北風と廃墟

辛口カレー社長

北風と廃墟

 十二月の講義室は、数百人の学生が吐き出す二酸化炭素と、微睡まどろむような倦怠感で満たされていた。

 暖房は効きすぎているほどなのに、どこか寒々しい。壇上でマイクを握る老教授の声は、意味のある言語というよりは、一定のリズムで繰り返される環境音に近かった。大半の学生はスマホのブルーライトに顔を照らされているか、机に突っ伏して午後の惰眠を貪っている。

 そういう僕も、その他大勢の一人だった。配られたレジュメの端に無意味な落書きをしながら、時空の歪みに捕らわれたかのように進まない時計の針を、恨めしく眺めていた。

 その静寂、というより停滞が破られたのは、講義終了まであと十五分というところだった。


「先生、その解釈は矛盾していませんか?」


 凛とした、よく通る声だった。眠気に浸っていた空気が、一瞬にして凍りつく。数百の視線が、教室の前方、中央列の端に座る一人の女子学生に注がれた。神谷さんだ。彼女は背筋をピンと伸ばし、手元のノートには目を落とさず、真っ直ぐに教授を見据えていた。

「先ほどの説明では、Aの事象がBを誘発すると仰いましたが、前回の講義で先生は、BはAの前提条件であると定義されていたはずです。前提条件が結果として誘発されるというのは、論理的に破綻しています」

 教授が言葉に詰まり、マイクが不快なハウリングを起こした。

「あー、いや、それは……文脈によるというかだね」

「文脈で因果関係が逆転するなら、この理論自体が普遍性を持たないことになります。違いますか?」

 容赦がない。教室内の空気が、ざわりと揺れる。「またかよ」、「適当に流せよ」という苛立ちと、「よく言った」という野次馬根性が混ざり合った、居心地の悪いノイズのような騒めき。

 教授は顔を紅潮させ、早口で何か言い訳めいたことを呟いたあと、逃げるように講義を切り上げた。まだチャイムは鳴っていなかったが、学生たちは一斉に帰り支度を始める。その喧騒の中で、神谷さんは一人、涼しい顔で教科書を鞄にしまっていた。まるで、自分が投げた石が起こした波紋になど、これっぽっちも興味がないとでも言うように。

 僕は慌ててノートと筆記用具をバックパックに放り込んだ。講義が終わるとすぐに教室を出る彼女に声をかけるために、僕はわざと出入口に近い席を選んで座っていたのだ。

 神谷さんは席を立つと、脇目も振らずに出口へと向かった。その歩く速度は異常なほど速い。人混みを縫うように、しかし誰とも肩を触れ合わせることなく、滑らかに廊下へと滑り出していく。僕は他の学生たちの背中にぶつかりながら、必死に彼女の後を追った。

「神谷さん!」

 大学の長い廊下は、講義室とは対照的に冷え切っていた。冬の曇天から差し込む光は、鈍色のコンクリートの床に吸い込まれ、行き交う学生たちの息は白い。

 僕の呼びかけに、彼女の足が一瞬だけ緩んだ。けれど、止まりはしない。

「……何?」

 振り返りもせず、彼女は短く応じた。僕は小走りで彼女の横に並ぶ。

「年末年始は帰省するの?」

 いまいち身が入らない講義を終え、何となく目に入ったから声をかけた――そんな風を装って、僕は言った。

 神谷さんは歩調を緩めないまま、僕を横目で一瞥する。その瞳はガラス玉のように透き通っているが、温度を感じさせない。

「帰らないわけにはいかないでしょ?」

 ぶっきらぼうな答えだった。

「親がうるさいのよ。チケットも勝手に送ってくるし」

「そっか。大変だね」

「ホントよ」

 彼女はため息交じりに言い捨てると、さらに歩く速度を上げた。まるで、何かから逃げているようだ。あるいは、この無意味な会話を早く終わらせたいのかもしれない。

 すれ違う学生たちが、僕たちの横を通り過ぎざまに、ひそひそと声を潜めて何かを話しているのが耳に入った。

『あ、今のあれ、経済学部の神谷じゃね?』

『また教授いじめたの? 相変わらず性格キツいなー』

『美人だけどさぁ、関わりたくないよな』

 悪意のある囁きは、湿った空気のように廊下に漂っていた。おそらく、彼女の耳にも届いているはずだ。でも、神谷さんの表情はピクリとも動かない。能面のように冷徹な横顔が、ただ前方だけを見据えている。


