第2話
その声に、昼下がりのけだるい教室の空気は穏やかさに塗り替えられた。
口元につけたソースを急いで舐めとりながら狼の大きな耳としっぽを揺らすその男の子は、急いで空席を探すうちにふと私たちを見つけた。明らかになにか責任を感じている顔でまっすぐにこちらに来る。
「ルルフィ、隣いい?」
「ええ」
そういうわけで、私たちは教卓から一番右奥の席から、エイバル、私、セドリックの順に並んだ。
セドリックは、『狼人間』の男の子だ。とはいえ彼の気性は狼というより子犬のようで、顔が広く、誰とでも——それこそ、学年一嫌われ者のエイバルとも——仲の良い、おおらかな男の子である。
「俺の六年間の学校生活で」
セドリックは席につくなり言った。
「一回も見たことない組み合わせなんだけど、なにかトラブルじゃないよね?」
私は思わず声を上げて笑って、先生に注意されてしまった。しかし席に並んでいるのが自らの授業で最高成績の生徒と次席の生徒、それからいつも世話をかけている生徒会長だと気づくと、彼女はやや愛おしげな顔をしてわざとらしく目線を外してくれる。
「トラブルってわけじゃないのよ。私が彼に教わろうと思ったんだけど、ちょっと突然すぎたみたい」
私が小声で答えると、セドリックは私の頭越しに〝お断り〟状態のエイバルを見て、いかにも兄弟の多い長男らしい表情を浮かべた。
「エイバル」
座っているのが隣なら肩をゆすっていそうな声音で言い聞かせるように言う。それが気に食わなかったらしくって、エイバルはこちらを見もせずに食い気味に舌打ちをした。
「お前に関係ないだろうが」
「関係ないから、第三者の視点から言わせてもらうよ。得意科目を教えるなんて簡単だろ? というか、俺にはよく教えてくれるじゃないか。同じことをすればいいんだ」
「そうよ、私、教えてもらうのに文句なんて言わないわよ」
「だいたいお前、こないだ教科書の範囲は全部わかってるとか言ってたくせに、そのページをいつまで熟読してるんだよ、頑固者め」
ぱしこーんと素早くエイバルがセドリックの鼻面をノートでひっぱたく。私は一拍遅れてからびっくりして身を縮め、セドリックはキューンと耳を寝かせて鳴き、さすがに一喝せねばならんという生物教師からの一問にエイバルが怒った声で完璧な答えを返す。先生は困っていた。
ややざわつく教室を先生がなんとか落ち着かせて、授業を再開する。私たちはしばらく首えを竦めて大人しくしていた。
「ところでさ」
セドリックはまだ少し赤い鼻を擦った。
「ルルフィって、生物苦手だったの?」
いいアシストをしてくれた。私はノートから顔を上げ、彼にニヤニヤと笑いかける。
「方便でもあるけれど、一応、あまり得意じゃないのよ」
「方便?」
「セドリックは、エルフって知ってる?」
「エルフってなに?」
私はその素朴な疑問を受けて、ニヤニヤ笑ったままエイバルのほうを振り返った。
「エルフってなに?」
全てを察したセドリックがくすくす笑うのが背後から聞こえる。エイバルは不機嫌そうに私たちを見て、ため息をつきながらもやっと姿勢をこちらに向けた。
「エルフは動物に擬態する植物だ。ほかの生物に対しての知恵を集めることで生存してきたと考えられているから、『森の賢者』とも呼ばれる」
意外とまともな講義が始まるのに拍子抜けしつつ、私は三人で向き合いやすいように少し椅子を後ろに引いた。
「だけど『エルフ』についてはいろいろな逸話は残ってて……たとえば、矢で射った瞬間見たこともない木に変身した鳥の昔話が残っている地域や、美しい姿で人間をだまして家庭を持ち、生まれた子どもをさらって消える邪悪な存在とされている地域もある。
一番メジャーなのは東のほうの神話の、何世紀にもわたって君臨した王が英雄に討伐されたとき、大きな木になったって話。これも『エルフ』の活動だろうって言われてる」
「ん? んん……」
流暢な語りにごまかされて、ひどい風評義骸を受けた気がする。私は一旦話を聞き続けた。
「ふぅん」
セドリックが首を傾げる。
「詳しいんだね。そういうおとぎ話って、お前は嫌いなんだと思ってたなぁ」
「エルフはおとぎ話の存在なんかじゃないさ。僕は小さいころに、鹿に擬態していたエルフを食ったことがある。祖父が仕留めた鹿の中で、一体だけ明らかに内部構造が違う個体がいたんだ。祖父はそれを『エルフ』だと言った。動物を狩ると時々遭遇するそれを猟師の間ではそう呼ぶんだと」
エイバルは不意に目を輝かせて、ひときわ声音を明るくしながら話し始めた。
「肺の代わりに全く別の臓器を持っている鹿だぜ? きっとあれは擬態をしていない植物としての特徴を残した部分だったんだ。それに、あの鹿は肉の味もいつもの鹿肉と違った……あれは現代で確認されたことのない、生きたエルフの個体だった」
とはいえ『エルフ』の存在はまだ曖昧で、この話はどちらかと言えば民俗学的だ。私はそう思いながら聞いていた。だけどエイバルにとって、この生きた経験こそがエルフの存在を裏付ける最大の証拠となっているのだろう。わくわくした表情で話す彼はさながら人生をかけるテーマを見つけた研究者だ。
そんな人にエルフ——美しくて邪悪で知恵を集める植物らしい——と呼ばれて、私はどういう気持ちになればいいというのだろう。
私はその顔にパンチを叩きこむかしばらく考え込んだけれど、優しいので勘弁してあげることにした。
「それでね」
私が言うと、エイバルはきょとんとした顔で視線を寄越す。
「そんなに詳しいあなたが言うなら、私って実はエルフなのかも?」
切れ長の目がぎょっとしたように丸くなって、突然情けなく泳ぎ出す。いい気味だと思うと同時に、私は意外と怒っていたのだと少し驚いていた。そう気づいてしまうと、思わず自分の口調に怒気がこもるのを感じる。
「本を読むのは好きだし、みんなよくかわいいって言ってくれるわ。それに、捨て子だから『あなたはエルフなのよ』って教えてくれる親もいなかったもの」
「ルルフィ?」
セドリックは困惑しつつも、だんだん状況を察し始めているようだった。
「エイバル、ちょっと、なにしたんだよ?」
「そのエルフって、ちゃんとなにかの本に載ってるの? 学校の図書館にはある? あなたの妄想じゃないって、今日、放課後、しっかり説明してくれる?」
そのときは横柄なエイバルがやけに小さく見えて満足していたけれど、あとから聞くところには、私は立ち上がって彼に覆い被さるようになっていたらしい。
「あいにく自分のことには詳しくないから、よぉく教わりたいわ! ねぇ? 私って勤勉なの」
「……僕……」
しっぽを丸めたまま威嚇する獣のように細められていた目が、逃げるようによそを向く。
「ねぇ、ちょっと?」
「……放課後、は、占術学の再テストが……」
それを聞いて、私は力いっぱい彼を突き飛ばして怒りを表現した。ややぐらつく彼の鼻先に指を突きつけ、「そのあとねっ」と言ってやる。
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私のエイバル 日ノ竹京 @kirei-kirei
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