写真は踊らない

@fujishiro_takuya

写真は踊らない

 ここは皮膚のアンサンブル。

 音符は汗で、休符は息である。

 どの声が誰のものかは、最初から決まっていない。


 劇場のロビーで、田中莉緒は立ち尽くしていた。

 高校三年生。三ヶ月前までバレー部のエースだった。最後の大会の前日、練習中に着地を誤り、右膝の靭帯を断裂した。手術は成功したが、競技に戻ることはできない。顧問の先生が、このチケットをくれた。

 最後に立った体育館の床の感触は、まだ脚の裏に残っている。ワックスの匂い、仲間たちの笑い声、跳ぶ前に一度だけ見上げた体育館の天井。あのあと、コートの端で先生は黙って隣に座り、折り畳まれたパンフレットを差し出した。「スポーツ以外にも、身体の使い道はいくらでもある」と言いながら、視線だけはコートの中央から外さなかった。その横顔を、莉緒はうまく思い出せない。


 黒いスーツは薄い布にしか見えなかった。近づいて触れると、繊維の内側で細い線がかすかに熱を帯びているのが分かる。係員は慣れた口調で説明した。

「皮膚電位を同期させる仕組みです。ダンサーの感覚を観客が共有できます。違和感が強ければ同期を切って退席できます」

 莉緒は頷き、スーツを受け取る。試着室の鏡の前で袖を通すと、布が肌に吸い付いた。右膝に残る手術痕が、繊維の下でわずかに盛り上がる。動かしてはいけない場所を、別の身体に差し出すような感覚があった。係員は「この上からは普段どおりの服を着てください。スーツは肌着のレイヤーだと思ってもらえれば」と説明した。

 同意書には、アレルギー表示みたいな細かい文字がずらっと並んでいた。

『個人の感覚は記録されず、統計的にのみ扱われます』そこだけ拾って、あとは学校で配られるプリントと同じ匂いのする文章が続く。三行目で読むのをやめて、莉緒は署名欄の四角をなぞるように指を滑らせた。

 ちょうど指を離したところで、ポケットの中のスマートフォンがかすかに震える。タイムラインには、すでにこの劇場の名前がいくつも流れていた。見知らぬアイコンからの共感マークが並ぶ。まだスーツも着ていない人たちが、期待や不安だけを先に共有している。身体より先に感情が会場へログインしていく光景に、莉緒は少しだけ眩暈を覚えた。

 もう一度、誰かの身体で動きたかった。たとえそれが自分のものでなくても。

 客席に入ると、スーツを着た人々が静かに座っていた。首元や袖口から、同じ黒い布が細く覗いている。暗い劇場は都市の中の小さな臓器のようで、今にも拍動を始めそうだった。

 莉緒の席の隣には、六十代くらいの男性が座っていた。灰色のシャツに少し古いネクタイ。膝の上で組んだ指先が、わずかに震えている。係員が彼の肩にそっと手を置き、シャツ越しにスーツの同期スイッチを押すと、彼は小さく息を呑んだ。背もたれ脇のインジケーターが一瞬だけ点滅する。

「久しぶりです、こういうの」

 誰にともなく男性が呟く。莉緒が横目で見ると、彼は気づいて微笑んだ。

「昔、演劇をやっていたんです。今は見る側ですけどね」

 彼は、少し視線を落としてから顔を上げた。

「怪我、されたんですか」

 視線が、莉緒の右膝に落ちる。スーツの布越しにも、手術痕の膨らみは分かるのだろう。

「はい。最後の大会の前の日に」

「そうですか」

 それ以上、彼は何も聞かなかった。ただ、自分の膝にそっと手を置き、指を押し当てる。その仕草は、存在しない相手の膝にも、同じ力で触れているようにも見えた。

 開演のブザーが鳴り、暗闇が劇場を満たす。観客のざわめきがゆっくりと沈み、かわりに呼吸の重なりだけが残る。誰かの息が少し速くなれば、隣の誰かがそれに引きずられ、列全体のリズムが揺れる。

