洋菓子店アリエ

遠野紗雪

第1話

淡いピンク色が優しげな桃のムース。威厳たっぷりの漆黒(しっこく)のガトーショコラ。クリームの絞り口がキュートな黄色いモンブラン。

ショーケースの中のケーキたちは、それぞれ輝きを放っている。

(本当に美味しそう。目の保養だわ)

 羽川莉奈(はねかわりな)は、今日もショーケースの前で立ち止まった。中腰の姿勢でじっとケーキを見つめる。

 透明なショーケースはピカピカに磨かれている。こざっぱりとした店内は清潔感があった。一昔前に流行ったキャラクターの絵が少し古めかしいが、それがレトロで良いという人もいるだろう。


ここは洋菓子店アリエ。アリエはフランス語で盟友という意味だ。店長の荒巻(あらまき)寛(かん)太(た)が、友人であり、同志でもある深山(みやま)修司(しゅうじ)と店を始めたことに由来する。二人は修行先のフランスで知り合い、共に洋菓子をもっと世に広めたい、という夢を持っていたらしい。


莉奈はアリエで働く販売のアルバイトだ。女子大生らしい茶髪の髪をポニーテールにし、エプロンと同じ臙脂(えんじ)色の三角巾を付けている。半袖のブラウスから、小麦色の細い腕が伸びていた。

「羽川さん、またショーケースを見てんのかい?」

 莉奈が振り向くと、寛太が笑っていた。寛太は六十代半ば。清潔な白い制服を着ている。お腹は少し出ているが、いつもてきぱきと働く元気な男性だ。

「見つかっちゃいました?」

莉奈は照れくさそうにしている。

「羽川さんの毎日の日課だからな。覚えちまうよ。そろそろお茶の時間にしよう」

寛太の後に続いて、莉奈も厨房に入った。


厨房には、調理アルバイトの深山(みやま)このみがいた。肩に届かないくらいの黒い髪は、帽子ですっぽり覆われている。年齢は莉奈と同じくらい。いつもうつむきがちだ。

「このみさん、今日切ったケーキのはじっこがあったろ。あれを持ってきて」

 このみはどもり気味の返事をして、ケーキの切れ端を取りに行った。


 運ばれてきたケーキはサンマルクというケーキの端の部分。白黒のケーキで、黒はチョコムース、白はバニラムース、下の生地はクッキーのようなビスキュイになっている。

「美味しい。幸せー」

 莉奈はケーキを頬張り、至福の表情を浮かべた。派手なメイクをしているが、食べているときは幼く見える。今も大きく開けた口に手づかみでケーキを運んでいる。

「私、このチョコムースとバニラムースのとりあわせが大好きなんですよ」

「そうかい、そうかい」

 寛太の笑い皺がいっそう濃くなる。こうしていると、どこにでもいそうな気のいいおじいちゃんだ。

「このみさんは? ケーキは何が好き?」

「え……っと、私は……」

 莉奈の問いかけにこのみは絞り出すような声を出し、時間をかけてバナナタルトが好きだと答えた。

 その間、約一分。

(本当におっとりしてるなあ。このみさんらしいけど、もっとノリ良く話してもいいのにな)

莉奈はもどかしさを覚えた。


寛太とともに店を切り盛りしていた修司は、一年前に病気で亡くなった。このみはその修司の孫だ。修司が亡くなった後に、ここで働かせて欲しいと頼み込んできた。製菓の専門学校の二年生で、半年ほど前からアリエで働いている。


店には正社員の男性調理スタッフが他に一人いる。このみよりも年上でパティシエ歴も長いが、仕事熱心ではない。販売スタッフは莉奈を含めて五人。莉奈以外は主婦が三人と男性アルバイトが一人だ。


アリエは毎月発表される新作のケーキが人気の店。都心の商店街の一角にあり、とても繁盛している。外装や内装は町のケーキ屋さん、という感じで垢抜けないけれど、一流ホテルでパティシエをしていた寛太の腕は確かだった。


「クリームはもっと素早く泡立てないといけない。やり直し」

 莉奈はちらりと厨房に目をやった。

寛太は厨房では人が変わったように厳しくなる。ケーキに関しては、一切妥協を許さない。何度だってやり直しをさせる。そのたびにこのみは小さく返事をし、黙々と調理を繰り返す。


