんなおどろおどろしい怪談めいたものを吹き込んでいる。そう解釈していた。


 ――高校生になるまでは。


 あの日も、朝から世界は白く濁っていた。

 窓ガラス越しに見る庭の植木は輪郭を失い、ただの緑色の染みのように滲んでいる。湿気を吸ったカーテンが重たく垂れ下がり、部屋の中にもどこかカビ臭いような、重苦しい空気が漂っていた。

「今日、ちょっと霧が出てるんじゃない? 車で送って行こうか?」

 台所から顔を出した母さんが、心配そうな声を上げた。その手には、まだ洗っていない皿が握られている。母さんの視線は僕ではなく、窓の外の白い闇に向けられていた。その瞳には、明らかに交通事故以上の何かを恐れる色が宿っていた。

 僕は食パンを口に押し込みながら、鞄を掴んで立ち上がる。

「少しずつ薄くなってるし、日も昇ってきてる。このくらいなら大丈夫だよ。行ってきます」

「あっ、ちょっと待ちなさい! 和也!」

 背中に投げかけられた母さんの制止を振り切るように、僕は玄関のドアを開けた。途端に、冷たく湿った空気が肌にまとわりつく。肺の中まで白く染まりそうな、水気を帯びた空気。

 僕は自転車に跨ると、ペダルを踏み込んだ。


 走り出して数分で、僕は自分の判断の甘さを後悔し始めていた。家の前では薄く見えた霧は、通りに出た瞬間にその密度を変えた。まるで生き物のように、あるいは意思を持った壁のように、行く手を遮っている。

 上下左右の感覚が希薄になる。進んでいるのか、それとも景色の方が後ろへ流れているだけなのか、分からなくなるような浮遊感。

 音も奇妙だった。自転車のチェーンが回る金属音や、タイヤがアスファルトを噛む音は、霧に吸い込まれるようにくぐもって聞こえる。その一方で、遠くの鳥の鳴き声や、誰かの話し声のような正体不明のノイズが、すぐ耳元で囁かれたかのように鮮明に響くことがあった。

 視覚と聴覚の不一致。平衡感覚の喪失。

 ――やっぱり、母さんの言う通りにしておけばよかったかな。

 そんな後悔が頭をよぎった時だった。

 念のためノロノロ運転で走っていた僕の視界、右前方の白い壁の中に、ぼんやりとした黒い影が浮かび上がった。

 ――ちょっ!?

 心臓が跳ね上がる。

 僕は慌ててブレーキレバーを握りしめた。キキーッという不快な音が湿った空気を切り裂く。

 自転車を止め、人影の方を凝視した。距離は十メートルもないはずだが、霧のせいでピントが合わない写真のように揺らいで見える。

 ガードレールのそばに、誰かが立っている。学生服だ。うちの高校の制服。じっと動かず、こちらを見ている。

 霧の流れが一瞬変わり、その顔が露わになった瞬間、僕の恐怖は歓喜へと変わった。

「しょうちゃん!」

 僕は自転車を放り出すようにして降り、その人影――翔太郎しょうたろうの元へ駆け寄った。

「無事だったのか! よかった!」

 翔太郎は僕のクラスメイトであり、幼い頃からの親友だった。

 先週の日曜日、彼は「最高の景色を撮ってくる」と言って、一人で近くの山へ日帰り登山に出かけたきり、戻らなかった。夜になっても連絡がつかず、翌日には両親が警察に捜索願を出した。

 小さな町だ。ニュースはすぐに広まった。警察、消防隊、そして地元の消防団も含め、総勢七十人を超える大人たちが山に入り、連日捜索を続けていた。

 しかし、足跡ひとつ、痕跡ひとつ見つからない。

 ――神隠し。

 町のお年寄りたちがそう囁き始めていた矢先だった。


「どこに行ってたんだよ。みんな心配してたんだぞ?」

 僕は翔太郎の肩を掴もうと手を伸ばしたが、ふと、そのあまりの「普通さ」に躊躇して手を止めた。

 遭難して一週間近く経っているはずなのに、彼の制服はパリッとしていて、泥汚れひとつない。頬もふっくらとして血色が良く、憔悴した様子が微塵もなかったからだ。

 翔太郎は何も喋らず、ただニコニコとしていた。口角を不自然なほど高く上げ、目尻を下げた、満面の笑み。

 普段の彼はおとなしく、こんな風に能天気に笑うタイプではなかったはずだ。でも、生きて再会できたという安堵感が、僕の違和感を打ち消した。極限状態から生還して、彼もハイになっているのかもしれない。

