怖い朝を、貴女が変えてくれた

南條 綾

怖い朝を、貴女が変えてくれた

 朝の満員電車は、いつものように息が詰まるほど混んでいた。

ドアが閉まった瞬間、空気が一段重くなる感じがして、胸のあたりがきゅっと縮む。


 私は吊革に掴まり、身体を小さく縮こまらせていた。

指先に冷たい輪の感触が残って、腕だけがやたらと疲れる。

足はちゃんと地面についてるのに、揺れるたびに身体の境界が曖昧になっていく。


 スーツのスカートが少し短いかな、と今朝は後悔していたけれど、もう遅い。

そんなこと、今ここで考えたって意味がないのに、勝手に浮かんできて、勝手に私を責める。

鏡を見て巻き直したストッキングの縁が、妙に頭に残っていた。


 隣のサラリーマンの肘が肩に当たるたび、ぎゅっと目を閉じて耐えるしかない。

痛いってほどじゃない。

でも、ぶつかるたびに「ここにいる」って印を押されるみたいで、気持ちが削れる。

誰も悪くない顔をして、みんな同じ方向を見てる。

スマホの画面、広告の文字、窓に映るぼんやりした影。

そこに私の居場所だけが、すこしずつ押し潰されていく。


 最初は、ただの偶然だと思った。

誰かの手が、私の腰のあたりに軽く触れた。

布の上を一瞬だけ滑ったみたいな、ありふれた接触。

満員電車じゃ、よくある。

そう、よくある。

そうやって自分に言い聞かせれば、胸のざわつきが消える気がした。


 揺れのせいだ、そう自分に言い聞かせた。

一歩ずらそうとしても、足が動かない。

背中も、肩も、前も後ろも人の気配で塞がれていて、逃げ道がない。

息を吸っても吸っても、肺が満たされないみたいで、喉が乾く。


 でも、次の瞬間、その手ははっきりと私のスカートの裾を撫でるように動いた。

偶然じゃない。

布がわずかに引かれる感覚が、はっきりと意図を持って伝わってきて、頭の中がすっと冷える。


ぞくり、と背筋が凍った。痴漢だ。


 気づいた瞬間、身体の芯がすっと冷えた。

心臓が激しく鳴り始める。鼓動が耳の内側を叩いて、周りの音が遠くなる。

電車の走る音も、誰かの咳も、アナウンスも、全部ぼやけて、代わりに自分の呼吸だけがやけにうるさい。


 声を出さなきゃいけない。

頭ではそう叫んでるのに、喉が固い。

舌が張りついて、息が細くなる。

でも、もし叫んだら。


 周りの人は見て見ぬふりをするかもしれない。

目が合っても、すぐ逸らされるかもしれない。

私が変な女だと思われるかもしれない。

混んでるから、ぶつかっただけって顔をされるかもしれない。

会社に遅刻するかもしれない。

駅員さんに説明して、名前を書いて、時間を取られて、上司に連絡して。

そういう面倒な全部が、怖さと一緒に一気に押し寄せてきて、頭の中が真っ白になる。


 いろんな「かもしれない」がぐるぐる回って、どれも現実みたいに重くのしかかってくる。

結局、唇を噛んで俯いたまま動けなかった。

唇の内側が痛いのに、それでやっと自分がここにいるって確かめられる。

視線の先には、誰かの背中と、スーツの皺と、揺れる吊革。

みんな同じ顔をして、同じ方向を向いて、私だけが取り残されていく感じがした。


 手は次第に大胆になっていく。

布がわずかに引かれる感覚がして、ぞっとする。

身体のどこに力を入れたらいいのかわからない。

押し返したいのに、腕は吊革に縫い付けられたみたいに動かない。

足も、膝も、ただ硬直して、狭い床に根が生えたみたいだ。


 スカートの中に入り込まれる感覚に、胃の奥がきゅっと縮んだ。

ストッキングの上から太ももを這う気配がして、息が震える。

鳥肌が立つのに、汗が背中を伝う。

冷たいのに熱い。

吐き気が込み上げるのに、吐く場所もない。

