白き翼の檻

おーへや

白き翼の檻

 むかしむかし、ある辺境の村にイサクという名の農夫がいた。彼の妻マリアは数年前、病によってこの世を去り、現在は一人息子のノエルと二人暮らし。まだ母親に甘えたい盛りであろうに、ノエルは決して寂しさを顔に出すことなく、亡き妻とよく似た笑顔で周囲の人々を明るく照らした。

 

 そんな息子の存在は、イサクにとって光であり、唯一無二の宝。貧しいながらも、二人は慎ましく幸せに暮らしていた。


 イサクは畑で採れたキャベツのスープと黒パン、それから薬を籠に詰め、ノエルと共に古びた一軒の民家へと足を運んだ。


「おじいさん、こんにちは!」

「……おお、ノエルか。よく来てくれたのう」

「ベンじいさん、調子はどうだ?」

「イサク、いつもすまんな」


 ベッドからゆっくりと上体を起こし、しわがれた声で応えるのは、近所に住むベンおじいさん。


 彼もまた妻に先立たれ、この侘しい家に一人で暮らしている。かつては村一番の力持ちとして名を馳せた老人も、今では病に蝕まれ、枝のように細い手足で、骨が軋むほどの咳を繰り返すばかり。

 ベンの弱りきった姿を見るたび、イサクの胸は締めつけられた。


 この村では、昔から春になると原因不明の疫病が蔓延し、毎年多くの命が奪われてきた。


 村にひとつだけある小さな診療所は、この時期になると病人で溢れ返り、医者は朝から晩まで休む間もなく働き詰め。貧しい村人たちは町の病院にかかる余裕もなく、ひとたび病に冒されれば、あとは最期の刻を待つほかない。


 今日もまた、棺桶を担いだ一行が重々しい足取りで家の前を通り過ぎていく。悲しみを押し殺すように無表情で棺桶を運ぶ男たちと、その後ろで嗚咽を堪えきれずにすすり泣く女たち。

 

 ノエルは窓辺に立ち、小さな手のひらをガラスに当てながら外の様子を眺めている。イサクは息子の頭を撫でると、祈るように抱きしめた。


 夜。イサクが息子を寝かしつけていると、ノエルが毛布の中からもぞもぞと顔を覗かせ、ためらいがちに口を開いた。


「ねえ、お父さん」

「どうした?」

「今日も誰か死んじゃったね」

「……そうだな。悲しいことだ」

「お母さんも、"あれ"にかかってなくなったんだよね」


 イサクは言葉を失った。ノエルはガラス玉のように澄んだ瞳で、天井のシミを見つめている。


「ぼくもいつか、あの病気になるのかな」

「いいや、お前は絶対に大丈夫だ。なんたって父さんの子だからな」


 不安を振り払おうと、イサクは努めて明るい声で言う。


「父さんなんかノエルと同じ年の頃に二、三回風邪を引いたくらいで、それ以来ずっとぴんぴんしてるぞ。ほら、見ろ」


 拳を握り、わざとらしく力こぶを作ってみせた。自慢げに披露する父の仕草にノエルが笑うと、つられてイサクも口元を緩める。


 やがてノエルは小さく欠伸をして、眠たそうに目をこすりながらイサクを見上げた。


「ねえ、お父さん」

「ん?」

「ぼくね、お父さんがいてくれたらそれで十分だよ」


 その言葉と共に、ノエルは安心したように目を閉じた。すぅすぅと規則正しい寝息が聞こえ始める。息子の呼吸に合わせて毛布がふくらみ、また沈む。


 イサクは息子の寝顔をじっと見つめた。

 長い睫毛、少し開いた口、頬に残る幼さ。

 この子を失うなど、想像することさえできない。


 しばらく眺め続けた後、ベッドの傍らに置かれた蝋燭の灯りを吹き消し、起こさぬようそっと扉を閉めた。廊下に出ると、イサクは首から下げた妻の形見であるロザリオを握り締め、天を仰いだ。