「……」

 彼は笑ったまま、ゆっくりと頷いた。

「こんなところに突っ立ってないで、すぐに帰れよな? 親御さん、泣いてたんだぞ。あとで家に行くからな!」

 僕はまくし立てた。翔太郎は相変わらず無言のまま、首を縦に振る。その動きは滑らかで、けれどどこか人形めいた機械的なリズムを感じさせた。

 霧が再び濃くなり始める。始業時間が迫っていた。僕は「じゃあな!」と声をかけ、再び自転車に跨った。ペダルを漕ぎ出し、一度だけ振り返る。

 白い霧の向こう、翔太郎はまだそこに立ち尽くし、ニコニコと僕の方を見ていた。


「しょうちゃんが戻って来たよ!」

 教室のドアを開けるなり、僕は大声で叫んでいた。朝のホームルーム前の教室は、まだ気だるげな空気に包まれていたが、僕の一言で蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

「マジで!?」

「どこにいたの? 怪我は?」

「どこで会ったんだよ。警察ですら見つけられてねぇのに」

 クラスメイトたちが僕の机の周りに集まってくる。僕は興奮冷めやらぬまま、通学路での出来事を話した。安堵の空気が教室に広がる。

「ンだよー。生きてたのかよー。心配させやがって」

 誰かが大げさに溜息をついた。

「家出してたんじゃないの? 親と喧嘩したとか」

「自分探しの旅ってやつだぜ、きっと」

「一週間もどこに隠れてたんだか。あとで問い詰めてやろうぜ」

 みんな口々に勝手なことを言い合いながらも、その表情は明るかった。

 最悪の事態――つまり「死」を想像していた重圧から解放され、教室はいつもの日常を取り戻していた。冗談交じりの軽口は、恐怖の裏返しだったのだと思う。

 授業中も、僕は窓の外を眺めては、ニヤけてしまうのをこらえきれなかった。

 霧はまだ晴れきらず、校庭を白く覆っている。

 放課後になったら、真っ先に翔太郎の家に行こう。何を話そうか。どんな冒険談が聞けるだろうか。

 そんなことばかり考えていた。


「大原、ちょっといいか?」

 放課後のチャイムが鳴り、帰り支度をしていた僕を呼び止めたのは、担任の真壁まかべ先生だった。

 いつもは生徒と冗談を言い合うような気さくな先生だが、その時の表情は硬く、能面のように無表情だった。

「職員室まで来い」

「あの……何でしょうか?」

 先生は僕の問いかけを無視して、足早に廊下を出て行く。その背中には、近寄りがたいピリピリとした空気が漂っていた。

 僕は首を傾げながら後を追った。先生は職員室には入らず、その隣にある、進路指導などで使われる小さな面談室へ僕を招き入れた。

「座れ」

 ぶっきらぼうに言い放つと、先生は向かいのパイプ椅子に腰を下ろした。

「……翔太郎を見たって?」

「はい。今朝、家から出てすぐに。通学路のガードレールのところです」

 僕は胸を張って答えた。

「そうか……」

 先生は腕を組み、目を閉じた。「うーん……」と低く唸り、眉間に深い皺を寄せる。何か非常に厄介な計算問題を解いているかのような、あるいは頭痛に耐えているかのような顔だった。

 沈黙が続く。

 次第に、僕の中に小さな苛立ちが芽生え始めた。翔太郎が見つかったというのに、なぜ先生は喜ばないのか。警察への連絡やら何やらで忙しいのは分かるが、僕を呼び出して黙り込む意味が分からない。