 北海道の小樽出身の神谷さんは、その類稀な美貌ととっつきの悪さで、学内では良くも悪くも有名人だった。

 雪国特有の抜けるように白い肌に、意思の強さを感じさせる切れ長の瞳。誰もが振り返るほどの容姿を持ちながら、彼女の周りには常に見えない壁があった。成績は常にトップクラス。でも、教授だろうが先輩だろうが、間違っていると思えば徹底的に食らい付き、論破する。

 僕は単純に、「何でそんなことをするんだろう」と不思議に思っていた。

 大学の講義なんて、適当に出席して、話半分に聞き流して、無難なレポートを書いて提出すれば、とりあえず「優」か「良」はもらえる。それ以上の労力を使う必要なんて全くない。いわゆる、要領よく立ち回ることこそが、この場所での正解なはずだ。なのに、彼女はわざわざ使わなくていいエネルギーを大量に消費して、自分の印象を悪くするようなことを繰り返している。

 ――そこに一体、何の意味があるのか。

 そう思いながらも。彼女のその、自傷行為にも似た行為に、僕は強烈に惹かれていた。上手く言えないが、それは単なる異性への好意だけではなかったと思う。憧れ、と言ってもいい。

 茨城県の平坦な田園地帯で生まれ育ち、「普通」や「平凡」を煮詰めて人の形にしたような僕には、彼女のその鋭さが、眩しく、そして痛々しく見えたのだ。

 ただ、悲しいくらいに、僕は彼女に相手にされていない。挨拶をすれば返ってはくるし、こうして話しかければ無視はされない。けれど、彼女が僕の目を見て話したことは一度もなかった。僕は彼女にとって、廊下にある観葉植物や、壁のシミと同じ程度の存在でしかないのだろう。

 前に、友人が呆れながら僕に言った。「お前、ご主人様の後をついて回る、トイプードルみたいだぞ?」と。その通りだと思った。その通りだけど……。僕は神谷さんに、声をかけずにはいられない。


「北海道、今はきっと寒いんだろうなぁ」

 沈黙に耐えきれず、僕は当たり障りのない話題を投じた。

「寒いなんてもんじゃないわよ」

 彼女の背中が答える。

「ニュースで見たよ。もう雪、積もってるんでしょ?」

「小樽は坂が多いから、雪が降ると最悪なの。ロードヒーティングが入ってない道なんて、スケートリンクと同じよ。車なんて走れたもんじゃない」

「そりゃそうだ」

 僕は苦笑いした。彼女の口から出る故郷の話は、いつだって愚痴や不満ばかりだ。それでも、少しだけ口数が増えるのが嬉しかった。

 冬の低い太陽が、窓ガラス越しに廊下へ長い影を落としている。僕たちの足音だけが、コツ、コツ、と無機質に響く。

「北海道かぁ。一度行ってみたいなぁ。なんてったって、都道府県魅力度ランキングのナンバーワンだもんね。毎年一位だよ、不動の王者だ。それに比べて僕の茨城なんて、いつも最下位争いだよ。納豆とレンコンしかないと思われてる」

 自虐を込めて笑いを取ろうとした、その時だった。彼女の背中が、慣性の法則を無視したようにピタッと止まった。僕は「おっと!」と声を上げ、急ブレーキをかける。スニーカーの底が床を擦り、キュッという甲高い音を立てた。あと一歩で、彼女の華奢な背中に追突するところだった。

「ちょっ……神谷さん? どうしたの?」

 急な停止に驚きながら、彼女の横に並び、恐る恐るその表情を伺う。

 彼女は窓の外を見ていた。そこには、中庭の枯れ木と、灰色の空があるだけだ。しかし、彼女の切れ長の目は、ここではないもっと遠い場所、あるいはもっと深い何かを見ているように揺れていた。

