2話 裳の裾濡れて鮎か釣るらむ
坂を下りながら鳥羽子は途中で出会った老人に挨拶をした。その老人は知った顔だった。いつも朝の二番目にやって来る患者の一人で名前を浅沼といった。とても怖い顔付きをしているがそれは見た目だけで、話してみると色んな話を聞かせてくれる好々爺だった。
「浅沼のお爺ちゃん、腰は大丈夫?」
「先生の薬のお陰でな。今から学校か?」
「うん」
「そうか、気を付けて行って来いよ」
「ありがとう。次はまたお爺ちゃんの昔話を聞かせてね」
鳥羽子は笑顔で手を振って坂を下りていった。
坂の先は駅前に繋がっている。駅前は円形になっていてその周りにコンビニや書店が連なっている。その中に小さな自営業のパン屋がある。鳥羽子はそこで朝食後のデザートになるパンを買い、そしてその家の一人娘である高峰 保奈美と一緒に学校に向かうのだ。
鳥羽子は店の自動ドアを潜った。このドアは鳥羽子が小学生の頃は手動だったのだが営業利益が右肩上がりになった記念にと店の店主、つまり保奈美の父親が奮発して購入したものらしい。小さなパン屋ながら既に店の中は人で賑わっていた。鳥羽子はお目当ての人参のシフォンケーキを素手で取り、ポケットから小銭を出してレジにいた保奈美の母親に差し出した。
「あら鳥羽子ちゃん、おはよう」
パンの様にふっくらとした女性、ではなく鳥羽子が羨ましがる位のスマートな体をした女性が鳥羽子の差し出した小銭を受け取った。
「おはようございます。保奈美、起きてます?」
「ごめん、あの子さっき起きたばかりなのよ…」
またかと顔に文字を書いた様に保奈美の母親は眉を曲げると、鳥羽子はいつもと同じ様に苦笑いをした。するとレジの隣にある階段からばたばたと音を出しながら保奈美が降りてきた。
「ごめーん、トーコ!また寝坊しちった!」
「あんたいつも待ってて貰ってる鳥羽子ちゃんの事を考えなさい!」
レジを待っているお客をそっちのけで保奈美に怒鳴った。
「はいはーい!トーコ、行こっ!」
鳥羽子は保奈美に手を取られそのまま流される様に店の外に出ていった。後ろでは牙を剥き出しにしながら目くじらを立てる保奈美の母親があったが、保奈美は一目散に走り出していった。それに続いて鳥羽子もケーキをかじりながら走り出し、店が見えなくなるまで足を動かした。
「はー、何でうちのオカンってあんなん何だろ?あ、でもご免ねトーコ。また待たせちゃって…」
櫛で頭を梳かしながら謝る保奈美に全く悪気がない様だったが、不思議と鳥羽子はそういう保奈美の自由奔放な所が好きだった。
「良いよ、そんなに待ってないし、それに保奈美の寝坊癖がそう簡単に治るなんて思ってないから」
「なんかさらっと嫌味を言わなかった?」
「ちょっとね」
鳥羽子は笑いながらいった。
「ホント良い性格してるわ」
「保奈美もね」
そういうと二人は笑い合った。
保奈美と鳥羽子は小学生以来の親友で、別段特別な出来事もなしにいつの間にか仲を深めていた。不思議と二人の雰囲気は合い、喧嘩をすることもあったが翌日には仲直りをしてしまう程だった。女性ならではの嫌味ったらしい言い合いも二人にとってはコミュニケーションの一つでもあった。
「ってかトーコまた食ってんの?朝ごはん食べてきたんでしょ?」
ぱくぱくとケーキを食べる鳥羽子を見て保奈美は絶句した。
「うん、これは食後のデザート。これ食べないと何だか元気出ないんだ」
「それだけ食っても何で足やお腹に出ないんだろ?」
そういいながら保奈美は鳥羽子の太股や脇腹を突いた。保奈美は格好や言動が少し男勝りな部分があって、一括りにすれば不良に近かったがそれを鳥羽子がいつもぎりぎりの所で止めているのだった。