今日はクリームを三回も作り直しさせられているようだ。 

(このみさんもよくやるなあ。あんな厳しい指導、私なら耐えられない)

 このみは製菓の専門学校を卒業したら、アリエで正社員として働くことになっている。進路が決まっていることが、莉奈には少し羨ましい。 


 莉奈は大学二年生。就職活動の開始まで時間があるとはいえ、周囲にはもう動き出している人がいる。

(やりたいことがあるっていいなあ。私、何がしたいんだろ)

 自己分析も上手くいかず、就きたい仕事も見つからない。内心では焦っているのだが、それを認めたくないのだった。

 ひたむきにケーキを作っている二人を見て、莉奈は疎外感を覚えた。



 それから数日後。莉奈はアリエに制服のエプロンを忘れてしまった。

エプロンは二日以上着たら洗濯をするように言われているのに、もう三日も着用してしまっている。今日こそは洗濯しないといけない。

 七月の夜はじっとりと暑く、身体にまとわりつくようだった。早く帰ってシャワーを浴びたい。少し早足で歩いていると、あっという間にアリエに着いた。


 アリエの二階部分は寛太の居住スペースになっている。寛太に店の鍵を開けてもらうつもりだったのだが、ふと見ると厨房のあたりがなんだか明るい。莉奈は、寛太が残っているのだろうと考えた。それなら居住スペースに行く手間が省ける。莉奈は厨房につながっている、裏口のドアを開けた。


 厨房では、このみが一人でケーキを焼いていた。とても真剣な表情で、額には大粒の汗が浮き出ているのに拭うこともしない。ケーキを手で割り、断面を見つめたり、一口食べたりしている。


「ちょっと固いな。焼き時間が長すぎたのかも」

 一人でぶつぶつ言っている。

 莉奈はこのみのようすに圧倒された。後ずさり、その場から離れようとする。足がテーブルの端にぶつかった。

 このみが莉奈に気づく。

「羽川さん?」

 驚いた表情でこのみが尋ねる。

「どうしたの?」

「忘れ物しちゃって。このみさんこそ」

 このみはきょとんとしている。

「あっ……。ケーキ作りの復習がしたくて。店長に頼んでたまに居残りさせてもらってるの」

 莉奈は以前から気になっていたことをこのみに尋ねた。

「このみさんはさ、辛くないの? 店長の指導、厳しくない?」

 このみは少し思案した後で口を開いた。

「辛くないといったら嘘になるけど……。でもそれ以上に、私ケーキ作りが好きだから」

「そんなに?」

 このみがはにかむ。

「それに、立派なパティシエになるのが私の夢でもあるから」

 まっすぐな視線。

莉奈は焦(こ)がれるような感情を覚えた。どこに行けるわけでもないのに気が逸(はや)って、居ても立っても居られない。どうしてそんな感情を抱くのか、自分でも分からなかった。


「私、人と話すのが苦手で。緊張するとどもっちゃうし。不登校だった時期もあって。そんな私を励ましてくれたのが、おじいちゃんの持ってくるケーキだったの」

「おじいちゃん。修司さんのこと?」

 莉奈は寛太の右腕だった修司の、スマートな出で立ちを頭に思い浮かべた。

「そう。おじいちゃんは毎月『アリエの新作だぞー』ってケーキを持ってきてくれて。色あざやかなケーキは気持ちも華やぐし、心もなぐさめられた。毎月その日が来るのが楽しみになって。大げさだけど、生きる希望がわいたの」

 照れくさそうにこのみは笑う。

「こんなふうに人を勇気づけるケーキが作りたい、おじいちゃんのようなパティシエになりたい、そう思って高校をなんとか卒業して、製菓の専門学校にも入って。だから、頑張れるんだ」

 このみがとびきりの笑顔を見せる。

 莉奈の胸が、チクンと痛んだ。

「そっか、頑張ってね」

 莉奈はなんとか言葉を絞り出し、その場から離れた。


 それ以来、莉奈はこのみに目がいくようになった。このみは寛太の話をいつも熱心に聞く。調理中はメモ出来ないので、後でメモを一気にとっている。まなざしはいつだって真剣だ。週の何日かは、居残りをしているようにも見受けられた。