電車の揺れに合わせて、嫌な感覚だけが増幅されていく。


 涙が滲みそうになるのを必死で堪えた。

泣いたら終わりな気がした。

泣いたら、もう立っていられなくなる気がした。

まぶたの奥が熱くて、視界がにじんで、でも顔だけは動かせない。


 助けて、誰か。

口の中で何度もそう言うのに、声は外に出ない。

身体が固まって、ただ祈ることしかできない。

早く次の駅に着いて。

早くドアが開いて。

早く、この手が消えて。

願いが小さく小さく縮んで、胸の奥で震えていた。


「……っ」


 喉の奥で、息が引っかかった。

声にならないまま、肺だけが小刻みに震える。

突然、手が離れた。


 触れられていた場所が一気に空っぽになって、逆に痛いくらい意識がそこに集まった。

ストッキング越しに残る気配が消えない。

置き去りにされたみたいな寒気が、皮膚の内側を這った。

次の瞬間、私の背後にいた誰かが、はっきりと低い声で言った。


「手ェ、離せよ」


 短い言葉だったのに、空気が変わった。

満員電車のざわざわした音の中で、その声だけが真っすぐ刺さってくる。

胸の奥で張りつめていた糸が切れて、全身の力が抜けた。


 膝が折れそうになって、吊革を握る指にだけ必死に力を入れる。

息を吸ったら、やっと酸素が入ってきた気がした。

遅れて、涙が目の縁に浮かぶ。


 振り返ると、そこにいたのは背の高い女性だった。

黒のロングコートに、ショートカットの髪。

人の波の中で、その人だけがやけに輪郭がはっきりして見えた。

目が鋭い。

でも怖いんじゃなくて、迷いがない。

私についていた手を掴んでいたのは彼女だった。


 手首を押さえる指が強い。

痛いわけじゃない。

逃がさないっていう意思が、温度みたいに伝わってくる。

痴漢の男は慌てて手を引っ込め、人混みに紛れて逃げていった。


 逃げる背中を追いたい気持ちが一瞬よぎる。

でも、私の身体は追いかけるどころか、立っているだけで精一杯だった。

周りの人たちは、何もなかったみたいに視線を泳がせて、またスマホに戻っていく。

その無関心が、余計に現実味を増やして、胃の奥がきゅっと縮む。


 電車が駅に着き、ドアが開く。

開いた瞬間、外の空気が流れ込んできて、汗ばんだ肌がひやっとした。

アナウンスの声とホームの音が混ざって、耳が痛いくらいに戻ってくる。

彼女は私の手首を掴んだまま、強引に私を降ろした。

押されるように人の流れへ出ると、靴がホームの床を踏んだ。

足元が揺れていないのに、身体の中だけがまだ揺れている。

掴まれた手首だけが、現実につながる取っ手みたいだった。


 ホームに降りた瞬間、膝ががくがくと震えた。

立っているのに、崩れそうで、視界が少しだけ歪む。

息を吐くたびに、胸の奥から遅れて恐怖がこぼれてくる。

助かった、って思った瞬間に、今まで我慢してたものが一気にほどけていった。


「大丈夫?」


 その言葉が、まっすぐ私の胸に落ちてきた。

ホームのざわざわした音の中で、その声だけが近い。

彼女が初めて、まともに私を見た。

目が合った瞬間、胸の奥が熱くなった。

さっきまで、怖いしかなかったのに。

助かったって思っただけで、身体の中の何かが一気に崩れる。


 怖かったはずなのに、涙が溢れて止まらなくなった。

息を吸うたびに喉が震えて、うまく呼吸ができない。

鼻の奥がつんとして、頬が勝手に濡れていく。

泣きたくないのに、止め方がわからない。


「……ごめんなさい、私……何もできなくて……」


 言いながら、自分で自分をもっと小さくしてる気がした。

声にした瞬間、情けなさが形になってしまったみたいで。

でも、黙ってるよりはまだましで、吐き出さないと壊れそうだった。