それを表わすかの様に保奈美は鞄からメンソールの煙草を取り出して口に咥えると、鳥羽子はすかさず保奈美の口から煙草を奪い去った。
「ちょっと…」
「子供、産めなくなるよ」
「ちぇー」
保奈美は渋々煙草を鞄の中に入れ、鳥羽子にねだる様に抱きついた。鳥羽子はそういう保奈美の可愛らしい所も気に入っていた。頭をぽんぽんと撫でる。すると機嫌の良さそうに保奈美は笑った。
二人は学校に着いて教室に向かい、それぞれの席に座った。鳥羽子と保奈美の席は少し離れていた。
鳥羽子は席に座ると鞄を机の横に引っかけ、一限目の古典の教科書を出した。鳥羽子は古典がどうも苦手で日本語だというのに同じ言語だとは到底思えなかった。他の成績は平均以上だったが古典の成績は思わしくなかった。今もこうしてページを捲っていると目がちかちかしてしまう。
「よっ!九浄」
鳥羽子は急に背中を引っぱたかれた。痛がりながら顔を上げると目の前には背の低い男子生徒がしてやったりとした顔をして立っていた。
「何してんの?」
「宗君…」
その男子生徒は名前を宗 和幸といった。身長は高校生の割りに平均以下で童顔なこともあって小学生や中学生の様だった。学校では悪戯好きで有名で、背が低くても女子の間ではそれなりに人気があった。実は実家が資産家というのも女子を手ぐすね引く要因なのかもしれないと鳥羽子は思っていた。
「何だよもう少し反応してくれよ。脅かした意味ないじゃん」
「そうしてあげたいけど明後日の古典のテストが間に合わなくて…」
「ああ、そっか九浄、古典が苦手だったもんな。俺が教えてやろうか?」
「それは嬉しいけど自分は良いの?」
「へへっ、俺は古典は得意だもんな。お茶の子さいさいだぜ!」
そういえば和幸の名前はいつも上位にいたのを鳥羽子は思い出した。
「じゃあお願いしようかな」
「そうこうなくっちゃ!じゃあ今日の放課後にでも一緒に…」
そういいかけた途端、後ろから保奈美が現れて和幸の脇腹を殴った。噴き出しながら和幸が倒れる。
「トーコはあたしんの。金持ちのボンボンにゃ勿体ないわ」
保奈美は鳥羽子にくっ付きながらいった。
「いや、俺は別にそんなつもりじゃ…ただ親切心で…」
「くどいね、そんな引っ掛けじゃ猿だって落とせやしないよ。女を落としたいんなら先ずは身なりを何とかしな」
「一応、専属のスタイリストがいるんですが…」
「うっそー…」
金持ちとは何をしているのかわからないと思う鳥羽子と保奈美であった。
「兎に角、トーコとあんたを二人きりになんてさせないからね」
「じゃあ高峰も一緒にくれば良いじゃん。三人でファミレスか図書館にでも行こうよ」
「あんた本当にトーコに興味ないの?」
「いや、別にそういう訳じゃ…ただやっぱり誰かが困ってるなら助けてやりたい。それじゃ駄目かよ」
「ほう、言うね…」
鳥羽子はそういう生真面目な所も人気の秘訣なのかなと思った。そういう和幸の人間性は鳥羽子は嫌いではなかった。
「まあ、信じてやっても良いけどどうせだったらファミレスとかちゃっちい店じゃなくて、もっと金使った所にしてよ。どうせあんたが払うんだから」
「無茶言うなよ、俺だってそんなに小遣い貰ってないんだ。良くて柿瓦にあるカフェ位だよ」
柿瓦というのはここ鴉美町の隣の地域のことで、鬼坂町と反対の方向にあった。鬼坂町とは古い家々が続いた住宅街で、柿瓦市も同じ様に神社や江戸時代からの文化物が連なった歴史を感じられる地域だった。
「柿瓦!?冗談言わないでよ」
急にその名前を聞いた保奈美が声を上げた。
「どうしたの?」鳥羽子は不思議そうな顔をした。