「北海道って……廃墟が多いのよ」

 ぽつりと、彼女が言った。

「え? 廃墟?」

 僕は面食らって立ち尽くした。なぜそんな不穏な単語が出てくるのか分からなかった。「魅力度ランキング」や「観光」といった華やかな話題から連想されるキーワードではない。

「廃墟って……人が住んでない家とか、もう使われてない建物のこと?」

「そう。北海道はね、引っ越しても前の家はそのままにしておくの」

 彼女は窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら、淡々と語り始めた。講義室で教授を論破していた時とは違う、独り言のような静かな声だった。

「家を壊して更地にすると、固定資産税の特例が外れて、税金が六倍近くに跳ね上がるからよ。だからみんな、住まなくなった家を解体せずに、そのまま放置して出ていくの」

「へぇ、そうなんだ……知らなかった」

 現実的で、世知辛い理由だった。でも、彼女が言いたいのは税金の話ではないことは、その横顔を見れば分かった。

「放置された家はね、北風に少しずつ削られていくのよ。長い時間をかけてね。屋根のトタンを一枚ずつ剥がして、外壁の板を反らせて、ガラスを割って……。いっそ一思いにブルドーザーで壊してくれればいいのに、北風はそんな慈悲なんて持ってない」

 彼女の言葉に合わせて、僕の脳裏に知らない北国の風景が浮かんだ。一面の雪景色の中に、黒々と佇む無人の家。窓は板で打ち付けられ、あるいは割れて内部の闇を晒している。屋根には重たい雪が積もり、柱が悲鳴を上げている。

「少しずつ、本当に少しずつね。まるで、真綿で首を絞めるみたいに。そうやって北風に削られて、ゆっくりと時間をかけて朽ちていく家を見ていると、なんか、悲しくてね」


 ――悲しい。


 正直、彼女に似合わない言葉だと思った。

 いつも武装するように気を張り詰め、他人を寄せ付けない彼女が、朽ちていく空き家に感情移入している。それは、単なる感傷だろうか。いや、違う気がした。彼女は、あの風雪に耐えながら、誰にも顧みられずに立ち尽くす廃墟に、自分自身を重ねているのではないか。

 周囲からの冷ややかな視線。理解されない孤独。正しさを貫くことの摩耗。

 彼女の心もまた、誰にも気づかれないうちに、冷たい風に少しずつ削り取られているのかもしれない。

「北風は怖いわよ? 東京の風みたいに生温くない。寒いとか冷たいなんて、言ってられないくらいに。肌に触れると痛いの。ナイフみたいに」

「……北風から逃げるために、東京に来たの?」

 僕は思わずそう尋ねていた。彼女は視線を少し上げて、口を真一文字に結んだ。喉の奥で言葉を選んでいるような沈黙が流れる。

「うーん、そうかもしれない」

 曖昧な肯定。でも、それが本音の一部であることは間違いなかった。

「北海道より、東京の方がいい?」

 愚問だと分かっていたが、聞かずにはいられなかった。

 彼女は首を小さく傾げた。

「どっちがいいとか、そういうんじゃないのよね。東京は東京で、風はないけど空気が薄い気がするし」

 彼女はようやく窓から視線を外し、ゆっくりと顔をこちらに向けた。

 心臓が早鐘を打った。

 初めてかもしれない。彼女の顔を、こんなに近い距離で、真正面から見たのは。整った鼻筋。薄い唇。そして、少し潤んだような、深い黒色の瞳。

 初めてだ。彼女の目が、僕の目を真っ直ぐに捉えたのは。そこには、いつもの拒絶や冷徹さはない。代わりにあったのは、迷子のような、あるいは助けを求めるような、微かな揺らぎだった。

 彼女は僕という人間を値踏みするように、じっと見つめた。僕は動けなかった。視線を逸らせば負けだと思ったし、何より、逸らしたくなかった。

 彼女が見ているのは、教授に噛みつく鋭い学生でもなければ、魅力的な容姿を持つアイドル的な存在でもない。ただの、茨城出身の、平凡で、冴えない僕だ。でも、だからこそ、彼女は立ち止まったのかもしれない。

