低気圧の辞書

不思議乃九

低気圧の辞書

郊外の駅前は、ほとんど沈黙していた。午後二十二時前。

蛍光灯の白が、誰もいないデスクの上で湿気を含んだまま沈滞している。

業務用タスクの残滓と、内側で温度を上げ続ける物語の往復。

事件は起きない。振動だけが、低いまま続いていた。


窓の外は、まるで濡れていない雨が降っているみたいに、

密度だけが増していく低気圧の夜だった。

その沈黙は、気象よりも私自身の内圧に近かった。


左隣では業務システムの画面が開きっぱなしになり、

右手はポケットから取り出したiPhoneのメモアプリを起動する。

筆記具は、この光沢のある薄いガラス面だけ。

短編の結末へ向けた急速な滑空が、終業後の十分間に凝縮されていく。


その筆速を支えているのは、

普通の人には扱いきれないほど入り組んだユーザー辞書だった。

単語ひとつで情景を切り出し、比喩は静かに捻れ、曖昧さを残す。

私は感情を語らない。けれど、この辞書こそが

昼間ずっと圧し込めていた熱量の、最も静かな証拠だった。


辞書は、物語を組み立てるための私だけの巨大な装置として、粛々と稼働する。


液晶ガラスを擦る音が途切れる。

短文と長文が混ざり合い、時間の流速が制御され、

未解決のままの断章が、サーバー上の記憶領域へ書き込まれていく。


沈黙。


物語は、この場所で、残業のあと、

たった一枚のガラスの上で生成され続けている。


その静止に割り込むように、現実の音が響いた。


窓の外から、遠く低く——

カン、カン、カン……

踏切の遮断機が降りる音が始まった。


【了】

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低気圧の辞書 不思議乃九 @chill_mana

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