「そうだよ、何でそんなに慌ててんのさ」
「知らないの?今あそこじゃでっかい野良犬が出るってもっぱらの噂よ」
「へー」
「そうなんだ」
「…あんたらもう少しリアクション出来ないの?」
「だって柿瓦なんて行かないし」
「俺も住んでるのは別方向の夜香街だしなあ」
「何か一人で反応するのが悲しくなってきた」
「じゃあ聞いてあげるけど、そんなに大きい犬なの?」
「うちのママの聞いた話じゃその辺の犬じゃ目にならない位でっかいんだって。噂じゃ狼か山犬なんじゃないかって」
「確かに柿瓦は山に囲まれてるけど、でも山犬って…それに日本の狼って絶滅したんじゃなかった?」
「知らないわよそんなこと。兎に角、今は柿瓦になんて行かないわ。あそこにあるカフェは魅力的だけど、命を懸けてまで行く程のもんじゃないしね。つーことでどっか他の所にして」
「じゃあ夜香街は?」
「あたしらみたいなパンピーじゃ無理。顔真っ赤にして店から出て来るのが関の山だわ。もっと貧乏臭くてちょっと手を伸ばさないと届かない距離の奴にして。じゃないとトーコ貸してあげない」
「んな無理難題を…」
そうして三人は取り留めのない話をして盛り上がった。
放課後、結局話していたこ洒落たお店の件はまた日を改めることになった。鳥羽子は一人通学路をぽつぽつと歩いていた。保奈美は部活の顧問に呼ばれて時間がかかるからと鳥羽子に先に帰る様に促し、鳥羽子もそれに従って先に帰ることにした。
部活や目立った委員会に入っていない鳥羽子は帰りは殆ど一人で帰っていた。特に寄り道もせずまっすぐ帰ることに鳥羽子は少しだけ物足りなさを感じていたが、それも自分の性格なのだといい聞かせた。
駅の交差点に差し掛かった時、目の前の横断歩道の信号が点滅し始めた。鳥羽子は急いでもいないのに何故か信号に急かされる癖があった。ランプを確認すると慌てて走り出す。
「…え?」
丁度、横断歩道を半分まで渡った時だった。鳥羽子が何気なく駅の方を向いた時、白い、光の帯が視界を過ぎった。それが何だったのか鳥羽子にはわからなかったが、不思議とその光景には見覚えがあった。
矢庭に車のクラクションが鳴ると鳥羽子は我に返った。どうやら一瞬の間に随分と時間が経っていた様で横断歩道の傍には車が何台も止まって鳥羽子を訝しげに見詰めていた。鳥羽子はしまったと顔を真っ赤にさせてそそくさと横断歩道を渡り、その場から逃げ出していった。余りの恥ずかしさに鳥羽子は白い帯のことなど忘れてしまい、どうして道の真ん中で止まったのだろうと後悔した。
その夜、鳥羽子は食事を済ませた後、苦手な古典の復習をしていた。分厚い教科書を片手に参考書と照らし合わせる。実際にはそれほど厚みのない教科書でも鳥羽子にとっては百科事典の様な厚みに思えた。
裳の裾濡れて鮎か釣るらむ
万葉集の一編だった。鳥羽子は古典の辞書と参考書と睨み合い、らむのの意味を探した。意味は動作の行われる理由や原因、更には推測や疑問とまるで日本語なのに英語を翻訳している様な気に駆られて鳥羽子は頭を掻いた。
「駄目だ、とてもじゃないけど昔の人に教わらない限り赤点は必須ね…やっぱり宗君に教わるしかないかな…」
それから鳥羽子は頑張って二時間挑み、頭の回転が限界になると布団に倒れ込んだ。
「これから先、どうするんだろう…」
鳥羽子は将来の夢など決まっていなかった。進路相談も近付いている。希望校も決めなければならない。残り僅かな高校生活の中でこれから先の未来を決めろなど手酷い仕打ちもあったものだと鳥羽子は思った。
医者。棒気の診察と治療を生業とする人のこと。医者となる為には国家資格である医療免許が必要になる。