(なんだか気になる。このみさんが、自分にないものを持っているからかな。それが何なのかは、上手く言えないけど)


 ある日、莉奈はノートが落ちているのを見つけた。くたっとしていて、大分使い込まれている。パラパラとノートをめくった。中身を見ると、莉奈はそっとノートを元に戻した。



 八月の頭。このところ調子を崩していた寛太が、ぎっくり腰をやってしまった。腰に負担のかかる菓子作りは、二週間は禁止だという。

 ミーティングの時間に、寛太は松葉杖を両手につきながらやってきた。

「今月の新作のお披露目は中止だ」

「えっ!」

 莉奈は思わず声を上げた。スタッフたちの視線が莉奈に向けられる。

「残念だが仕方がない」

 寛太の声は気落ちしていた。

 新作のケーキはいつも寛太がひとりで考案していた。

 他のスタッフたちは気まずそうにしている。

「でも、新作のケーキをお客さんはとても楽しみにしていて……」

 莉奈は諦められない。

「そうだ、このみが作ればいい」

 思いつきをそのまま口にした。

 ざわめきが広がる。このみは困惑した表情をしている。

「わ、私じゃ無理だよ」

 消え入るような、か細い声。

「このみなら出来る! いつも居残りしてるじゃん。あれ、新作のケーキのことを考えてるんでしょ?」

「あ……。どうしてそれを」

 このみが目を大きく開いた。

「ノートが落ちていて、見ちゃったの。ねえ、このみを励ましてくれた毎月のケーキがなくなってもいいの?」

「それは……」

「私も手伝うから!」

 莉奈は、自分がなぜこんなにも躍起になっているのか分からなかった。ただただ夢中だった。

 このみは落としていた視線を上げた。意を決したようすで、口を開く。

「わかりました、やります。やらせてください」

 これまで聞いたことがないくらい、しっかりした声だった。

「このみさんにはまだ早いんじゃないか」

 寛太が情けない声を出す。不安そうだ。


取りなすように、工藤というスタッフが声を発した。古株の販売スタッフだ。

「毎月の新作ケーキは、たしかにお客さまも楽しみにしています。試しに作ってもらってもいいんじゃないですか。新作のケーキのお披露目は毎月二十五日。二十日にでも試作品を作ってもらって、それを皆で品評するというのは?」

