最期の教室
えどりゅう
序章 逃げ場所
第1話 「消毒液の匂い」
電車の窓から、海が見えた。
三月の朝日を浴びて、水面がきらきらと光っている。うみねこ市民病院のある海沿いの町に近づくと、潮の匂いが車内にまで漂ってくるような気がした。
ポケットの中で携帯が震える。
カレンダーの通知だった。画面には『三月十五日まで あと14日』と表示されている。
心臓が跳ねた。
俺は通知を消して、携帯をポケットに押し込んだ。窓の外に目を戻す。海は変わらず穏やかに広がっていて、カモメが一羽、低く飛んでいくのが見えた。
あと十四日。
その日付のことは、考えないようにしている。考えたところで、どうにもならないからだ。
電車が駅に滑り込む。俺は立ち上がり、他の乗客に紛れてホームに降りた。
病院までは歩いて十分ほどだ。海沿いの道を歩くと、潮風が頬を撫でていく。三月とはいえ、まだ空気は冷たい。
正面玄関をくぐると、消毒液の匂いが鼻を突いた。
不思議なことに、この匂いが嫌いではなかった。むしろ、どこか安心する。ここでは誰も俺の過去を知らない。「永瀬さん」というボランティアの青年として、ただそれだけの存在でいられる。
それが、どれほど楽なことか。
エレベーターで七階に向かう。
緩和ケア病棟。終末期の患者が過ごす場所だ。六階を過ぎたあたりで、空気が変わるような気がする。静けさの質が違う。ここには、死の気配が満ちている。
扉が開くと、ナースステーションの前で藤田看護師長と目が合った。五十代の女性で、白髪交じりの髪をきっちりとまとめている。
「おはようございます、永瀬さん」
「おはようございます」
俺は軽く頭を下げた。藤田さんは穏やかに微笑んで、「今日もよろしくね」と言った。
ボランティアの仕事は単純だ。車椅子を押す。花瓶の水を替える。患者と世間話をする。特別な技術は必要ない。ただ、そこにいること。それだけが求められている。
廊下を歩きながら、いくつかの病室を覗く。窓際のベッドで本を読んでいる老婦人。天井を見つめている中年の男性。車椅子に座って、ぼんやりと外を眺めているおばあさん。
それぞれの人生が、ここで終わりに向かっている。
俺は彼らの名前をまだ覚えきれていない。顔は分かるが、名前と一致しないことがある。ボランティアを始めて二ヶ月。少しずつ、この場所に馴染んできたところだ。
「永瀬さん、お花のお水、お願いできる?」
看護師に声をかけられ、俺は頷いた。
花瓶を持って給湯室に向かう。水を入れ替えながら、窓の外を見た。海が光っている。穏やかな一日になりそうだった。
昼休み、藤田さんに呼び止められた。
「永瀬さん、少しいいかしら」
休憩室の隅で、二人きりになる。藤田さんは少し言いにくそうに、言葉を選んでいるようだった。
「実はね、患者さんたちから要望が出ているの」
「要望、ですか」
「ええ。勉強がしたい、って」
予想していなかった言葉だった。
「勉強……」
「暇を持て余している方が多くてね。テレビを見るか、寝ているか。そうすると、どうしても死のことばかり考えてしまうみたいで」
藤田さんの声は穏やかだったが、その目には切実さがあった。
「何か学ぶことがあれば、気が紛れるんじゃないかって。生きている実感が持てるんじゃないかって」
俺の手が、無意識にエプロンの裾を握りしめていた。
勉強。教える。先生。
その言葉が、脳裏で渦を巻く。
——職員室の机に置かれた、一通の封筒。
震える手でそれを開いた時の、あの感覚が蘇る。
『先生へ。勉強が、もうできません。ごめんなさい』
「永瀬さん?」
藤田さんの声で、我に返った。
「あ、すみません」
「大丈夫? 顔色が悪いわ」
「いえ、大丈夫です」
大丈夫なわけがない。でも、そう言うしかなかった。
藤田さんが続ける。
「永瀬さん、大学で文学を勉強していたって聞いたわ。教員免許も持っているとか」
「……ええ、まあ」
「だから、もしよければ……何か教えてもらえないかしら。詩とか、文学とか。難しいことじゃなくていいの。ただ、一緒に本を読むだけでも」
断りたかった。
教えることなんて、もうできない。資格がない。俺にはその資格がない。
でも、口から出たのは違う言葉だった。
「少し、考えさせてください」
夕方、俺は使われていないカンファレンスルームの前に立っていた。
藤田さんに案内されて、ここに来た。「使っていい部屋があるの」と言われて。
扉を開けると、西日が差し込んでいた。埃っぽい空気。長テーブルが一つ、パイプ椅子がいくつか。壁には小さなホワイトボードがかかっている。
教室だ、と思った。
窓から海が見える。夕日に染まった水平線が、オレンジ色に輝いていた。
俺は部屋の中央に立ち、ゆっくりと見回した。
——逃げるな。
自分に言い聞かせる声が響く。
——お前は教師だろう。生徒を見捨てた教師だ。
違う。あれは自分のせいじゃない。気づけなかっただけだ。
——言い訳するな。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
ホワイトボードの前に立つ。マーカーを手に取った。
何を書けばいいのか、分からなかった。でも、手は勝手に動いていた。
『最期の教室』
書いてから、自分で驚いた。「最後」ではなく「最期」と書いていた。
でも、消す気にはならなかった。この病棟にいる人たちにとって、ここは本当に「最期」の場所なのだから。
続けて書く。
『生徒募集』
『学びたいことがある方、どなたでも歓迎します』
『毎週月・水・金 午後二時~三時』
これは偽善だ。自己満足だ。教え子を救えなかった人間が、何を偉そうに教えようというのか。
分かっている。分かっているけれど。
でも、それでもいい。
偽善者で構わない。
ここでなら、もう一度「先生」と呼ばれても、壊れずにいられるかもしれない。
——そう、信じたかった。
次の更新予定
最期の教室 えどりゅう @tarodragon
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