その二文字が鳥羽子の頭を過ぎった。決まった職業に就かないのならこのまま父親の家業を継ぐのだろう。家は好きだ。医療もさして嫌いという訳でもない。偶に仕事の手伝いをして、患者からお礼を言われるととても嬉しいと感じることが出来る。しかし鳥羽子が医療免許に手を差し伸べるには劇的な刺激が必要だった。鳥羽子は小さい頃から物事にちゃんとした理由がないと何も出来ないのだ。
ふと鳥羽子は仕事をしている父親の姿を思い返した。ぱりっとした白衣を纏い、丁寧にアイロンがけされた緑の手術着を着た凛々しい姿。誰もが町の名医だと口を揃えて褒め称える。しかしその実体は実に間抜けな医者を擁護する患者たちの思いやりだった。腕は良いのだがどこかしらでぼろが出る、名医とは少し違った珍医とでも呼べば良いのだろうか。平らな床で転んだり医療器具をなくしたり、酷い時には病気の名前を忘れることだってあるのだ。そんな醜態を小さい頃から見てきた鳥羽子はとても父親の様な珍医になりたいとは思わなかった。
我が父ながら情けない。
そう言うと決まって患者たちは視線を集めてくすくすと笑い出すのだ。だが鳥羽子にとっては笑い事ではなかった。そんな所が愛嬌があって良いなんて言われても鳥羽子はむっとしてしまう。
鳥羽子はもう少し気迫みたいのがあれば良いのになと愚痴を零しながら目を閉じた。ゆっくりと意識が落ちる寸前、鳥羽子は昼間見た白い帯のことを薄っすらと思い出した。何故か鳥羽子はその帯の先に、真っ白な狼の背中を見た。
深い眠りの中、鳥羽子は夢を見る。それは夢と呼ぶには余りにも血生臭い、そして馬鹿に現実味のある光景だった。
日本刀、なのだろう。すらっと伸びた鋭い刃先から真っ赤な雫が地面に落ちている。視点を上げると刃の真ん中には桃色の塊がこびり付いていた。更にその上、刀の持ち主を見て鳥羽子は夢の中で叫び声を上げた。音のない悲鳴を浴びたのは鳥羽子の父親だった。いや、父親の面影があった十六歳ほどの青年だった。眼光鋭く、一点の迷いもない。血に飢えた獣の様だった。その青年の周りには深い切り傷を負った男が何人も倒れている。屈強な体付きをした男たちに囲まれているその青年の背丈はとても低かった。華奢と言っても良い。しかしそのひ弱そうな青年は次々と襲い掛かってくる男たちを千切っては投げ、千切っては投げていった。やけに鮮明な血の演出が鳥羽子の目を刺激する。鳥羽子を驚かせたのは出血や死の瞬間ではなく、その青年の暴れっぷりだった。時代劇で見た様な殺陣など他所に蹴飛ばしたかの様にその青年の戦い方は荒かった。滅茶苦茶に刀を振るって大の大人を吹き飛ばしたり、時に相手の刀を奪って刺し殺したりもした。その時の形相はとても忘れられるものではなかった。血飛沫の合間に垣間見たその青年の顔は人のそれではなかったのだ。何より父親の顔立ちに近い分、人の命を奪うその妖しい瞳を鳥羽子は見ていられなかった。からからと喉が渇く。夢であることを忘れてしまう様な喉の痛みがはっきりと鳥羽子の無意識を研ぎ澄ました。
揺れ動いた青年の顔が鳥羽子に向いた。男たちに向けられた殺気を浴びると鳥羽子は一瞬の内に夢から叩き起こされた。体が動かない。金縛りにでもあったかの様に鳥羽子は天井を見詰めた。そうして窓から柔らかな風が鳥羽子の頬を撫でるとやっとベッドから起き上がった。背中や脇がじっとりと汗で濡れている。鳥羽子は心臓の音が高鳴っているのを感じると深く息を吐いた。
「…勉強のし過ぎかしら」
鳥羽子は未だにさっきの夢が信じられなかった。父親そっくりの青年が人を切り殺す光景などとても受け止められなかったのだ。手でぎゅっと胸を締め付けていると静かに目覚まし時計が鳥羽子の鼻を突いた。