 ――神よ、他は何も望みません。

 ただどうか、あの子だけはお守りください。


 ――


 ある日のこと。

 固くなった土をクワで掘り起こしていると、畑の向こうを歩く人影が目に留まった。


 黒い祭服にすっと伸びた背筋、陽光を浴びて輝く金髪、白磁を思わせる滑らかな肌。こんな辺境の村には不釣り合いなほどの、あまりにも美しい、まるで彫刻のような青年であった。

 

 見覚えのない顔だ。

 ふと目が合うと、青年はにこやかな微笑みを投げかけてくる。じろじろと観察していたことに後ろめたさを覚えながらも、イサクはぎこちない動作で帽子を取り、軽く会釈を返した。


 ――


「ねえ、聞いた?エリザさまも"あれ"にかかったらしいわよ」

 

「ええ、知ってるわ。うちの娘が屋敷で働いてるもの。あれほど綺麗だったお嬢さまが今じゃ骨と皮ばかりなんですって……村長さんもさぞお辛いでしょうね」


 村でもひときわ立派な屋敷に住まう村長の娘エリザが病に倒れたという噂は、干し草に火が走るように広まっていた。

 

 村長は有り金をはたいて名医を呼び、祈祷を頼み、ありとあらゆる手を尽くしたというが、どれも叶わず。日ごと痩せ細り、頬の肉が落ちていく愛娘の姿に、村長夫妻はすっかり心をすり減らしていた。

 

 そんな折、あの祭服の青年が屋敷を訪れたのだという。


 青年がエリザの額に掌を添えると、死人のように蒼白だった少女の頬にうっすらと血の気が戻り始める。やがて、固く閉ざされたままだった瞼がゆっくりと持ち上がり、途切れがちな声で彼女は呟いた。


「……パパ?」

「おお、エリザ!エリザ……!」


 死の淵から呼び戻された娘を前に、村長は感極まって声を震わせ、涙で頬を濡らしながらエリザをしっかりと抱きしめた。

 

 親子の抱擁を穏やかな眼差しで見守る青年。

 そして屋敷の窓辺から、息を潜めて奇跡の光景を覗き見ていたノエル。


 帰宅したノエルは夕飯のパンを齧りながら、興奮した面持ちで今日目にした出来事を父に語り聞かせた。


「それでねお父さん!ほんとにあの人が頭に手を置いだけで、エリザさんの顔色がぱあっと明るくなったんだよ!」


 イサクは息を弾ませて語る息子の話に耳を傾けながら、心の奥底で疑念を抱いた。

 

(あれほど重い病がそんな簡単に治るものなのか?)


 初めのうちはイサクと同じように、よそから現れた若者に対して不信感を持つ村人も少なくなかった。今までどんな名医であっても手に負えなかった不治の病が、ただ触れただけで治るなどありえない。きっと、魔術か何か得体の知れない術を使っているのだろう、と。


 しかし、それも最初だけだ。


 青年――ドミニオと名乗るその男は、瞬く間に村人たちの心を掴んでいった。


 彼が触れれば病が癒え、彼が祈れば痛みが消える。噂を聞きつけ、ドミニオの元にはたくさんの人々が押し寄せてきた。幼な子を抱いた母親、杖をつく老人、疲れ切った労働者――。


 ドミニオは誰ひとりとして拒まず、全ての者に救いの手を差し伸べた。


 やがて、ドミニオを神の化身だと称える者が続々と現れ、信仰は村全体へと浸透していく。


 村外れには彼を祀るための白亜の建物が建てられ、いつしか人々はそれを聖堂と呼ぶようになった。


 寝たきりだったベンおじいさんも、ドミニオに診てもらってからというもの、見違えるほど活力を取り戻し、今では薪割りや畑仕事に精を出している。

「まだまだ若いもんには負けてられん」と意気込むベンの姿にイサクは思わず笑みを零す。


 元気になってくれて本当によかった。

 だが安堵すると同時に、イサクはどうしても拭えぬ違和感を覚えていた。


 村に突如として現れ、人々の心身を蝕む病を癒した青年。以前と比べて村は活気づき、死んだ魚のような目をしていた村人たちの瞳が、再び輝きを取り戻したのだ。


 彼こそが村の救世主と呼ぶにふさわしい、誰もがそう信じて疑わなかった。

 ――ただ一人、イサクを除いて。


 理由はわからない。ただ、初めて会った時からずっと、イサクはドミニオに対して言葉にしがたい嫌悪感を抱き続けていた。


 ――


 ある日のこと。

 イサクが黙々と畑仕事に勤しんでいると、不意に清澄な声が降り注いだ。

 

