第8話休憩するところ
木陰で、座っている。
いい天気の日には、気まぐれに、大きな公園に出かける。
そんな日々がある。
気ままに、何かをしようとしても、憂鬱が去らない。
それは、夕方の意味を考えるからか。
人は、大きなことよりも小さなことを探すもの。
忘れた頃に、そっと家を出る。
誰もいない道を、ただ歩く。
風も景色も、目にはいらず、闇雲に居場所を探す。
休憩するなら、ベンチがいい。
当たり前の、ことを、知らないで、知っている風にするのは、この日は、日差しが足りない、すると、むしろ、何もしないことが、気分に合うのは、いつも、意味を探る癖を少しやめるというのが良いのだ。
探求は小さな時間の曲がり角にある小さな誰も知らないビルの通っていく人もいない、ような何ら、考えることもないことから、起きる。
それは、そうかも知れないが、白熱する時間に、ある、余地を、どう向けるか、この思考の行為を交差点で、信号を待ちながら、実行できるという余暇を、持つと、意外に、人の選択肢は、考えることに行くか行かないか、それは、日々の充実ではなく、夕日が沈む意味を知ろうとしても、関係ないと言う所から、何か、絶望的な気分で、身近性とはゆかりもない思考を繰り返すのは、暇な人のやること、と言う思考法が、連鎖して、自身の意味の不明なんていう思考になって、存在を問うなら、それよりも、木陰で休んだらどうかと思う。
探求は、なぜするかと考えて、暇なら、女でもナンパすればと言う勧めは、懐具合のあるなら、そうするが、そうすることの心のある動機を見つけようとすると、女の価値を求めて、同時に価値の自由を探って、失うまで、思考することを、むしろ避けると、そういう枠内の発想が、夕日でも見て、ぼんやりするといい、探求が止むことが存在を問う原因になる。
日常で、考えると虚勢を張るのは、他者の視線を気にする自意識もどきか、あるいは、自意識もどきと言う言葉を使うインチキか。
人を評価したがるのは、陥れるためである。
人を評価できるものは、その対象に、近づかないか、価値を共有しない。
そして、評価を考えるものは、探求の闇にいる。
そんなことを、ベンチに腰かけて、ぼんやりすると、考えることの意味性を考えて、途方に暮れる。所詮と言えば所詮で、小さいと思うなら、距離を測っているだけだ。
他人との。
競争と言うなら、競い合わないで、いることを選べる自由があるというなら、言葉の繰り言をやめると言うと、この休憩するところを探すという言葉に、気づいて、気づかない振りをして、原因は見える。
そんなことを言っても始まらないというセリフは、思考を否定する、ナンセンスと言うなら、そのセリフだ。
なぜかは、思考することから、休む場所がある。
休憩するところは、思考するところだ。
静かなビルの小さな通りで、考えは、進んで、人生が進まなくても、それでいいと言えばいい。それが休憩で、むしろ、所在ない欲望については、思考しないということに気づく。
と言う時間があって、欲望の充足がある。
欲望は、闇雲であると、肥大化どころか、逆に力を失う。
ドレッシングエッセイ 鏑木レイジ @tuhimurayuki
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