「…まさかね」
鳥羽子はただの夢だと自分に言い聞かせ、ベッドから降りた。
台所に向かうといつもと同じ様に鳥羽子の母親がフライパンで卵を焼いていた。香ばしい匂いを頼りに鳥羽子は椅子に座って既に並べられていた味噌汁に手を付けた。汁を啜ると塩の効いた味わいがぐっと舌を刺激する。
「あら、朝にお風呂なんて珍しいわね」
横顔を向けながら鳥羽子の母親はいった。
「うん、ちょっと汗かいちゃって」
「お父さんに頼んでエアコン買って貰う?今年の夏は猛暑だって言うから」
「ううん、あたしエアコン嫌いだから。それに窓を閉めたら目覚まし時計も嗅げないし」
そう言うとあははと鳥羽子の母親は笑った。
鳥羽子が汁の中にあったわかめを飲み込んでいるとばたばたと白衣を叩きながら鳥羽子の父親がやってきた。大丈夫、あれは夢だからと鳥羽子が目を向けるとそこには白衣を真っ赤に染めた父親の姿があった。
「ひっ!」
思わず鳥羽子は口にしていた碗を手元から落っことした。と同時に太股に汁がかかり、熱いと叫んでしまう。滅多にない出来事に鳥羽子の父親は大丈夫かと慌てて鳥羽子に近付いた。心配そうに顔を覗かせる父親を見て鳥羽子はしどろもどろになっていたが、今の姿が幻覚だとわかるとほっとして手ぬぐいで零れた汁を拭いた。
「火傷は?」
「多分、大丈夫。滅多なことじゃ怪我なんてしないし」
不思議なことに鳥羽子の体は普通の人よりも頑丈に出来ていた。それに傷の治りもとても早く、小さな切り傷なら半日でなくなってしまう程だった。
「…恐い夢でも見た?」
いつもと違う姿を見て父親は冗談交じりに言うと鳥羽子はぎくりとした。まさか父親そっくりの人間が侍相手に孤軍奮闘したなど口が裂けても言えない。ふと鳥羽子は自分で思ったその言葉に引っかかった。
「どうしたの?」
「…ううん、何でもないわ」
笑顔を繕って言った。
鳥羽子が駅に着いた時には既に保奈美が店の前に立っていた。信号で捕まったせいもあって鳥羽子は大急ぎでパン屋に向かった。
「…保奈美、ご免」
「…珍しいこともあんのね、トーコが遅れるなんて」
目を丸くしながら保奈美は紙袋を鳥羽子に渡した。中には鳥羽子のお気に入りが入っていた。
ケーキを齧りながら鳥羽子は保奈美に夢での出来事を話した。
「あんたのお父さんが日本刀を持って人殺しね…」
目を青空に向けて一頻り考え込んだ。
「ごめん、ちょっと想像できないわ…」
ぼりぼりと頭を掻きながら保奈美は笑い出した。
「だってあの人、虫も殺せないんでしょ?」
「うん、いつも頑張って手で捕まえて外に逃がしてる」
「こう言っちゃ失礼だけど…まんま優男だからね、トーコの親父」
幼馴染である保奈美は鳥羽子と同じくらい鳥羽子の父親を知っていた。どじを繰り返したり、壁にぶつかっている姿など慣れ親しんだもので、怒った顔など見たこともないのだ。加えて嫁に尻を敷かれている所も知っている。
「でも日本刀を振り回してたって、まるで時代劇ね。うちのばあちゃんは好きだけど、あたしゃ興味ないわ」
その言葉で鳥羽子は完全に思い出した。夢で見た光景は宛ら戦国時代の様だったのだ。整備されていない地面や登場人物の格好が鮮明に蘇る。
「そうだ、お父…あの人、着物を着ていた。それも女物だったわ」
白地の上に樺色と若竹色の衣を着て、女物の刺繍が描かれた檳榔子染を羽織っていた。背丈は低めで一見すると女子の様だった。髪の毛は周りにいた男たちとは打って変って髷ではなく、くしゃっとした髪の毛で首元まであった。
「変わってるわね、その人」
「でも…何だかとても悲しそうだった」