「こんにちは、イサクさん」

 

 そこには噂の救世主さまであるドミニオが立っていた。


「本日もお勤めご苦労さまです。何かお困りのことはありませんか?もし悩みがあれば、いつでも私に相談してください」

 

「はあ……どうも」

 

「それと……もしよろしければ、後ほどお茶でもご一緒しませんか?あなたのことを、もっと深く知りたいのです」


 親しみやすい柔らかな笑顔。だがその瞳の奥に、触れてはならない何かが蠢いているような気がした。


「あいにく、仕事が残っておりますので」


 素っ気なく返すと、ドミニオの顔からすっと笑みが消えた。今まで見たことのない表情に、イサクは思わず体を強ばらせたが、すぐさまいつもの優しげな表情に戻る。


「……そうですか。それではまた」


 ――


「おめでとうございます。あなたのお子様が神子として選ばれました」


 ある日、白い衣に身を包んだ一団が家を訪れ、イサクとノエルにそう告げた。身なりからして、おそらくドミニオを崇拝する信者たちなのだろう。


 彼ら曰く、神子とは聖堂で執り行われる儀式において、ドミニオの傍らに仕え、その御業みわざを助けるという重責を担う存在なのだとか。神子に選ばれることはこの上なく尊く、家族にとっても大いなる栄誉である――信者たちは誇らしげにそう語る。


 だが、あまりにも唐突だ。

 理由も、期限も、詳しい説明もされないまま、 イサクが即座に納得できるはずもなかった。


 しかし当の本人であるノエルは、大役を任せられたことへの興奮と喜びから目を輝かせ、どうしても行きたいと父にせがんだ。


「帰ってきたらまたお話するね」


 イサクに手を振りながら、意気揚々とした足取りで信者たちに連れられていくノエル。

 

 小さな背中が遠ざかっていくのを見送りながら、イサクの胸中きょうちゅうでは言い表せない不安が渦巻いていた。


 ――


 ノエルが聖堂へ行ってから、一週間が過ぎた頃。


 深夜、激しく扉を叩く音でイサクは跳ね起きた。

 扉を開けた瞬間、血の匂いが鼻を突く。

 そして全身に傷を負った血塗れの男が崩れるように倒れ込んできた。恐怖に歪んだ顔で、男は必死にイサクへと縋りつく。


「た、助けてくれ……殺される……」


「落ち着け!何があった!」


 イサクは男を中に引き入れ、事情を聞き出そうとした。だが、いきなり男が口から泡を吹き出し、のたうち回った末に絶命した。


 予想外の事態にイサクが混乱していると――


 コン、コン、コン。

 規則正しいノック音が響く。


 恐る恐る扉を開けると、今度は白い衣をまとった三人の信者が立っていた。


「夜分遅くに失礼いたします。先ほど、こちらに男が逃げ込んできませんでしたか?」


「え、ええと……」


 頬を掻きながら曖昧な受け答えをするイサクに、信者の一人が冷淡な口調で切り出す。


「ご安心ください。その者はこちらで引き取らせていただきます」


 そう言うや否や、彼らは許しも待たずに家の中へ足を踏み入れ、男の遺体を見つけると、二人がかりで軽々と持ち上げ、外へと運び出した。


「あの、その人は一体どうしたんですか」


「彼は神の愛を受け入れられなかった。それだけのことです」


「神……ドミニオのことですか」


 信者はイサクの問いかけに口をつぐんだまま答えない。ただ、血の気ない青ざめた唇にうっすらと微笑を浮かべるだけ。


「――この件につきましては、どうか他言なさらぬように。不安を煽ることは、神のお望みではありませんから」


 それだけ言い残して足早に立ち去る信者たち。

 イサクはしばらくの間、呆然とした面持ちで彼らが消えた扉を見つめ続けていた。


 翌日。

 イサクは昨夜の出来事をベンおじいさんに打ち明けた。老人は白い顎髭を撫でながら、険しい表情で耳を傾けている。


「あの男には見覚えがあった。確か、村の靴職人の一人息子だったような……」

 