 いい舞台の夜は、いつもこうして、客席とステージの境目が少しずつ薄くなっていくのだと莉緒は思っている。呼吸が完全にそろう一瞬だけ、この劇場はひとつの身体になる。客席とステージの境目が薄くなるたびに、共有は優しい名前の暴力なのか、それとも共鳴なのか分からなくなる。


 暗がりの中で、ひときわ硬質な光があった。カメラだった。中段の通路側の席で、黒髪の女がレンズを構えている。肩には小さな徽章がついており、そこには撮影許可のマークが光っていた。

 女の名は藤堂玲子。写真家であり、この劇場に立つダンサー・結城紗耶のただ一人の恋人だった。

 玲子はファインダーを覗きながら、ゆっくりと息を吐く。まだシャッターは切らない。舞台袖の暗がりの向こうに、紗耶の気配だけが揺れている。楽屋で交わした会話が頭の片隅に残っていた。

「撮ったら、終わってしまう気がする」

 二年前、初めて紗耶を見た夜も同じことを言った。小さな劇場での公演が終わったあと、玲子はロビーで声をかけた。

「写真、撮らせてもらえませんか」

 返事の代わりに渡された名刺には、地方のダンススタジオの名前と細いペン字の電話番号が書かれていた。撮影した写真の一枚に、跳躍の途中で笑っている紗耶が写っていた。本人はそんな顔をした記憶がないと言い、少しだけ怒ったような顔をした。

「終わらせてほしい。終わらせてくれたら、私はまた次を踊れるから」

 その意味を、玲子は今も完全には分かっていない。分からないまま、レンズを通して紗耶を追い続けている。

 舞台袖では、紗耶が呼吸を整えていた。照明の熱が肌を舐め、背中を汗が滑り落ちる。鏡の前で足首を回し、膝を軽く曲げ伸ばす。布の隙間から覗く客席は暗闇の中でざわめき、見えない波のように揺れていた。

 紗耶は十七歳でこの街に来た。地方の小さなスタジオで踊っていた頃、ある日突然、自分の身体が誰のものか分からなくなった。鏡の中の自分が一瞬遅れて動き、足を出すたびに命令が空中で迷子になる。

「それは才能よ」

 スタジオの先生は笑った。

「自分を客観視できる人だけが、本当に踊れるんだから」

 けれど紗耶にとって、それは才能ではなく喪失だった。踊るたび、自分の一部が削られていく。誰かに貸し出されたまま戻ってこないような感覚。それでも踊ることをやめなかった。失っていくことでしか、自分が何者なのか確かめられなかったから。

 今夜の舞台は、その喪失をさらに他人へ開き渡す仕組みだった。観客の皮膚電位を同期させるスーツ。パンフレットの売り文句は頭のどこかに引っかかっていたが、舞台に立っているあいだだけは、そこから先のことを切り離しておくと決めている。

(今夜も、少し失う)

 紗耶は胸の奥でそう呟き、ゆっくりと息を吸った。

 場内の照明がフェーダーを滑るように静かに落ちていき、空気の粒まで張り詰める。音楽が立ち上がる。紗耶は一歩、舞台に踏み出す。床が重みに応え、筋肉の緊張が足首から胃のあたりまで伝わる。


 最初に震えたのは、客席の膝だった。

 莉緒の右膝が、鋭く震える。それが本当に自分の膝なのか、舞台の上の誰かの膝なのか、あるいは客席のどこかの古い痛みなのか、莉緒にはもう判別がつかなかった。手術痕の鈍い違和感とは違う、よく知っているはずの『跳ぶ前の膝』の感覚が全身を駆け抜ける。