 僕には鋭さがない。彼女を傷つけるナイフのような言葉も、彼女を削る北風のような冷たさも持っていない。ただそこに在るだけの、平坦で退屈な地面のような男だ。

 廃墟が倒れないように支える土台になら、なれるかもしれない。

「遊びに来る?」

 不意に、彼女が言った。

「……え?」

 思考が停止した。

「冬休みに、北海道に」

「え……えぇ?」

 僕は絶句して、見えない何かに突き飛ばされるように、二歩後ずさりした。スニーカーがまたキュッと鳴く。

 何を言われたのか、理解するのに数秒かかった。

 北海道? 僕が? 彼女の実家に?

 あまりの唐突な展開に、口が半開きになる。それを見て、彼女は「はぁ」とわざとらしいため息をついた。いつもの呆れたような表情に戻っているが、口元は少しだけ緩んでいるように見えた。

「あのさ、普通は『行くよ!』って、食い気味に言うところじゃない?」

「い、行きます!」

 裏返った声が出た。声が大きすぎたのか、廊下を歩いていた周りの学生たちが一斉に僕を見る。ギョッとした視線が突き刺さる。でも、そんなのどうでもよかった。

 今、僕の世界には彼女しかいない。

「ほ、本当に行ってもいいの? 迷惑じゃ……」

「迷惑なら誘わないわよ。実家は無駄に広いし、部屋なんて余ってるから」

 彼女は髪を耳にかけながら、少しだけ視線を逸らした。

「それに……一人で帰るの、なんか気が滅入るから」

 消え入りそうな声だった。それが彼女の精一杯の弱音なのだと気づいて、僕は胸が締め付けられるような思いがした。彼女もまた、帰るのが怖いのだ。あの冷たい北風と、朽ちていく風景の中に一人で戻るのが。

「行くよ。絶対行く」

 僕はもう一度、力を込めて言った。

「防寒着、しっかり準備していくよ。茨城の寒さとはレベルが違うんだろうし」

「そうね。今の格好で行ったら、新千歳空港に着いた瞬間に凍死するわよ」

 彼女は僕の着古したダッフルコートを見て、ふふっと笑った。氷が解けるような、柔らかい笑い声だった。

 ――もっともっと、そうやって笑った方がいいのに。

 心の中で呟く。彼女が笑うと、廊下の寒々しい空気が少しだけ温まった気がした。

「できれば……もうちょっとオシャレして来てくれると、ありがたいんだけど。一緒に歩くんだから」

「もちろんだよ! こんな格好で行かないよ!」

 ――一緒に歩く。

 その言葉の響きに、僕はまた少しだけ舞い上がった。


 再び歩き出した彼女の隣に、僕は自然と並んだ。さっきまでは必死に追いかけていた背中が、今はすぐ横にある。

 歩幅を合わせて歩く。

 彼女の早歩きは相変わらずだけれど、僕が隣にいることを拒んではいない。

 廊下の窓の外では、木枯らしが枯れ葉を舞い上げている。本格的な冬はこれからだ。北海道の冬は、僕の想像を絶するほど厳しく、冷たいのだろう。

 廃墟を削る北風。その風の中に、彼女はずっと一人で立っていたのだ。

 でも、今年の冬は、僕がいる。何の才能もない、平凡な僕だけれど、風除けくらいにはなれるかもしれない。あるいは、凍えた手を温めるカイロくらいには。

 ふと、彼女の手が僕の腕の袖口を軽く掴んだ。

「ねぇ、小樽に行ったら、お寿司奢ってね」

「え? 招待した方が奢ってくれるんじゃないの?」

「宿代はタダなんだから、食費くらい出しなさいよ。あ、回らないお寿司屋さんね」

「うわぁ……バイト代、全部飛ぶなぁ」

 僕が嘆くと、彼女はまた、楽しそうに笑った。

 いつも背中ばかり見ていたから、ちょっと落ち着かないけど、なんかいいな、と思った。

 ――この冬は、きっと忘れられないものになる。

 北風が吹く街で、僕たちはきっと、少しだけ強くなれる気がした。


(了)

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