「デイヴの息子のグレッグか。わしはあいつのことをよく知っておるよ。何でも神子に選ばれたとかで、親父さんが嬉しそうに話しておったわい」

 

「なんだって?」


 彼もまたノエルと同じように、神子としてあそこに呼ばれていたのか。


 恐ろしい想像が次々と湧き上がってくる。

 ノエルは無事なのか。聖堂の中で何か恐ろしいことが行われているのではないか。もし、昨夜の男と同じような目に遭わされていたとしたら――。


 俯いたまま黙り込むイサクに、ベンおじいさんが声をかけた。


「一体どうするつもりじゃ」

 

「直接会いに行って、ノエルの無事をこの目で確かめる。それで、少しでもおかしなことがあれば、すぐに連れ戻す」

 

「イサク……お前がそう言うのなら無理に止めはせん。だが、あの方にはあまり逆らわん方がええ。わしはお前さんの身を案じておるのじゃよ」


 鬼気迫る様子のイサクに対して、ベンおじいさんは諭すように忠告するが、彼の頭は息子の安否のことでいっぱいで、もはやそれどころではなかった。


 早速、イサクは聖堂へと足を運んだ。


「神の子たちは今、大切な修行の最中です。面会はできません」


 白い服に身を包んだ信者は、まるで決まり文句のように同じ言葉を繰り返し、ただ首を横に振るばかり。せめて息子の顔だけでも見せてほしいと懇願してもあっさり断られ、門前払いを食らう始末。


 固く閉ざされた門の前に立ち尽くしたまま、イサクは唇を噛み締め、拳を強く握りしめた。


(正面が駄目ならば、別の手段を使うしかない――)


 満月の夜、農具を背にくくりつけたイサクは、聖堂の裏手へと回り込んだ。


(高い壁だが……登れない高さじゃない)


 壁をよじ登り、塀を越え、音を立てぬよう慎重に敷地内に降り立つ。静まり返った聖堂は、白い壁に月光を反射して冷ややかに輝いている。


 裏口から忍び込むと、長い廊下が奥まで続いており、壁一面に奇怪な文様が刻まれていた。人や獣の目、鼻、口――身体のあらゆる部位が無数に組み合わされた不気味な図形。見つめているだけで背筋に悪寒が走る。


 足音を殺して進んでいくと、ひときわ大きく、荘厳な佇まいの白い扉が目に入った。

 他の扉とは明らかに異なる造りで、下の隙間から微かに光が漏れている。

 

 逸る心を抑えながら、イサクは扉に手をかけ、そっと中を覗き込んだ。

 

 広間には、白服の信者たちが大勢集まり、最奥には祭壇がひとつ置かれている。


 そして、祭壇の上には――


(ノエル……!)


 遠目でもわかる。見間違えるはずがない。

 息子ノエルがぐったりと横たわっていた。


「さあ、神の恵みを受けよ」


 祭壇の前に立つドミニオが聖杯を高々と掲げると、信者たちも一斉に杯を持ち上げ、中身をあおる。すると――信者たちの体が激しく痙攣し始め、喉を掻き毟りながら、口から鮮血を吐き出して悶え苦しみ出したのだ。


「な、何だ……!?」


 目の前で繰り広げられるあまりにも異様な光景に息を呑む。これは儀式なのか?それとも――


 明らかに様子のおかしい信者たち。そんな狂騒のさ中、清らかな微笑を崩さぬまま泰然たいぜんと佇むドミニオ。やがて信者たちの口から白い靄のようなものが立ち昇り、それらすべてがドミニオの体へと溶け込んでいった。


「嗚呼……信仰とはなんと甘美な味わいなのでしょう」


 ドミニオは恍惚に目を細め、陶然とうぜんと背を震わせる。次の瞬間、彼の肩甲骨が軋む音を立て、純白の翼が解き放たれた。空気は澄み渡り、きらめく光の粒子が辺りに漂う。羽根の一枚一枚は、触れれば指先が焼け落ちそうなほどに神聖な輝きを宿していた。


