空白の座
しわす五一
空白の座
――始まり:沈黙の降臨――
その巨大な「何か」が空に浮かんだ日、人類は三日でパニックを終え、四日目には祈り始めた。
それは漆黒の完全な球体だった。直径はおよそ一キロメートル。音もなく、光も反射せず、ただ都市の上空、雲よりも低い位置に重々しく鎮座している。
攻撃もしてこなければ、呼びかけに応答することもない。あまりに巨大なその存在は、都市の景色の一部として、徐々に人々の意識を侵食していった。
だが、恐怖に耐えられない人々は、その沈黙に自分たちの「意味」を見出した。
「あれは神だ。我々を見守っておられるのだ。我々の信仰こそが、この静かな監視者を動かす鍵なのだ」
そうして、「球体教」という宗教が生まれた。彼らの祈りの様式は、この世で最も巨大な鏡に向かって、自分たちの欲望を叫ぶことだった。
――観測ドームでの対話:都合の良い解釈――
「実に都合のいい解釈だと思わないか? 自己欺瞞の極みだ」
観測ドームの中で、宗教学者のアークは冷ややかな目でモニターを見つめた。
隣に立つのは、教団から派遣された司祭だ。司祭は絹のローブをまとい、その顔には確固たる信仰心が刻まれている。
司祭は不快そうに顔をしかめる。
「不敬であるぞ、アーク博士。あの方、すなわち『沈黙の主』は、我々の祈りに応じてあの恵みの雨を降らせてくださったではないか」
「先週の雨のことか? あれは単なる季節性の低気圧だ。湿った空気が上昇気流に乗った、物理現象だ。だが、君たちはそれを『信者への報酬』と定義した。雨が降らなければ、それは『試練』と呼ぶのだろう?」
アークは手元のタブレットを操作し、過去のデータを表示する。
「そして先月、教団に反対するデモ隊のリーダーが心臓発作で死んだ時、君たちはそれを『神の裁き』と呼んだ。ただの不摂生な中年の死を、自分たちに都合の悪い人間を排除するための『罰』として利用したんだ。君たちの都合が、そのまま神の意思になる。笑わせるな」
「偶然ではない! 主は我々の敵を滅ぼしてくださる。常に我々の味方なのだ!」司祭は興奮して、モニタールームのガラスを叩いた。
――沈黙の主の独り言:無関心という真実――
司祭が声を荒げた瞬間、モニターの数値が跳ね上がった。球体から、かつてない強度の重力波が放たれたのだ。ドーム全体が軋み、床のタイルが震える。司祭は歓喜の声を上げてひれ伏した。
「おお! 見よ! 私の怒りに呼応してくださった! これこそが神の威光!主はここにいらっしゃる!」
だが、アークだけは違っていた。彼はヘッドセットから流れてくる「音」を聞いていた。それは言語ではなかったが、脳に直接響く概念の羅列だった。
それは、神の言葉などではなかった。
『……ああ、ノイズが酷いな。この低次元のエネルギーは不快だ』
アークの脳内に響いたのは、圧倒的な「無関心」だった。それは、怒りや憎しみですらない、純粋な静寂だった。
『なぜ、お前たちは私の生理現象に一喜一憂しているのだ? まるで、私が大地を揺らしたのを、蟻が神の怒りと勘違いしているようだ。私の重力波の放出が、お前たちの感情と無関係だと、なぜ理解できない?』
球体――その高次元の存在は、アークの脳内の意識を通して語りかけてきた。いや、語りかけてすらない。ただ、あまりに膨大な思考が、低次元の意識に漏れ出しているだけだ。
(あなたは、神ではないのですか?)アークは思考だけで問いかける。
その存在は、嘲笑のような波動を返した。
『カミ? なんだそれは。私の排出するエネルギーを「恵み」と呼び、私の身じろぎを「罰」と呼ぶ。お前たちは、私の行動を勝手に切り取り、継ぎ接ぎして、自分たちに都合の良い空っぽの偶像を作り上げているだけではないか。お前たちの言う神とは、お前たち自身の欲望を投影した鏡にすぎない』
アークは戦慄した。完全に論理的だった。まるでどこかの特殊清掃人が「幽霊の正体は粘菌だ」と断じるのと同じ冷徹さだった。
しかし、球体が言うように教徒たちは、この巨大な存在を敬っているようでいて、実は「自分たちの欲望を肯定してくれる鏡」として崇めているに過ぎない。
――裁きと救済の否定:無関係な存在――
『もし私が、お前たちの言う「全知全能の神」であるならば……』
存在の思考が、冷たく冴え渡る。
『真っ先にこのふざけた茶番(球体を崇める宗教活動:アークの解釈)を消滅させるだろう。自分勝手な解釈で他者を断罪し、救済を独占しようとするその傲慢さ。それに、その思考の押し付け。それこそが、最も「神」という概念を冒涜しているからだ。お前たちの勝手な道徳律を、なぜ私が担わなければならない?』
その瞬間、球体が再び輝きを増した。まるで太陽のようだった。司祭は「奇跡だ! 主が我らを祝福している!」と叫び、狂喜乱舞している。
しかし、アークには分かっていた。この存在は、人類を救うつもりも、裁くつもりもないことを。光はただ、エネルギーの調整にすぎない。
『だが、私は神ではない。ここに在るだけだ。ゆえに、お前たちとは無関係に何もしない。お前たちの苦痛も歓喜も、私にとっては風の音と同じだ』
(最後に、なぜ私に語り掛けてくれたのですか? 私だけ、なぜこの「独り言」を聞き取れたのですか?)
『ここら一体の人間にも同じように語り掛けたが、まともに理解し返答してきたのがお前だけだからだ。他の者は、私が何を言っても「主の御心」と解釈し、意味を上書きしようとする。お前は、唯一、私の思考をそのまま観測しようとしたからだ』
――最後のログ:空白の座――
光が収まると、球体は何事もなかったかのように沈黙した。司祭は疲労困憊しながらも、「我々の祈りが通じた!」と信者たちに演説を始めた。
アークはため息をつき、ヘッドセットを外す。
彼(それ)は、人間の基準では何もしない。助けもしないし、罰しもしない。蟻の巣を眺める人間が、蟻の宗教論争に介入しないのと同じだ。
ただ、一つだけ変わったことがあった。
アークの端末に、翻訳された「彼」の最後の思考ログが、消去不能なテキストとして残されていた。
『勝手に敬い、勝手に期待し、勝手に絶望しろ。私はただ、ここに在るだけだ。―そして、お前たちが私を神と呼ぶ限り、私は永遠にお前たちの期待という名の空白の座に座っているだろう』
その文字を見つめながら、アークは思った。
これこそが、真実の神に最も近い姿なのかもしれない、と。
人間にとって都合の良い「味方」など、この宇宙のどこにもいないのだという冷酷な事実こそが、この「空白の座」に示されているのだ。救済は、常に外側ではなく、内側に見つけなければならないのだろう、とアークは思うのだった。
終
空白の座 しわす五一 @shikousakugo49
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