最後に目があった瞬間、身の毛の弥立つ様な睨みの中に鳥羽子は確かに見たのだ。人を殺すことに罪悪感を抱いたその青年の心境を。何故かそのことが鳥羽子には痛いほどわかった。
教室に着いてからも鳥羽子は何処か冴えなかった。夢だというのにあの光景が現実のものの様な気がしてならないのだ。何度も溜め息を吐いていた鳥羽子の姿を見て、声を向けたのは和幸だった。
「よっ、何か元気ないじゃん」
「そんなことはないけど、ちょっとね…」
作り笑いを感じ取ると和幸は心配そうな顔をした。
「何かあったのか?俺で良いなら相談に乗るけど」
「特別何かあった訳じゃないけど、変な夢を見たのよ」
「夢?」
そうして鳥羽子は夢の内容を細かく話した。自分でも口に出して纏めて置きたかったのだ。
「凄いな、まるで時代劇みたいだ」
保奈美の時と違って和幸は興奮していた。男の子は歴史ものや侍が好きと聞いたことがあったのを鳥羽子は思い出した。
「あ、でもごめん…その人が九浄のお父さんに似てたら気味悪いよな」
「ううん、大丈夫」
気が回る人だなと鳥羽子は素直に感心した。
「昔の日本ってどんなんだろう。行ってみたい気はするけど、やっぱり恐いよな。戦とか日常茶飯事だったんだろうし、たくさん人が死んだ時代なんだよな…」
ほんの少し遠い目をした和幸に鳥羽子はおやと思った。
「宗君は侍とか好きじゃないの?」
「そりゃ好きさ、格好良いからね。でも侍って結局、人を殺すことを生業にしなきゃいけないだろ?そんなの、俺には無理かな」
「てっきりそういうことをしたいから男の子は侍になりたいのだと思ってたけど、違うのかな?」
「どうだろう。でも何か惹かれるものはあると思うよ。大和魂とか武士の一分っていう言葉は今でも使われる位だし。人殺しをしたいっていうのは現代じゃ現実味がないから平気で口にするんじゃないかな。実際にそんなことを目の前にしたら何も出来ないよ」
和幸は苦笑いしながら言った。
「罪悪感があるから?」
「っていうより恐くて人なんか殺せないよ。海外じゃどうかは知らないけど、この国の人間は少なくとももう戦争なんて出来ないと思う。改めて思うけど、昔の人って本当に追い詰められてたんだなあ。戦国時代って突き詰めれば皆に余裕がなかったから起きた様なものだと思うし」
成程と鳥羽子は頷いた。
「宗君って歴史が好きなのね」
「っていうより家の仕来りなんだよ、戦国時代を良く知るってのは。家計に余裕があるのはご先祖様のお陰だって。だから小さい頃から歴史に関してはしつこいくらい勉強させられてたんだ」
「お金持ちも大変なのね」
悪戯っぽく言うと和幸はまあねとわざとらしく肩を竦めた。
和幸が離れると鳥羽子は鞄の中から日本史の教科書を出して戦国時代のページを開いた。
戦国時代。従来の守護領国制に代わる新しい大名領国制が形成された時代であり、荘園制の崩壊や郷村制への移行が促進された時代。中でも室町幕府の衰退や下克上など暗く、血生臭い面が目立った時代でもある。また南蛮貿易や欧州分化との接触や城下町文化の発生など明るい部分も注目される。
「正に血みどろの時代ね…」
鳥羽子は説明書きを読みながらつい口走ってしまった。あの夢を見てしまったせいかどうも描かれていることが容易に想像できてしまう。まるで自分だけ時代から切り離されてしまった様な感覚だった。
ふと鳥羽子は思った。あの青年は果たしてどんな気持ちになりながら、そしてどんな理由で人を殺す様になったのか。何故かそのことが急に知りたくなった。あの悲しげな目は人を切った罪悪感からなのか、それとも自分を卑下しているからなのか。知りたい。まるで恋焦がれるかの様な強い気持ちが鳥羽子の胸の中を駆け巡った。