 その圧倒的な威圧感に、イサクの全身の毛がぶわりと逆立つ。神々しくも美しい姿であるはずなのに、腹の底からせり上がってくるのは、尋常ではない程の吐き気と寒気。


 イサクはようやく理解した。奴は人ではない、

 別の何か――神の名を騙る怪物だということを。


「ノエル!!!」


 居てもたってもいられず、イサクは声を張り上げ、姿を現した。ドミニオから向けられる突き刺すような視線。それを意にも介さず祭壇へと駆け寄ろうとした瞬間――見えない壁に阻まれ、身体ごと弾き返された。


「ぐっ……!」


 体勢を崩したイサクは膝をつき、目の前に立ちはだかる透明な障壁を拳で叩く。だが、まるで水面を打つように力は吸収され、どれだけ威力を込めても先へは進めない。


「これはこれは、嬉しい来客だ」


 ドミニオはイサクを食い入るように見つめたまま一層笑みを深め、この哀れで無力な父親を歓迎した。


「お前は一体、何者だ……」


「私は救世主ですよ。あなた方がそれを望んだのでしょう?」


 ドミニオは意識のないノエルを抱き上げ、顎を掴むと、イサクに見せつけるように自身の頬へと寄せた。その親密な仕草に、イサクは酷い嫌悪感を覚える。


「ほら、君のお父様がお迎えに来てくれましたよ。挨拶してください」

 

「ノエルに触るなっ!貴様、息子をどうするつもりだ!」

 

「儀式の生贄、というのは――あくまでも建前です」


 ドミニオはノエルを祭壇に戻すと、ゆったりとした足取りでイサクへ近づいてくる。

 一歩、また一歩。純白の翼が微かに羽ばたくたび、光の粒子が宙を舞う。


「本命は、イサク。あなたですよ」


 途端にイサクの体が石のように硬直した。手足の先まで冷たい痺れが走る。逃げようにも、声を上げようにも、体が言うことを聞かない。透明な障壁がすうっと消えていく。ドミニオはイサクのすぐ傍まで来ると、農夫の胸元にそっと手を置いた。


「あなたは私になかなか靡いてくださらなかった」


 ドミニオの声は甘く、囁くように優しい。

 まるで美酒と偽り振る舞われた毒の聖杯が、直接耳の中へ注ぎ込まれるような感覚に陥る。


「どうしてか、興味がある。あなたの内側を暴きたい。何があなたをここまで突き動かすのか――そのすべてを知りたいのです」

 

「狂っている……」


 震える声で吐き捨てたイサクにドミニオは首を傾げ、幼な子に言い聞かせるような口調で続けた。


「私のものになりなさい。そうすればノエルは解放しましょう。彼はこれまで通り、この村で幸せに暮らせます」


 悪魔の取引を持ちかけながら、ドミニオの顔がゆっくりと近づく。互いの唇が触れ合いそうになったその時――


「俺は……お前の思い通りにはならない!」


 イサクは首に掛けていたロザリオを掴み取り、全霊を込めてドミニオの胸へ突き立てた。銀色の十字架がドミニオの祭服に食い込む。ジュウッという焼ける音と共に、白い煙が立ち上った。


「――ッ」


 ドミニオの表情が僅かに歪む。その一瞬の隙に、イサクを縛っていた見えない力が緩んだ。

 

(今だ!)

 

 イサクは祭壇へと駆け寄り、ノエルを抱き上げる。温もりと確かな鼓動。息子は生きている。


 背後からドミニオの気配を感じながらも、イサクはノエルを片腕に抱えたまま、無我夢中で出口へと走った。

 

 すると逃がすものかと四方八方から信者たちの手が伸びてくる。イサクは一心不乱に農具を振り回し、次々と襲いかかってくる信者たちの腕を叩き落としながら、渾身の力で扉を押し開き、夜の外気へ飛び出した。


 ――


「……ふふ」


 ドミニオは胸に刺さったロザリオを、花弁を摘むように指先で掴み、ゆっくりと引き抜いた。焼けた痕は瞬く間に癒えていく。鈍い輝きを放つ十字架を掌の上でもてあそびながら、彼は陶酔に浸った。