 寛太が腕を組む。何か思案しているようだ。

 その時間が、莉奈にはとても長く感じられた。

「わかった。満足のいくケーキを作ることができたら、それを新作のケーキとして出そう」

 ほかのスタッフから、賛同の声が上がる。

 さっきまで居心地悪そうにしていたのがうそみたいだった。


「では二十日の日に、その日の出勤スタッフで品評会をしよう」

 寛太は莉奈とこのみに目をやった。

「厨房のものは何を使ってもらってもかまわない。ただ、こわれやすい器具もあるから気を付けてほしい」

 松葉杖をつきながら居住スペースへと戻っていく。

 その背を見送った後、莉奈はこのみと顔を見合わせた。

「頑張ろうね!」

「う、うん」

 このみがぎこちなく返す。

 戸惑いつつも、このみは新作のケーキ作りに胸を躍らせた。



 夕方六時半。閉店後の厨房で、二人は新作のケーキについて考えはじめた。今日は八月五日だ。あと半月で完成させなければならない。

 莉奈は厨房をぐるりと見まわした。キラキラした銀の広いテーブル。大きな鍋に、見たことのない形の調理器具。何でも作れそうな気がして、ワクワクした。

「このみが考えているケーキって、どんなケーキ?」

 莉奈が尋ねる。

「今考えてるのは、夏でも食べやすいチーズケーキ。暑いとき、生クリーム系は食べる気がおきなくて、ってお客さんが多いから……」

「もう一度、ノートを見せてもらってもいい?」

 莉奈の声は明るい。

 このみはロッカーに行ってノートを持ってきた。二人でノートを見る。

 細かい字でびっしりと書かれている。ところどころ汚れているのは、調理しながら書いたこともあるからだろう。ケーキのイラストもいくつかあった。

「フロマージュ・ブランとマスカルポーネの配合が難しくて」

 このみがポツリと言う。

「……フロマージュ・ブランって何?」

 莉奈が怪訝そうに訊く。

「チーズの種類。ヨーグルトとチーズの中間みたいな味で、チーズっぽさが少ないの」

「マスカルポーネもチーズだもんね」

 険しかった莉奈の表情が少し和らぐ。

「土台でも迷っていて。パイ生地や、タルトにシュクレを敷き詰めたものを考えているんだけど……」

 このみの発言を莉奈がさえぎる。

「ごめん、シュクレは?」

「卵と薄力粉とアーモンドプードルを混ぜたもので、クッキーっぽい生地。うちの店だと、フルーツタルトと杏(あんず)タルトに使われてるよ」

「そっか……」

 莉奈の表情が段々暗くなっていく。

「ごめん、試作品の会議はまた明日にしてもらっていい?」

 莉奈はそういってその場から去って行った。

 このみは返事をしたものの、不安げな表情を浮かべていた。


 次の日、莉奈は図書館と大きい書店をまわっていた。

(手伝うって言ったのに、知識がなさすぎだ。もっと勉強しないと)

 お菓子の作り方、チーズの本、それにケーキやカフェを紹介する雑誌。莉奈は図書館でこれらを借りられるだけ借り、書店でも本を買った。


 その日の夜、閉店後の厨房で莉奈はこのみに話しかけた。莉奈の声色は少し緊張していた。

「夏でも食べやすいチーズケーキにするなら、フロマージュ・ブランの分量を多くした方が良いと思う」

 このみは驚いた。何か言おうとする前に、莉奈が先に口を開いた。

「勉強したの。一夜漬けだけど」

 このみの顔がほころぶ。莉奈は頬を紅潮させていた。照れているのだろう。

「今度、このみの持ってる本を貸してくれない? パティシエが読むような本は、高くて買えなくて」

「もちろん! 今度持ってくるから一緒に見よう」

 このみが微笑む。

「ありがと」

 莉奈が小さくつぶやいた。


 このみの持って来た本には、本格的なケーキの写真やレシピが掲載されていた。とても手が込んでいて、どれも美味しそうだ。

「このケーキにのってるお花、使い方が豪勢だね。すごく華やか。お花がのってるケーキはうちの店にもあるけど、もっと小さいよね」

「ケーキに使う砂糖漬けのお花はエディブルフラワーっていうんだけど、わりあい高価だからね」

 莉奈が感心したようにうなずく。

「隣の見た目が果物のオレンジみたいなケーキ、どうやって作るんだろ」

「それは丸いケーキを作って、表面をオレンジ色のチョコレートでコーティングしてるんだと思う。コロッとしてて可愛いね」

 莉奈はこのみの横で、夢中になって本を読んだ。わからないことはその都度このみに聞く。このみは毎回丁寧に説明してくれた。

 ケーキの奥深さに、莉奈はすっかり魅了された。時間があっという間に過ぎていく。二人とも学校が夏休みなのが幸いだった。


 閉店後二人で残っているときに、このみが試作するケーキの話を切り出した。

「爽やかなチーズケーキにしたいの。それで、レモンを加えるのはどうかなって」

「いいね。チーズケーキにってこと?」

 莉奈はワクワクしてきた。

「ううん、チーズケーキはチーズケーキで味わって欲しいから、クリームに混ぜるの」

「美味しそう! じゃあこういうのはどう? レモンメレンゲパイってあるじゃない。あれをイメージして、土台の部分は焼きメレンゲにするの。サクッと仕上がるんじゃないかな」

 莉奈の声が弾む。

焼きメレンゲは卵白に砂糖を加え、オーブンで焼き上げたものだ。口溶けが軽くて、サクサクとした食感に仕上がる。

「すごくいい! 軽さも出したいと思ってたの」

 このみの声も明るい。

「とりあえず、いま出た案でケーキを作ってみない?」

 メモをまとめながら、このみが提案する。

莉奈とこのみはケーキを作り始めた。

 このみに教えられながら、莉奈もケーキ作りに参加した。厨房で作業をするのは初めてだ。

ケーキは完成させるまでの工程がとにかく多い。卵白を泡立てたり、バターを湯煎(ゆせん)で柔らかくしたり。体力もいるし、何より神経を使う。これをパティシエは毎日やっているのだ。莉奈は寛太やこのみに対して尊敬の念が湧いた。