 隣の男性も同じように膝に手を当て、短く息を呑んだ。前の列の女性が足を引きずるように組み替え、小学生くらいの少年が母親の手を握りしめる。

「自分の膝じゃないみたいだ」

 どこかの列で誰かがそう呟く。声は小さいが、その違和感は瞬く間に観客全体へ広がっていく。

 舞台の上で紗耶が一歩を踏み出すたび、観客の脚がわずかに震え、胸郭が波打ち、肺の奥が詰まる。呼吸は個人のものではなく、劇場全体の巨大な肺が動いているようだった。

 莉緒は目を閉じた。右膝の周りで、忘れていた熱が蘇る。踏み込み。溜め。ジャンプの前の、全身が一つにまとまるあの瞬間。もう二度と感じられないと思っていた感覚が、別の身体から逆流してくる。このスーツを着ていると、どこまでが自分の感覚なのか、時々わからなくなる。『わたし』が何人ぶん重なっているのか、数えるのをやめた。

「若い頃の筋肉痛と同じだ」

 隣の男性が、小さく笑いながら言った。涙が目尻に浮かび、声は震えている。

「三十年前、舞台で転んで膝を打ったんです。痛みより先に、恥ずかしさがきてね。でも今、また同じ場所が……」

 言葉は途中で途切れた。けれど莉緒には、男性の膝に残る疼きが自分の膝の内側にまで届いているのが分かる。それは彼の記憶であり、紗耶の今であり、莉緒の身体でもあった。彼の脳裏には、照明に照らされた若い日と、突然見えなくなった日が、きっと重なっているのだろうと想像できた。

「ぼく、踊ってる」

 前の列の少年が、息を弾ませながら言う。母親は息子の手を握り返し、黙って頷いた。

「わたしたちも、踊ってる」

 莉緒は、誰にともなく呟いた。


 中段の通路側で、玲子のカメラが静かに紗耶を追っている。ファインダー越しの紗耶は、玲子にはいつもより遠く見えた。汗に濡れた肩、震える指先、息を吸う直前の一瞬の静止。そのすべてが愛おしい。だが今夜、その身体は観客と繋がり、玲子の手からも少し離れてしまっている。

 音楽の休符、呼吸だけが舞台を満たす。紗耶は腕を大きく開いた。空気が柔らかく押し返し、指の間をすり抜ける。骨が軽くなり、内臓の配置が一瞬だけ変わる。

 跳べる。

 床を蹴る。床は彼女を蹴り返す。視界が一拍遅れてついてくる。観客の膝が波打ち、複数の喉が同時に短く鳴る。


 莉緒は跳んでいた。右膝に痛みはない。ただ、上昇する感覚だけがある。高く、もっと高く。体育館の天井よりも、最後の大会で飛べるはずだった高さよりも。

 隣の男性が「ああ」と声を漏らす。前の少年も、会社員風の男も、皆同じ高さへ跳んでいた。身体は椅子に縛られているはずなのに、筋肉の記憶だけが舞台へ連れ出される。

 玲子のカメラが開き、閉じる。シャッター音は聞こえない。世界から少しの時間が切り取られ、皿に載せられたように静まる。紗耶は空中にいて、同時に空中に居続ける紗耶が生まれる。

 着地の衝撃が脛を軋ませる。数十の足が同時に床を踏み、莉緒の右膝に鋭い痛みが走る。でもそれは手術痕の鈍い痛みではない。生きた膝が床を受け止めた痛みだった。

 紗耶は次の動きへ繋げる。だが胸椎のいくつかに、説明のつかない『遅れ』が生じていた。背骨の中に薄い空白があり、その形はレンズの絞りに似ている。そこから何かが抜けている。


 舞台中央。白い光の中に、跳躍の途中の姿勢がそのまま立っていた。

 影でも残像でもない。実体はないが、在る。肩の角度も指の反りも、口内の乾きすら正確にそこへ置かれている。保存された紗耶。永遠の紗耶。

 事前の説明書きには、共有が閾値を超えると『代表的な動き』が像になるかもしれない、皮膚電位位相一致で凍結投影される。と一行だけ書かれていた。

 その瞬間、この劇場にいる全員の意識が、同じ一点に吸い寄せられていくのが、莉緒にははっきり分かった。

 読み流した注意書きが、本当に目の前で発動するとは誰も思っていなかった。紗耶も、照明卓のスタッフも、客席も、一瞬だけ呼吸を忘れる。

 観客のざわめきが神経の波となって客席を渡る。

「二人、いる……」

 隣の男性が呟く。莉緒も同じものを見ていた。汗に濡れて息を乱す紗耶と、跳躍の頂点で永遠に止まっている紗耶。動と静、生と保存が同じ場所で同時に成立している。

 スーツの中で、信号がどこかで混じった気配がする。跳ぶたびに、誰かの『浮遊の喜び』ばかりが何度も流れ込んでくる列もあれば、逆に、着地の衝撃だけをひたすら浴び続けているような席もある、と莉緒には思えた。永遠と一瞬、どちらが本物なのかという問いが、胸の奥に残滓のように貼りつく。

 玲子は席を立ち、前方の通路へ出た。カメラを胸の高さに構え、保存された紗耶と今ここにいる紗耶の両方を視界に収める。レンズの向こうで、光がわずかに歪む。玲子には、それが自分のせいなのか、この装置のせいなのか、それとも劇場に満ちた欲望そのもののせいなのか、判別がつかなかった。

(わたしたちが凍らせたのか。それとも、この装置が、皆の欲望が。)

 玲子の親指が癖のある動きでシャッターを押し込む。カメラの内部で見えない羽根が開き、閉じる。時間がもう一度、額縁の中に押し込められる。


 その瞬間、舞台の上で、紗耶の胸椎の空白はさらに拡がり、その身体は少し軽くなった。自分の骨の中に、誰かの指先ほどの隙間が生まれたような感覚がある。観客席のあちこちで、こらえた息が、言葉になってあふれ出す。

「戻ってきて」

「そのままでいて」

 矛盾する願いが声になり、光の文字になり、舞台にちらつく。莉緒の視界にも、スマートグラス越し、小さなコメントの粒がいくつも浮かんでは消えていた。亡くした恋人の名前や、別れを言えない相手の顔を匂わせる文がいくつも流れ、莉緒は『私』と『私たち』の境目が汗と一緒に床に落ちていくように感じた。

 紗耶は舞台の中央で、保存された自分と向き合った。観客の視線も、スーツからの信号も、玲子のレンズも、その一点に集まる。私は今、何人分の呼吸で立っているのだろう。貸し借り。これは貸し借りだ。わたしたちは踊るたびに借り、踊り終えるたびに返す。けれど、どこかに必ず、返しそびれた感覚が沈殿する。

「失わないで済む踊りは、まだ踊りになってない」

 紗耶の声は、マイクを通さずとも劇場の隅々まで届いた。

言葉のかわりに、紗耶は背骨をひとつずつ外していくような動きで跳んだ。その跳躍のあいだだけ、ここにいる誰もが、自分の身体を持たなかった。

「写真にしてしまえば、あなたがいなくなっても、そのぶんだけは壊れずに済む気がするから」

 玲子の声は震えていた。その言葉が、劇場全体を震わせる。

 莉緒は自分の右膝に手を当てた。もう元には戻らない膝。けれど今夜、確かに跳んだ膝。どちらが本物の自分の膝なのか、分からなくなる。

 保存された紗耶が、わずかに顎を引き、こちらを見る。永遠の表情のまま、視線だけが動いたように感じられた。

「あなたは、私を愛しているの?」と、保存された紗耶が問う。

 舞台の紗耶は玲子を見つめ、言葉を継いだ。

「それとも、この身体を愛しているの?」

 劇場全体が息を止める。莉緒のスーツも、隣の男性のスーツも、微細な震えを止めたようだった。

 玲子は目を閉じ、ゆっくりと開ける。

「区別できない」と玲子は言った。

 玲子の胸に、「いつから返せなくなったのか」という言葉にならない感覚だけが残る。

 誰の感情なのか分からない震えが、列から列へと移っていく。個人の胸の鼓動と、劇場全体の脈拍との境目がいったん溶ける。

 二人の紗耶が重なり、同時に薄くなっていく。観客はどちらに共鳴しているのか分からなくなり、二重の息に裂かれそうになる。

 掬ったそばからこぼれていく水みたいだ、と莉緒は思った。嗚咽と笑いと、押し殺した怒声が場内に混ざり合う。誰も立ち上がらない。ただ、スーツの内側で、それぞれの心拍だけが暴れていた。

 照明が大きく落ち、音楽が途切れる。完全な闇が訪れる。次に光が戻ったとき、何が残っているのか。誰も知らない。

 光が戻る。

 紗耶は床に片膝をつき、粉塵のざらつきを掌に感じていた。背中の布は皮膚から離れたりまた貼り付いたりを繰り返し、呼吸のたびに微かな摩擦音を立てる。客席は静かで、その静けさは終わりの前ではなく、終わりを通り過ぎたあとのものに近かった。

 保存された紗耶は、まだそこにいる。跳躍の半ばで止まり、呼吸の膨らみだけを永遠へ向けて脈打たせている。観客はもう騒がない。騒ぎ続けるには、永遠は長すぎた。

 紗耶は立ち上がり、永遠の自分と向き合う。指先を伸ばすと、薄い膜のような抵抗に触れた。氷というより、生き物の皮膚に近い感触。指先の鈍い感触が、いくつかのスーツを通って観客にも共有される。

 紗耶は玲子を見た。玲子は席から一歩踏み出したまま、カメラを両手で抱えている。目は赤い。

「選べない」玲子は首を振る。

「この身体、どこかの棚にしまわれるのが怖い。ラベル貼られて、そこに置きっぱなしになるのが」

「私のものにも、したくない」

 投げやりに突き放す声ではなかった。むしろ、自分の名前ごと少し後ろへ下げようとするような、妙に静かな響きだった。

 紗耶は保存された自分の隣に立ち、わずかな角度の差で光を捻じ曲げる。

「今から踊るのは、私でも彼女でもない動き」

 音楽はもうない。照明も最小限だ。紗耶は踵を揃え、呼吸を薄くし、指をゆっくりと開いた。

 一歩だけ前に進み、次の一歩でわずかに左へずれる。保存された紗耶の影から抜け、影の外の空気を吸う。腕を上げきる前に下ろし、抱きしめるには足りない距離で手を止める。

 その瞬間、私たちは観客ではなくなった。誰の身体で見ているのか分からない。どの膝が震えているのかも。私という単数形を探しても見当たらなかった。

 楽譜に書かれない装飾音のような動きが、記録の外側でふくらみ、すぐに消えていく。

 スーツはそれを拾い損ねた。信号化できない微熱と沈黙だけが、場内を漂う。莉緒は自分の右膝に手を当てる。痛みはない。共有もされていない。ただ、自分の膝がそこにあった。もう跳べない膝。でも、今夜確かに跳んだ膝。

 隣の男性が、小さく笑った。涙を拭いながら呟く。

「そうだ。舞台って、本当はこうだった」

 記録されていないはずの瞬間のほうが、あとからふいに立ち上がってくる。観客は、自分の内側にだけ残った像を、そっと撫でるように確かめた。

 莉緒もその一人だった。右膝のあたりに残った熱の輪郭を、心の中でなぞりながら息を吐く。

 紗耶は永遠の自分に向かって深く礼をした。向こうは礼を返さない。その像は、礼を知らないもののように劇場には思えた。だからこそ、美しくて、どうしようもなく孤独なものとして、観客の胸に残った。

 玲子は客席に向き直る。

「この写真を──」

 言い淀む。言葉の質量を計る。

「この写真を、ここにいる全員にあげます。──正確には、差し込ませてもらいます」

 声は静かだったが、はっきりと届いた。

「配るのは点の雨じゃない。世界を読み取るためのグリッド。同じ棘を刺すフラクタルみたいに、傷をエンドレスで繰り返す。最後には、それがそもそも何の写真だったのか判別できなくなる」

「共有に流す?」紗耶が問う。

「流す。でも、タイトル欄は空欄のままがいい。誰の名前も要らない」

 写真家にとって、名前は二度目のシャッターだ。玲子は頷いた。

 その頷きを受け取り、紗耶は最後の動きへ入る。踵を離し、足指を床へ広げ、わずかな宙づりのあいだに言う。

「さよなら」

 永遠の紗耶は一度だけ強く発光し、そのまま解像度ごと薄くなる。消えたのではない。視野からこぼれ、縮尺の違ういくつもの層として重なり合った共同の記憶のほうへ位置を移した。

 スーツが微かに震え、役目を終えた道具として外れ、沈黙する。

 紗耶は床に戻り、膝が小さく鳴る。今夜初めて、その音は誰にも共有されなかった。

 拍手は遅れて慎重に起こり、やがて強く長く続く。紗耶は頭を下げ、袖へ引っ込む。

 スーツは沈黙している。さっきまでひとつだった皮膚の残響が、この文章のかたちをとってまだほどけずにいる。どの声が誰のものかは、やはり決まらないままだ。


 終演後のロビーで、莉緒はベンチに座っていた。スーツを脱いだ肌に、微かな痕が残っている。右膝に手を当てる。痛みはない。でも確かに、今夜跳んだ記憶があった。

 隣の席にいた男性が、スーツを抱えたまま近づいてくる。莉緒は顔を上げた。

「ありがとう」

 男性は言った。

「何に、ですか……」

「いや、誰に言ってるのかも分からないんですが。とにかく、ありがとうって言いたくて」

 男性は遠くを見る目をした。

「三十年前に死んだ友人がいるんです。一緒に舞台に立っていた。今夜、久しぶりに彼と踊れた気がしました」

 莉緒は頷く。

「私も……久しぶりに跳べました」

 男性の視線が、莉緒の右膝に落ちる。手術痕に気づいたようだった。

「また跳べますよ」

「いえ、もう競技には戻れないんです」

「そうじゃなくてね」

 男性は笑った。

「違う形で。また跳べる。今夜みたいに。誰かの身体で、誰かの記憶で。それも、跳ぶってことだから」

「……はい」

 莉緒は返事の代わりに、深く頭を下げた。

「名前だけ、聞いておいていいですか」

「ああ。三浦といいます」

 そう名乗ったあと、彼は「あなたは?」と尋ねかけ、すぐに首を振った。

「やっぱりいい。今夜のことは、名前がない方がいい」

 言い終えると、三浦はもう一度「ありがとう」と言って、劇場を後にする。その背中は少し丸くなっているが、数歩だけ昔の歩幅を取り戻しているように見えた。

 莉緒は立ち上がり、出口へ向かう。スーツの布は紙袋に押し込まれ、代わりに右手には自分のスマートフォンがあった。画面には、顧問の先生からの未読メッセージが通知として残っている。「どうだった?」の短い一文。指はしばらく宙に止まり、それから、ゆっくりと文字を打ち始めた。

「すごかった。また身体を使いたくなりました」

 送信ボタンを押す前に、莉緒は「自分の」と書き足してから、少し考えて「誰かの」と付け加えた。文の形がうまくまとまらず、何度か消して書き直す。最終的に残ったのは、「また、跳びたくなりました」という一文だけだった。

 送信を終えると、膝の内側で小さな疼きが起こる。それは、筋肉が少しだけ未来に向けて伸びをしたような感覚だった。

 ポケットには、受付で渡されたダンス教室のチラシが一枚入っている。紙の角が太ももに当たる感触をそのままにして、莉緒は劇場から帰路に向かう。ガラス扉に映った自分の姿は、さっきまで舞台の上を共有していた観客の誰とも違う、一人分の影だった。

 交差点の向こうに、運河にかかった欄干の灯りが見える。水面に落ちた光が、さっき見た粉塵の粒と同じような揺れ方をしていた。少し迷ってから、莉緒はそちらへは行かず、駅へ続く歩道を選ぶ。今夜は水の上よりも、自分の足の下にあるアスファルトの感触を、もう少しだけ確かめていたかった。


 タオルで首筋を押さえながら紗耶はロビーに出た。汗は引きかけているが、胸椎のいくつかにはまだ空白が残り、そこを風が通り抜けていくような感覚があった。

 玲子の方が先に見つけてくれた。カメラはケースに収まり、肩の力が半分抜けている。

「流したよ」

 玲子は言った。

「名も履歴も残らない層に。誰かが思い出せば、そこから立ち上がる。誰も触れなければ、ずっと底でバグみたいに点滅してる」

 終演後のロビーには、紙コップの束が差し込まれたウォーターサーバーが一台だけ置かれていた。二人はその前に並び、紙コップに注いだ水を順番に口に含む。

「今夜、軽くなった?」

 玲子が訊く。紗耶は少し考えてから答えた。

「少し。怖いくらいに」

「私は重くなった」

 玲子は笑うように言う。

「『残さない』って決めた瞬間だけ、こっちで握りしめちゃった気がして」

 紗耶は玲子の指先を握り、軽く引いた。

「その重さは、私が持つ。半分は私のもの。半分は、今夜ここにいた人たちのもの」

 劇場を出ると、都市は既に夜だった。運河が照明を刻んで流れ、トラックの金具が微かに鳴る。欄干にもたれた指先の下を黒い水がゆっくり流れる。川と呼ぶにはきれいではなく、消毒薬と古い油が混ざったような匂いがした。舞台用スモークの甘い匂いとどこかでつながっている気がして、鼻の奥をくすぐった。

 欄干に肘を乗せ、紗耶は肩を回す。まだ胸椎の空白に風が通る。風は所有を知らず、書き留められもしない。玲子の掌に自分の掌を重ねると、逃がさないようにゆっくりと指を絡めた。共有も保存も介さない、ただの接触。指の温度が時間の中にゆっくり沈む。沈みながら、確かにここにある。

 その温度は写真には写らず、ログにも残らない。ただ、どこかで同じ夜のことを思い出すとき、肩口や指先の感触としてふいに蘇る。そうした再演だけが、誰にも所有されないまま続いていく踊りなのだと、紗耶は思った。

「明日も踊る?」

 玲子が訊く。

「踊る」

「写真は?」

「撮っていい。ただ、名前はつけないで」

「分かった」

 玲子は星の少ない夜空を見上げる。

「あなたの身体は、誰のもの?」

 玲子が問う。紗耶は欄干に残っている水滴を指で弾いた落ちた雫が水面を叩き波紋が街灯の光を崩す。

「今は、運河のもの」

「明日は?」

「明日は、私のものかもしれないし、誰のものでもないかもしれない。あるいは、あなたのものかもしれない」

「欲張りだな」

「そう。全部抱え込む話じゃない。ただ、ぎりぎり指先が触れるところで揺れてるのを、今夜はそのままにしておこうと思う」

「うん。フォルダ作ると、仕事みたいになっちゃうから」

 玲子がそう言って肩をすくめると、紗耶が「あとで探せなくて泣くやつ」と笑った。

 その笑い方まで、運河の波に持っていかれてしまう前に玲子は、目を閉じた。

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