ところがその気持ちを押さえ込む様な出来事がやって来た。朝のホームルームの時間になって担任がやって来るなり、手元にあったプリントを全員に配り始めたのだ。その紙が回って来ると鳥羽子はぎょっとした。
進路希望表
その言葉が鳥羽子を現実に引き戻した。
夕焼け色に染まったプリントを鳥羽子は何度も読み返した。ぽつぽつと一人で帰りながらその文脈を目で流す。はあと溜め息を吐いても勝手に文字が現れる訳ではなかった。担任の説明では両親と良く話し合って決めなさいとのことだった。提出期限は三日後と、思っていたよりも早かった。
「将来の夢、か…」
以前、保奈美が職業を考えるよりも将来の夢から考えると言っていたのを思い出した。駅の前にある信号が赤いランプを点すと鳥羽子は立ち止まった。自動車が途切れ途切れに鳥羽子の前を横切り、プリントを揺らした。このまま手放してどこかへやってしまおうかななどと考えていると信号が青に変わった。鳥羽子は首を横に振って横断歩道を渡ろうとした時だった。
「あっ!」
視界の中をあの白い帯が過ぎったのだ。すると指で握っていたプリントは風に乗って空に飛ばされてしまった。風は自分の真後ろから吹いていて、宛もその白い帯がプリントを咥えていってしまったかの様だった。
鳥羽子は慌ててプリントの後を追いかけるがそんな鳥羽子を嘲笑うかの様に紙は更に風に流れていった。いよいよもって大変だと鳥羽子は目一杯に走った。鳥羽子の運動神経は抜群だった。特別何か運動をしている訳でもないのに小さい頃から駆けっこは男の子よりも早かった。目にも留まらぬ速さで町並みを駆け抜ける。しかしそんな鳥羽子でも風神様には敵わなかった。プリントはいずこかに飛び去り、手の届かない場所に行ってしまったのだ。
最後に見かけたのは森の中に吸い込まれる様にして消えたプリントの姿だった。息を切らしながら辺りを見回すとそこは余り知った土地ではなかった。だがそんなことを気にしている場合ではなかった。鳥羽子は息を一つ飲むと森の中に入っていった。鳥羽子が立ち止まった場所の少し上、国道の看板には薄っすらと柿瓦と書かれていた。
そこはまるで人の世界とは別の場所の様だった。切り開かれた道もなければ人工物もない。完全な獣道を突き進む。幸いにも鳥羽子は小さい頃から森の中で遊ぶことが多かった為にこの手の道はお手の物だった。ただ昔と違って今はスカートだ。誰にも見られないとはいえ、布地が肌蹴ると鳥羽子は少し恥ずかしがりながら元に戻した。
「この辺りだったかな…」
草むらを掻き分けると緑の中に真っ白いものが見えた。見付けたと鳥羽子は喜びながらその白いものに近付いていった。しかしその足踏みは途中でぴたりと止まった。大木に寝そべる様にして腰を降ろしていたものがその白いものの正体だった。険しい顔をした大きな犬がどっしりと彼方を見詰めている。鳥羽子は息を殺して立ち止まった。
山の主と呼ばれる各森や山に住む一際大きい動物のことを差す。時にそれは縄張りに侵入した罪深い人間を食い殺すという。鳥羽子は小さい頃に見た童話の本を思い出した。音を出さない様に鳥羽子は静かに踵を返そうとした時、その犬の足元に探していたプリントがあったのを見付けてしまった。
「あ」
何とも間抜けな声だと鳥羽子は自分でも思ってしまった。向こうを向いていた犬は敏感にその声を聞き取り、その視線を鳥羽子に向けた。そこで鳥羽子は気付いた。その犬の顔立ちが犬や山犬などと違ったものであると。透き通る様な白い体をした狼がじっとこちらを見詰めている。だが不思議とその目に殺気がなかったのを鳥羽子は感じた。それ所かどこか懐かしい匂いを感じてしまうのだ。自然と足が前に出る。するとその狼は立ち上がり、落ちていたプリントを口に咥えた。鳥羽子はまさか返してくれるのだろうかと淡い期待をしてしまったが、その期待を裏切るかの様にその狼は鳥羽子の前から姿を消した。
