第14話:転生の彼方で
第14話:転生の彼方で
朝の光がまだ柔らかく、窓辺のカーテンを透かして差し込む。僕はいつものように炊きたてのご飯をしゃもじで混ぜ、湯気の立ち上る米粒を見つめていた。香ばしい香りが鼻をくすぐるたび、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「……今日で、彼女は旅立つんだな」
妻は次の転生の旅に出る。まだ見ぬ世界、未知の時間へと歩み出す彼女を、僕はただ静かに見守るしかない。キッチンの小さな窓から、まだ寝ぼけた街並みを背に歩く姿が見えた。軽やかに、でも確かに前を向いている。
「行ってらっしゃい……気をつけてね」
小さな声で呼びかける。返事はない。いや、返事は必要ない。彼女はもう大人で、僕が抱きしめるように守るものではないのだから。
しゃもじを置き、手に温もりを感じるご飯をそっと握る。塩を指先でひとつまみ、米粒の間に押し込みながら、彼女の笑顔を思い出す。あの笑顔は、転生しても変わらないだろうか。
「……わたし、あなたの作ったおにぎり、忘れないと思う」
ふと、あの日の声が耳の奥に響く。柔らかく、でも確かな意志を伴った声。
「ありがとう……いつも、一緒に食べてくれて」
思わず微笑む。あの時の僕は、ただ「美味しい」と言うことしかできなかったけれど、心の中では感謝と愛があふれていた。あの温もりを、もう一度感じたいと願っていた。
指先で握るおにぎりは、まだ熱を帯びていて、湯気と塩の香りが立ち上る。海苔を手でちぎり、軽く巻きつけると、磯の香りがふわりと鼻をくすぐる。わさびのツンとした香りも、どこか彼女を思い出させる。
「……こんな風に、旅立つ前に、一緒に食べたら良かったな」
小さくため息をつき、目を閉じる。味の記憶が、五感を通じて呼び起こされる。あの時の塩加減、わさびの香り、海苔の音、握った手の感触。すべてが、愛の形だったのだと改めて感じる。
外では小鳥がさえずり、冬の冷たい風が窓の隙間から入り込む。握ったおにぎりの温かさが、手のひらにじんわりと残る。
「……僕の手でも、愛は伝わるのかな」
僕はもう一つおにぎりを作り、台所の窓辺に置いた。きっと、彼女の旅先のどこかで、この味を思い出すだろう。いや、思い出さなくてもいい。僕が作ったこの一粒に、僕の感謝と愛は込められているのだから。
「……行ってらっしゃい、ずっと応援してるよ」
声に出して言うと、心の中の不安が少しだけ和らぐ。遠くへ行っても、彼女は笑っているだろうか。温かいご飯を、誰かと一緒に食べているだろうか。
ご飯粒の熱さ、塩の香り、わさびのツンとした刺激、海苔の香ばしい匂い――それらが五感を満たすたび、僕はあの日の彼女との時間を思い出す。笑い声、冗談、軽くぶつかり合った指先、すべてが心の奥に鮮やかに残る。
「……ありがとう、君。これからも、ずっと大切にするよ」
そっとつぶやき、僕は握ったおにぎりを口に運ぶ。熱く、塩味がじんわりと広がり、鼻にわさびの香りが抜ける。ふっと目を閉じ、深呼吸する。口に入れた瞬間、あの時の彼女の笑顔が重なる。
「……おにぎりは、愛の形なんだな」
思わず微笑む。転生の彼方へ旅立つ彼女を想いながら、僕は改めて感じる。愛は、言葉だけでなく、手から手へ、心から心へと伝わるのだと。握ったご飯が冷めても、塩の味が薄れても、その愛情は消えない。
窓の外、冬の光が街を照らす。風に乗って遠くへ飛んでいくであろう彼女の未来を思い、僕はもう一度ご飯を握る。形は不格好でも、手の温かさと塩の香りに込めた想いは、確かに届くはずだから。
「……いってらっしゃい。ずっと、愛してる」
つぶやきながら、僕は台所の静寂の中で、転生の彼方を見つめる。おにぎりを作る手のひらに、彼女への感謝と愛が、じんわりと染み込んでいった。
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