エピローグ:おにぎりの約束
エピローグ:おにぎりの約束
キッチンの窓から差し込む午後の陽光が、木の床に斑模様を描いていた。僕は手元のご飯をしゃもじでかき混ぜ、湯気にのった香りを吸い込む。炊きたての米の甘い匂いと、少しの塩の香ばしさが鼻腔をくすぐる。心臓がぽんと高鳴ったのは、隣に誰かがいるからではなく、思い出に満ちた記憶が胸を揺さぶったからだ。
「……あの時、離婚なんかしなきゃよかったよな」
ふいに僕はつぶやく。声は小さいけれど、空気にじんわりと響く。耳の奥で、彼女の柔らかな笑い声が蘇る。
「……ほんと、800歳も年上だって、関係なかったのに」
つい、笑い混じりに続ける。言葉にすることで、ずっと胸に抱えてきた後悔が、少し軽くなる気がした。
あの頃、僕たちは日々の忙しさや時間の流れに追われ、ほんの少しのずれで溝を作ってしまった。でも、今この湯気に包まれたご飯の香りと、指先に感じる温かさが、あの頃の彼女を思い出させる。握ったおにぎりの形は不格好だけれど、手のひらに伝わる温度が、あの時の笑顔と優しさを再現してくれる。
「ねえ、もしよかったら……今度一緒におにぎり作ろうか」
言葉を発した途端、胸がぎゅっと熱くなる。想像だけで心が満たされ、頭の中に彼女がそっと座っている光景が広がった。手元の米粒が、思い出の欠片のように指先で転がる。
「……うん、うまいコメを探しに行こう。あの山の田んぼまで、また一緒に歩くんだ」
思わず、声に笑みが滲む。あの時の田んぼの匂い、土の湿り気、風に揺れる稲のささやき、全てが記憶の奥底で鮮やかに蘇る。手にした米を軽く握ると、粒の感触がくすぐったく、口の中でほろりとほぐれる。そう、この感触があるから、僕たちはいつだって繋がれるのだ。
台所の戸棚から古い海苔を取り出す。手に取った瞬間、ぱりっとした音と磯の香りが立ち、思わず笑ってしまう。彼女が巻くときに「こっちはちょっと厚めにしようか」と言った声や、指先でちぎって米にまぶす仕草を、鮮明に思い出す。
「……ああ、あの時も、この香りで笑ってたな」
ため息混じりに、手のひらで温めたおにぎりをそっと握り直す。塩の粒がほんのり舌先に触れ、米の甘さと一体になって、口の中にじんわり広がる。あの温もり、あの味、あの手の感触……すべてが僕の胸を優しく満たす。
窓の外、夕暮れの光が建物の影を長く引き伸ばす。冷たい風がカーテンを揺らし、微かに塩の香りが漂う。思い出の匂いと、湯気の中の温かい香りが混ざり合い、懐かしさと切なさが同時に胸を満たした。
「……あの時のわさびの香りも、まだ覚えてる」
軽く笑いながら、指先でおにぎりに少しわさびを添える。鼻にツンとした香りが抜けていき、心の中で彼女の顔がくっきりと浮かぶ。
「君はこうやって笑ったんだっけ……」
握ったおにぎりを手のひらで包み、そっと唇に運ぶ。熱さと香り、粒の弾力が舌に触れる瞬間、心の奥底で温かな何かが溢れ出す。あの頃の後悔も、離れ離れになった時間も、すべてが柔らかく溶けていくようだ。
「……ありがとう。今度は一緒に、最高の米を探しに行こうな」
声に笑みを込め、手元のご飯をぎゅっと握る。指先に伝わる温度が、彼女と僕を再びつなぐ。800歳年上だからって、もう遠慮する必要はない。おにぎりの温もりが、僕たちの心をまた一つにしてくれる。
「……一緒に作るおにぎり、楽しみだな」
つぶやきながら、僕は台所の静けさの中で微笑む。窓の外の風が揺れるたび、思い出の香りと、これから紡ぐ未来の温かさが重なり合う。おにぎりは、ただの食べ物じゃない。愛情と時間、記憶と約束が詰まった、小さな奇跡の塊なのだと、改めて感じる。
湯気に包まれた米粒をもう一度握りながら、僕はそっと目を閉じる。味覚と嗅覚と、手のひらの感触すべてが、彼女への感謝と愛を語ってくれる。遠くにいても、時間を超えても、僕たちはまた、こうしておにぎりを通して出会えるのだ。
「……行こうか、うまいコメを探しに」
小さな声でつぶやき、僕は握ったおにぎりをそっと台所の皿に置いた。心の中で、彼女の笑顔がそっと微笑んでいる。
僕は妻のおにぎりが大好きだ♡ @mai5000jp
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます