寝て起きるたびに、世界は入れ替わる

不思議乃九

寝て起きるたびに、世界は入れ替わる

Ⅰ.現実(アンプラグド)


眠るたびに、世界が入れ替わる。

この十数年、ずっとそのサイクルだ。


目を閉じる直前、現実の部屋はいつも同じ構造を維持している。それは「未完了の静物画」と呼ぶべき、惰性の風景だ。エアコンの送風口に溜まった埃は、文明の濾過されなかった残滓であり、呼吸のたびに微細な粒子が肺の奥へ侵入してくる感覚がある。


床に落ちたままの充電ケーブルは、昨日への未練と明日への備えを繋ぐ臍の緒のようで、無力な自分を嘲笑っている。残量二三パーセントのスマホが、小さく震えて通知を吐き出す。それは、世界のどこかで誰かが放った、根拠のない「緊急性」の信号だ。


既読にする義務も、返信する意欲もない。

ただ、存在することの重みだけがある。


意識が沈む。

それは、重力に逆らえなくなった魂が、泥の中に溶け込んでいくような、ねっとりとした感覚だ。



Ⅱ.ゲームの街(ハイ・コンシークエンス)


次に目を開けると、そこは「ゲームの街」だ。


空は低く、常に雨が降る寸前の色をしている。光の飽和度は極端に低く、街全体が冷えた鉄の塊のように重く沈んでいる。アスファルトは濡れていない。しかし、その表面は常に冷たい。それは湿気ではなく、「熱量の欠如」による冷たさだ。


街路灯の光は黄色く、ネオンは原色で、すべてが意図的にコントラストを強調されている。


視野の左下、ミニマップが脈打っている。それは生命の鼓動というより、電子的な痙攣に近い。赤と青の点が、意味を持たないまま動いている。歩行者と敵性存在。あるいは、ターゲットと非ターゲット。


彼らの行動原理は単純明快だ。信号は赤のまま変わらず、クラクションだけが理由もなく鳴る。それは、この世界の住民たちが抱える満たされない欲求の集積音のように聞こえる。


車を盗む。

ドアを開ける音は軽い。現実よりも軽い。


この世界は「摩擦のない悪意」でできている。罪悪感も、その軽さと同調し、ほとんど意識に上らない。行為と結果の間に、現実世界にある「良心の呵責」という緩衝材が存在しない。


仕事を受ける。

名前のあるミッション。


「裏切者の粛清」

「物資の回収」

「領域の制圧」


失敗条件と報酬が、はっきりとしたゴシック体で表示される。曖昧さがない。努力は必ず数値化され、報われる。


撃てば、相手は倒れる。

倒れれば、物語は進む。


善悪は表示されないが、因果だけは必ず回収される。この世界では「結果」が唯一の倫理規定だ。体力ゲージが減り、金が増える。その一方で、「理由」が減っていく。


なぜ戦っているのか。

なぜ生きているのか。


そうした問いは、ミッション完了という即座の充足によって、すべて飲み込まれていく。


夜が来る。

空の低さが、さらに圧迫感を増す。

画面が暗転する。


それは次のステージへの移行であり、強制的なログアウトだ。



Ⅲ.現実(アブソルート)


目を覚ます。

現実だ。


この転換のたびに、世界はわずかに傾いている気がする。天井の白は、さっきの重厚な影とは対照的に、光を乱反射して目が痛い。だが、その白は昨日よりも少し汚れて見える。


自分の内側で何かが摩耗し、世界の解像度が落ちているのかもしれない。


スマホは充電されている。電力という物理的なリソースは満たされた。だが通知は既読になっていない。誰も「次にやるべきこと」を示さない。


「自由意志」という名の、無限で、しかし重い空白がそこにある。


歯を磨く。水は冷たすぎる。この世界の物理法則は厳格だ。冷たさは冷たさとして、容赦なく神経を刺激する。鏡の中の顔は、キャラクリ画面を経ていない。


無数の選択肢をスキップし、そのまま世界に放り込まれた初期設定の顔。


外に出る。

街は明るすぎる。看板が多すぎる。


無数の商業的メッセージが視覚野に押し寄せ、購買と消費を煽る。朝食のメニュー、服の色、通勤経路。どの選択にも、明確な報酬や失敗条件は紐づいていない。


「最適解の不在」。

それが、この世界の基本原理だ。


仕事をする。

時間だけが減っていく。


評価基準は曖昧で、上司の機嫌や市場の気分という予測不能な変数に依存している。


誰かが成功する。理由は語られない。

誰かが消える。失敗条件も示されない。


この世界は、チュートリアルなしのハードモードだ。


夜になる。

疲労は数値化できないまま、確実に蓄積している。


また眠る。



Ⅳ.帰還と操作の哲学


ゲームの街に戻ると、なぜか安心する。

それは「管理された世界」への希求かもしれない。


裏切りにはイベントフラグがあり、暴力には価格があり、成功には必ず失うものがある。この世界は徹底的に「取引」でできている。


雨音はループし、NPCの会話は薄っぺらい。

それでも世界は一貫している。


論理だけが支配し、矛盾がない。


目を覚ます。


現実では、世界のルールが毎日更新される。昨日の努力が、今日は無効になる。市場という名の巨大なパッチが、常にインストールされ続けている。


ミッションは与えられない。

だが失敗だけは蓄積される。


ローン、人間関係、自己肯定感。

表示されないデバフが、行動を制限する。


どちらが現実で、どちらが仮想か。

その問いは、もはや意味を失っている。


ただ一つ、はっきりしていることがある。


ゲームの中では、俺は操作している。

現実では、操作されている感覚しかない。



Ⅴ.ロード画面


布団に入り、天井を見上げる。

この天井だけが、両方の世界を繋ぐ唯一のインターフェースだ。


もしこのまま、どちらか一方に固定されるなら。


理由が表示される世界か。

理由が奪われる世界か。


目を閉じる。

ロード画面の冷たい電子音が、遠くで鳴る。


また、世界が入れ替わる。


【終】

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