「今朝、霧が出てなかったか?」

 唐突に、先生が目を開けずに言った。

「あー、はい。結構出てましたね。霧というよりは、モヤみたいな感じでしたけど。でも、自転車で学校に来るには支障ないくらいでした」

 先生がゆっくりと目を開けた。その瞳は、怒りとも悲しみともつかない、酷く疲れた色をしていた。

「俺の住んでるところには、霧もモヤも、全くと言っていいほど出てなかったんだがな」

「え?」

 先生の家は、僕の家とは山の反対側だ。局地的に天候が違うことはよくある。

「だから、何なんですか? 先生の家が晴れてても、僕の家の周りは霧だったんです。それより、早く帰らせてください。これからしょうちゃんの家に――」

「翔太郎は見つかったよ。遺体でな」

「……はい?」

 間抜けな声が出た。

 思考が停止する。先生の言葉が、脳内で意味のある言葉として変換されるまでに、数秒のタイムラグがあった。

 先生は僕の目を真っ直ぐに見据えて、事務的に、けれど重々しく告げた。

「今日の午前十時頃だ。捜索隊が、崖下で倒れている翔太郎を発見した」

「え、でも……」

「死亡推定時刻は、死後四日から五日経過しているとのことだ」

 頭の中が完全に真っ白になった。

 ――死後、数日?

「いや、でも、僕はしょうちゃんに会いました! 言葉も交わしたんです! 『無事でよかった』って言ったら、彼は頷いて……」

「大原」

 先生が机をドン、と叩いた。

「発見された時、遺体はかなり損傷が激しかったそうだ。高いところから転落したんだろう。即死だったらしい。ここ数日、ずっと雨が降っていたから、発見が遅れた」

 先生の言葉が、冷たい楔のように僕の心臓に打ち込まれる。

 ――損傷。即死。

 今朝見た翔太郎の姿が脳裏に蘇る。綺麗な制服。血色の良い顔。そして、あの笑顔。

 ――あれは、何だったんだ?

 正直に言おう。違和感がなかったわけじゃない。あの不自然な静けさ。機械的な頷き。汚れていない靴。

 そして何より、あの霧。

「ちなみに、お前が会った翔太郎はどんな服を着てた?」

「制服でしたけど……」

 ――あ。

 日曜日、しょうちゃんが山に入っていく時、確か黄色のマウンテンパーカーを着ていた。制服ではない。

 呆然としている僕を見て、先生は深いため息をついた。そして、まるで独り言のように、あるいは忌まわしい記憶を吐き出すように、ボソッと呟いた。

「霧はなぁ、幻を見せるからなぁ」

 その言葉には、ただの比喩ではない、この土地に住む者特有の、諦めたような念が込められていた。

「今日はもう帰れ。無理はするな」

「……はい」

 先生に促され、僕はふらふらと部屋を出た。


 翔太郎の葬儀は、しめやかに行われた。

 棺の中の彼は死に化粧を施されていたが、顔の半分は白い布で隠されていた。損傷が激しかったからだという。

 僕は焼香の列に並びながら、震えが止まらなかった。

 遺影に使われた写真は、修学旅行の時のスナップ写真だった。少しはにかんだような、控えめな笑顔。僕が霧の中で見た、あの満面の笑みとは似ても似つかない。

 

 クラスメイトたちは、僕を遠巻きにするようになった。

「大原、死体を見たんだって?」

「幽霊と喋ったらしいよ」

「やっぱり、霧の朝に出歩いたから……」

 そんな噂がひそひそと交わされる。

 僕は「変な奴」、「嘘つき」、あるいは「霊感がある気味の悪い奴」というレッテルを貼られた。

 僕自身も、自分の記憶を疑い始めていた。

 あれは本当に翔太郎だったのか?

 霧が生み出した幻覚だったのではないか?

 それとも、僕はあの日、知らず知らずのうちに「あちら側」へ足を踏み入れ、死者と言葉を交わしてしまったのか?