「どこへ行こうと無駄だというのに……けれど、その愚かさがたまらなく愛おしい」


 ドミニオの喜悦に呼応するかのように、純白の翼がふわりと大きく広がる。彼の唇に浮かぶのは、獲物を逃がした狩人の――いや、あえて逃がした狩人の、余裕に満ちた笑みであった。


「さあ、どこまで逃げられるか見せてください。イサク」


 ――


 青白い月明かりが長い廊下を照らし出す。

 背後からは無数の足音。振り返れば、口から血を垂らし白目を剥いた信者たちが、すぐそこまで迫ってきている。それはさながら冥府を彷徨う亡者どものようで、なんともおぞましい光景だった。

 

 イサクはそのまま裏口から抜け出し、勢いのまま塀を乗り越える。


「行け!」


 外に繋いでおいた馬へ鞭を入れると、馬は疾風の如く闇の中へ駆け出した。


(ここは危険だ。どこか遠くへ、遠くまで逃げなければ――!)


「お父さん……」


 腕の中でノエルが微かに目を開き、弱々しく呟く。


「もう大丈夫だからな、ノエル」


 ふと、純白の羽根が一枚、月光を受けてひらりと舞い落ちる。刹那、馬が激しくいななき、狂ったように暴れ出した。


「っ、どうしたんだ!落ち着け!」


 手綱を強く引くが、恐怖に駆られた馬は言うことを聞かない。振り落とされる!イサクはノエルを抱きかかえたまま、地面に叩きつけられた。


 激しい衝撃。

 視界が揺れ、頭の奥で鈍い音が鳴る。

 額を伝って、生温かいものが流れ落ちていく。


 腕の中からするりと抜け出したノエルは、ふらふらとした足取りで立ち上がり、まるで導かれるように、聖堂の方角へ歩き出した。


「ノエル……」


 起き上がろうとした瞬間、全身を激痛が貫き、イサクは呻き声を上げることしかできない。必死に手を伸ばすが、届かない。遠ざかる息子の背中を視界に映したまま、イサクの意識はゆっくりと闇に沈んでいった。


 ――


 目を覚ますと、イサクは祭壇の上に横たわっていた。身体が動かない。まるで見えない鎖に縛られているようだ。

 

 周囲を取り囲むのは白い服をまとった信者たち。皆が気味の悪い笑みを浮かべたまま、イサクを見下ろしている。


 その輪の中には、ノエルの姿もあった。息子もまた、他の信者と同じ虚ろな笑みを貼り付け、そこに立っている。


「ノエル!しっかりしろ!目を覚ませっ!」

「無駄ですよ」


 信者たちが静かに道を開く。その奥からドミニオが現れれ、黒い祭服を翻しながら真っ直ぐイサクの元へと歩み寄ってくる。


「彼らはすでに私のもの。身も、心も、魂も」

「ふざけるなこの化け物め!息子を返せっ!みんなを解放しろ!」


 祭壇の上で必死にもがくイサクにドミニオは肩をすくめる。そして、追い詰められた男の顔を愉しむように覗き込んだ。


「あなたもいずれそうなる。いえ、あなたは特別だ」


「何を……言っている……」


 言葉の真意が掴めないままのイサクに、ドミニオは微笑む。端正な顔に浮かぶのは、かつて村人たちに向けていた慈愛の顔とは似ても似つかない、歪んだ笑みだった。


「イサク。私はあなたを選びました。――神の伴侶として」


 信者たちが一斉に手の甲を打ち鳴らす。

 弾けるような拍手が、白い壁に反響する。

 ノエルもまた、笑いながら手を叩いていた。


「これからあなたに祝福を授けましょう」


 純白の翼が広がり、イサクの体を包み込む。

 乳香と腐った果実が入り交じったような、馨しく、清らかで、それでいて吐き気を催す匂い。

 

 ドミニオの冷たい手がイサクの頬を撫で、乾いた唇に、深く、貪るような口づけが落とされる。

 

 魂が引き裂かれるような痛みと熱に犯されながら、イサクの意識は白く塗り潰されていった。

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