 出来たケーキは、焼きメレンゲにフロマージュ・ブランの分量が多めのチーズケーキとレモンクリームがのったものだった。


二人で立ちながら試食する。

「ちょっと重いね」

 じっくり咀嚼した後で、莉奈が唸る。

「レモンクリームとチーズケーキの組み合わせのせいかも。チーズの配合はこれでいいと思う」

 ケーキを片手に二人は考え込んだ。

「今日は遅いから明日までに考えてこよう」

 莉奈が時計を見る。時計の針は夜十一時を指していた。二人は後片付けをし、店を出た。


 次の日、二人になるとこのみは思いついたことを莉奈に話した。

「レモンクリームをもっと軽くしたいの。ホイップクリームに、レモンの皮を混ぜるのはどう?」

「レモンの皮かぁ。苦手な人が多いんじゃないかな」

 莉奈が難色を示す。

「作ってみる価値はあると思うの」

 このみも負けてはいない。

 空気が少しピリついた。

 話し合ってもまとまらないので、試しにケーキを作ってみることにした。

(このケーキ作りがなかなか大変なんだよなあ)

 莉奈は心の中でボヤきつつも、黙々とケーキを作った。

二人で出来上がったケーキを食べる。

「昨日のよりも良いね。レモンの皮もそんなに気にならない」

 莉奈が言う。ケーキ作りの疲れが吹き飛ぶくらい美味しかった。

「でしょう?」

 このみは少し得意げだ。

「欲を言えば、もう少し軽やかさが欲しい」

 莉奈の発言に、このみは顎に手を当てて考え込む。

「軽やかさ。うーん、配合とかはもういじれないよ」

「配合とかじゃなくて、何かを加えるのはどう? クッキー生地とか、ナッツとか」

 莉奈が明るく言う。

「それ! ナッツをいれたクッキー生地を作る」

 このみが声を上げた。莉奈がびっくりするくらい大きな声だった。

「欲張りー」

 莉奈は笑った。

「ナッツは何がいいかなあ」

 このみが問いかける。

「わかんないなー。試しに作るしかないのかも」

 一からケーキを作るのは骨が折れる。二人はげんなりした顔をしたが、お互いの顔を見てぷっと笑った。

「ピーナツ、アーモンド、カシューナッツ、ヘーゼルナッツ、マカダミアナッツあたりでまた作ろう」

 このみが優しく笑いかける。この日はここで終いにした。


 品評会が目前に迫った八月十八日。いろいろなナッツでクッキー生地を作った。カシューナッツが一番合うという意見で二人の考えがまとまり、試作品のケーキは完成した。


 カシューナッツ入りのクッキー生地の上に、焼きメレンゲ、チーズケーキ、レモンの皮入りのホイップクリームが順にのっている。フィルムの巻かれた、白っぽい丸いケーキだ。


「すごい。美味しそう!」

 莉奈が感嘆する。

「ね! 二人で試食しよう」

 このみの発言に、莉奈がうなずいた。

 フォークとお皿を持ってくる。そのあいだに、このみは二人分のコーヒーを用意した。並んでイスに座る。


莉奈がケーキを頬張る。ふと視線を感じた。

このみが莉奈を見ていた。

「どうかした?」

「莉奈ちゃんて、優しいよね」

「な、何、突然」

 莉奈はむせそうになる。

「お茶のとき、いつも私に話を振ってくれるし。私の話や意見を聞いてくれるし」

「そ、そんなの普通だよ」

 莉奈はこのみの発言に驚いた。 

「そんなことないよ」

 このみが少し寂しそうに笑う。

「まっ、とにかくありがとね。莉奈ちゃんのおかげですごく良いものが作れた。何より楽しかった」

 このみが珍しく流暢に話す。緊張しないときや、夢中になっているときはスムーズに話せるらしい。

「私も楽しかった。終わっちゃうのが寂しいくらい」

 莉奈のこの半月は、本当に充実していた。

(こんなに充足感を覚えたのは、生まれて初めてかもしれない)