「謝る必要なんてないよ。あんなやつが悪い」


 はっきり言い切られて、胸の奥が少しだけ軽くなる。

誰かが私の代わりに、ちゃんと怒ってくれた。

それだけで、肩に乗ってた重たいものが、少しずつずれていく。


 彼女はポケットからハンカチを出して、私に差し出した。

白いハンカチに、かすかなタバコの匂いがした。

その匂いが不思議だった。嫌じゃない。

大人の匂いっていうか、現実の匂いっていうか。

私は指先でそれを受け取って、ぎゅっと握った。

布の柔らかさが、冷えた指に染みる。


「名前、聞いてもいい?」


 聞かれた瞬間、言葉が詰まった。

名前を言うだけなのに、今の私はそれすら怖い。

でも、彼女の目は急かしてこない。

ちゃんと待ってくれる。


「……綾です」自分の声が、やけに小さく聞こえた。


「私は明里あかり……今日は会社、休んでもいいんじゃない?」


 休む。

その言葉が頭の中で回る。

休んだほうがいいのはわかる。

でも、休んだら、今日が全部私の中で大きくなりすぎる気がした。

家に帰って一人になったら、また身体が固まって動けなくなる気がした。


 私は首を振った。

休んだら、余計に自分が情けなくなる気がした。

明里さんに助けてもらったのに、私は何もできなかった。

その事実だけが残って、今日の自分が嫌いになる。

だから、せめて会社に行って、いつも通りのふりをしたかった。

でも、明里さんは私の手を離さなかった。

掴んでるっていうより、繋いでるみたいな力加減。

逃げなくていいって、言葉じゃなく手で言われてる気がした。

その温度に触れてる間だけ、世界が少し優しい。


「じゃあ、せめてコーヒーでも飲んで落ち着こう。私が奢るから」


 そう言って、彼女は私を駅前の喫茶店に連れて行った。

ドアを開けた瞬間、外の冷たい空気から、店の暖かい空気に包まれる。

焙煎した匂いがふわっと広がって、胸の奥が少しだけ緩んだ。

カウンターの上の照明がやわらかくて、ホームの白い光とは違う色をしてる。


 席に座ると、足の震えが遅れて戻ってきた。

椅子の背もたれに身体を預けても、震えが止まらない。

カップを持つと、手が小さく揺れて、コーヒーの表面が細かく波打った。

震える手でカップを持つ私を、明里さんは黙って見守ってくれた。

話しかけすぎない優しさ。

でも、ちゃんとそばにいてくれる安心感。

視線を外さずに見張るんじゃなくて、必要な時だけ気づいてくれる感じ。

それが、今の私にはありがたすぎた。


 コーヒーの湯気が、目の前でゆっくり揺れる。

あったかいものが喉を通るだけで、身体の中の氷が少しずつ溶けていくみたいだった。

すごく心が落ち着く感じが心の奥に広がっていた。


「……本当に、ありがとうございました」


 言った瞬間、声が自分でも情けないくらい小さかった。

落ち着いたつもりだったのに、胸の奥はまだぐらぐらしてて、言葉の端っこが震える。

ありがとうって言いたいのに、怖かったのも情けなかったのも全部混ざって、うまく形にならない。


「礼なら、もういいって」


 明里さんは苦笑いした。

軽く言ってるみたいなのに、突き放す感じはなくて、むしろ私の中の重たいものだけを外に出してくれるみたいだった。


 明里さんはポケットから煙草を一本取り出した。

指に挟まれた白い紙が、店の灯りで少しだけ光る。

火をつける前の、あの一瞬の間が妙に落ち着いて見えて、私は目を逸らせなかった。


「吸う?」


「いえ……」


 断ったのに、なぜか申し訳なくなる。

私のことで止めさせてるみたいで、喉がきゅっとなる。


「そっか」


 明里さんは煙草を戻した。