 あの日以来、僕は霧の日に外に出ることができなくなった。

 窓の外が白く染まるたびに、あのガードレールの映像がフラッシュバックする。

 白濁した世界にぽつんと立つ友人。張り付いたような笑顔。その笑顔が、夢の中にまで追いかけてくるようになった。

 ――卒業したら、絶対にこの町から出て行こう。

 そう決意するには、十分すぎるほどの出来事だった。

 僕は逃げるようにして大学進学を決め、東京へ出た。霧のない、夜でも明るい街へ。


 あれから十年が経った。

 僕は都内の商社に就職し、仕事に忙殺される日々を送り、故郷のことなど思い出す暇もないほど働いた。過去を塗りつぶすように、コンクリートジャングルでの生活に没頭した。

 あの忌まわしい記憶は、時間の経過とともに薄れつつある。

 あの日見たのは、友人の死を予感した脳が見せた、ただの幻覚だったのだ。そう自分に言い聞かせ、納得させていた。


 ある秋の朝のことだった。目が覚めると、部屋の中が薄暗いことに気づいた。

 カーテンを開けると、そこには見覚えのある白い壁が広がっていた。

「霧……?」

 東京でこれほどの霧が出るのは珍しい。高層ビル群の下層が白く埋もれ、まるで雲の上に都市が浮いているような幻想的な光景だった。

 懐かしいとは思わなかった。むしろ、肌が粟立つような悪寒が走った。でも、僕はもう大人だ。会社に行かなければならない。

 スーツに着替え、鞄を持って玄関を出た。

 マンションの廊下にも、薄く霧が入り込んでいる。冷たく湿った空気が、十年前のあの朝の記憶を強引に引きずり出そうとする。

 エレベーターホールへ向かう途中、向こうから人影が近づいてくるのが見えた。同じフロアの住人だろうか。霧のせいで顔はよく見えないが、スーツ姿の男性のようだ。

 すれ違いざま、僕は軽く会釈をした。

「おはようございます」

「……ああ、おはようございます」

 男は低い声で答え、そのまま通り過ぎていった。

 何気ない日常の一コマ。

 エレベーターのボタンを押し、僕はふと動きを止めた。


 今の男の顔。

 どこかで見たような気がする。住人ではない。もっと昔に、どこかで。

 記憶の糸を手繰り寄せようとした瞬間、心臓が早鐘を打った。

 ――ニコニコしていた。

 すれ違った男は、状況にそぐわないほど、満面の笑みを浮かべていた。目尻を下げ、口角を吊り上げた、あの張り付いたような笑顔。

 

 ――翔太郎?


 いや、違う。顔は別人だった。年齢も僕と同じくらいだ。でも、あの表情の作り方は、十年前の霧の中で見た翔太郎と全く同じだった。

 僕は恐る恐る振り返った。廊下の奥、白い霧の中に消えていく男の背中が見える。

 その時、不意に理解してしまった。

 十年前、僕は翔太郎の笑顔を「無事だったことへの喜び」あるいは「別れの挨拶」だと解釈しようとしていた。死者が最後に、親友である僕を安心させるために見せに来た、優しい幻だと。

 そう思うことで、恐怖を和らげようとしていた。

 ――いや、違う。

 あれは、挨拶なんかじゃない。 

 霧の中で、彼らは笑っていたのではない。

 顔が、引きつっていたのだ。

 極限の苦痛と恐怖で、表情筋が痙攣し、あの形に固定されているだけなのだ。

 今の男も、きっとそうだ。

 この霧の向こう側で、あるいはこの世界のどこか見えない境界で、何か致命的な「終わり」を迎えてしまった誰かなのだ。


「苦しい……助けて」


 僕の脳内に、聞いていないはずの声が響いた。

 十年前の翔太郎の沈黙。その裏側に張り付いていた、音にならない絶叫。あの笑顔の下には、断末魔の悲鳴が隠されていたのだ。


 エレベーターが到着し、ドアが開く音がした。チン、という無機質な音が、静寂に響き渡る。

 開いた箱の中は、誰もいないはずなのに、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車のように、濃密な白い霧で満たされていた。その白の奥から、無数の「誰か」が、ニコニコとこちらを見ている気配がした。

 僕は逃げるように階段を駆け下りた。

 東京の街は、まだ深い霧に包まれている。


(了)

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