 莉奈のしみじみとした感慨を、このみが吹き飛ばした。

「まだ終わってないよ! 本番はあさって」

 このみは口を大きく開けて笑っている。

「品評会に出す試作品のケーキは、前の日の夜に作ろう」

 このみの言葉に莉奈がうなずき、二人は後片付けにとりかかった。



 八月二十日。品評会の日がやって来た。開店の一時間前で、アリエの厨房はいつもより静かだった。

莉奈とこのみが、緊張した面持ちで試作品のケーキを皆に出す。

銀色の大きなテーブルに、人数分のケーキが並べられた。

「レモンチーズケーキです。夏でも食べやすいチーズケーキをコンセプトに作りました」

 このみは声が震えないように、努めて大きな声を出していた。


品評するのは調理スタッフ一人と販売スタッフ三人と寛太の五人。販売スタッフのうちの一人は、休みだというのに興味があってわざわざ来たらしい。

 皆がケーキを見、食べ、感想を口々に言い合う。

「爽やかー。これならいくらでも食べれちゃいそう」

「夏にいいね」

「甘さもちょうどいいし、うん、いいかも」

 やった、と莉奈とこのみが目を合わせているときだった。

「でも、見た目が地味かな」

「それ思った。他のケーキと並んだときに、負けちゃうよね」

 寛太は腕を組んで黙っている。口角が下がっているようにも見えた。

莉奈は急いで考えを巡らせる。

(ケーキに何かをのせて、見た目を変えようか。でも果物だと味のバランスがくずれちゃうし……)

 そのときひらめいた。厨房の冷蔵庫に向かい、黄色いエディブルフラワーを取り出す。急いで戻り、花びらを小さくちぎる。それを試作品のケーキの右下のふちの部分に、素早く並べた。

「これならどうですか?」

 緊張した声が出た。

 皆の視線がケーキに注がれる。

「華やかになった」

「いいかも。上品な感じ」

 このみがちらりと莉奈を見る。小声で莉奈が話しかける。

「ごめん、ダメだった?」

「ううん、すごく良いと思う」

 このみは優しい表情をしていた。

 莉奈はホッとした。続けてささやく。

「これなら味はほとんど変わらないから。配合とかバランスとか、苦心したもんね」

 このみが小さく拳を握って莉奈に笑いかける。莉奈も倣って拳を握った。


「これを出そう」

 今まで一言も発していなかった寛太が、声を上げた。

 皆の注目が寛太に集まる。

「エディブルフラワーをのせた分、原価は少し上がるだろうが、これなら店に出してもいい」

 寛太の表情は柔らかくなっていた。


「羽川さん、このみさん、ありがとう。新作のケーキはここ『アリエ』の伝統だからな。途切れてしまうのが本当は残念だったんだ。羽川さん、よくやってくれた。このみさんも、腕を上げたな」

 寛太の声が優しくて、莉奈は泣きそうになった。隣のこのみは、すでに泣いていた。

「すごいじゃん、このみ」

 莉奈は肘でこのみを小突いた。

「私がじゃないよ! 私たちがだよっ!」

 このみは泣きながら大きな声で言い、莉奈に抱きつく。

「やったね」

莉奈もこのみの背中に手を回す。

 このみの身体が小刻みに震えていた。莉奈の胸も震えている。

「私たち、もう『アリエ』だね」

 莉奈が感極まって話す。

「とっくにそうだよ」

 このみが泣きながら笑う。

 寛太がそこで口を挟んだ。

「そうだとも。だが初代は俺と修司だ」

 寛太は笑って言うが、目の端には涙が浮かんでいた。後進たちの成長と、彼女らがつないでくれた店の「伝統」。こみあげてくるものが抑えきれないのだろう。

 寛太が抱き合う二人に拍手をし始めた。スタッフたちがそれに倣う。洋菓子店アリエに、優しい拍手が鳴り響いた。


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洋菓子店アリエ 遠野紗雪 @sayuki_7

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