その動きが自然すぎて、気を遣わせたっていう感じがしない。

それが余計に、胸に沁みた。


 代わりに、私の髪をそっと撫でた。

指先が触れた瞬間、頭のてっぺんから背中まで、力が抜けていく。

触れられるのが怖いわけじゃない。

怖かったのはさっきで、今のこれは、ちゃんと人の手だってわかるのに。


「怖かったね」


 その一言で、また涙が溢れた。

我慢してたものが、やっと許されたみたいだった。

泣いちゃだめだ、しっかりしなきゃって押さえつけてたのに、その言葉は優しすぎて、全部ほどける。


 明里さんは何も言わず、私の隣に座り直して、背中を優しく抱きしめてくれた。

背中に手のひらが当たるだけで、呼吸が少しずつ戻ってくる。

コートの布越しに伝わる体温が、震えを少しずつ溶かしていく。

熱いのに痛くない。

ただ、安心だけがゆっくり広がっていった。


 それから、毎日。

私は毎朝、同じ車両に乗るようになった。

最初は偶然を装って。

時間を合わせたことを、自分でも認めないふりをして。

でも、改札を抜けるタイミングも、階段の上り方も、立つ位置も、気づいたら全部、同じ形になっていた。


 すぐにそれが待ち合わせだと気づいた。

明里さんが来るまでの数分が、怖くて、落ち着かなくて。

来てくれた瞬間だけ、世界がちゃんと戻る。


 明里さんはいつも、私が乗る少し前の駅から乗って、必ず私の隣に立ってくれる。

何も言わなくても、私と人の間に、自然に身体を入れてくれる。

押し合う波の中で、そこだけが小さな壁みたいになって、私はようやく息ができる。


「今日もおはよう、綾」


 その声を聞くたび、胸が少しだけ軽くなる。


「おはよう……明里さん」


 

 ある日の帰り道。

駅の外の空気が冷たくて、吐いた息が白く揺れた。

人の流れが昼よりゆっくりで、その分だけ隣を歩く明里さんの気配がはっきりわかる。

明里さんが私の手を握って言った。


「さんは要らないよ」


 手のひらの熱がじんわり伝わってきて、指先が少しだけ痺れる。

言われた瞬間、胸の奥が跳ねて、顔が勝手に熱くなった。


「……明里」


 名前を呼んだ瞬間、心臓が変な音を立てた。

口に出しただけなのに、世界が少しだけ近くなる。

呼べたことが嬉しいのに、照れくさくて目を合わせられない。


 明里さんは笑って、私の指にそっとキスをした。

一瞬だけ、柔らかい温度が触れて、すぐ離れる。

その短さが、逆にずるい。

指先から胸の奥まで、熱が走って、私はただ固まったまま息を呑んだ。


「綾は可愛いね」その日から、私たちは付き合い始めた。


 あの日の朝、電車で痴漢に遭ったことが、まるで夢のように遠く感じる。

私はただ、怖くて、身動きもできず、涙をこらえることしかできなかった。

でも、明里はそんな私を、全部抱きしめてくれた。


「綾は強いよ」その言葉が胸に響いた。


 その腕の中で、私はやっと、深く溜め込んでいた涙を流すことができた。

明里が言ってくれる通り、強くなりたいって、ずっと思った。

でも、それが本当にできるのか不安だった。

明里がそばにいてくれるから、私は少しずつ、強くなれる気がする。


 今では、毎朝、明里と一緒に電車に乗るのが楽しみで仕方ない。

あの怖かった満員電車も、明里が隣にいてくれるだけで、心が落ち着く。

満員電車の中で肩がぶつかり合うけど、私はもう何も怖くない。

だって、私の手を握ってくれているのは、世界で一番頼もしくて、優しくて、ちょっと意地悪な明里だから。

その温かい手のひらが、私の心にしっかりと響く。


私は、心の底から恋をした人だから。


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