「ま、待って!」
鳥羽子は狼が去っていった場所に歩み寄り、辺りを探した。大木があった所から少し上の場所にその狼はいた。不可思議なことにその狼は一定の距離を保ってじっと鳥羽子を見詰めている。
「付いて来いってことかしら?」
狐につままれたかなと思いながら鳥羽子は狼の後に付いていった。
着いた先は意外な場所だった。あれだけ人の手が加わっていなかった場所の中に明らかに人の手が加わったものがあったのだ。石の階段が並び、その上に寺の様な屋根が見える。階段の先に狼の尻尾が見えると鳥羽子は意を決して階段を上った。階段は随分と昔に作られたのか草木や苔に覆われていた。
階段を上り切ると目の前に寺があった。その場所は妙に空気が澄んで心地よかった。これも神聖な寺の成せる業なのだろうかと鳥羽子は不思議に思いながら寺に近付いた。寺は綺麗な形を保っていたが、やはり時代を思わせる作りだった。朱色に染まった屋根には鳥の巣が出来てしまっている。鳥羽子は寺の名前は何だろうとその寺を隅々まで見渡したが、名前になるようなものはなかった。
不意に木が擦れる音が鳴った。鳥羽子は少し驚いて音の出た場所を見た。寺の入り口、木の戸が開かれた音だった。戸の隙間はあの狼が出入り出来る程の大きさだけ開いていた。鳥羽子はゆっくりと戸を開いて中を覗いてみた。すると部屋の中心にくしゃくしゃになったプリントを見付けると鳥羽子は今度こそと思いながら足早に向かい、やっとプリントを手に取った。ほっとしたのも束の間、顔を上げるとそこには狼の顔が間近にあった。思わず鳥羽子は悲鳴を上げそうになったが、良く見るとそれは狼の姿を形作った木の像だった。
「びっくりした…驚かさないでよ」
物怖じしながら鳥羽子はその狼の頭を撫でた。すると鳥羽子はおやと思った。年代物を触った筈なのに指には埃が着かなかったのだ。部屋を見渡すと特に目ぼしいものはなかったが、どれも埃や塵に埋もれてしまっている。この狼の木像だけがまるで今さっき出来たかの様だった。
流石に気味が悪いと思ったのか鳥羽子はそそくさと踵を返し、寺の中から出ようとした時だった。木の像があった場所から狼の吐息が鳴った。びくりと体を震わせながら鳥羽子は背中に顔を向ける。しかしそこにはやはり木像が置いてあるだけだった。
「…好い加減にしてよね」
半分、涙目になりながら鳥羽子はむっとして木像を睨み付けた。だがその顔を化かすかの様に狼の口許には一冊の本が咥えられていた。さっき見た時にはなかったとても古い書記が牙の間に挟まっている。鳥羽子は恐る恐るその本に手を伸ばし、狼の口許から引き抜いた。
それは博物館で展示されているかの様な時代を感じさせるものだった。茜色の拍子にかぴかぴの障子の様な紙が留められている。鳥羽子は何が書いてあるのだろうと本を捲ってみたが、すぐに嫌な顔をした。それは古典の授業で習っているものととても似た文体で書かれた日本語だったのだ。それもこれを書いた人間はよほど字が下手だったのかバランスの悪い書き方だった。
「昔でも上手い人と下手な人が居るのね」
そう思いながら鳥羽子が顔を上げた時には狼の木像がなくなっていた。驚きながら鳥羽子は木像があった場所をくまなく探したが、その形跡すら見当たらなかった。鳥羽子は試しに頬を抓ってみたがどうやらこれが夢ではないこと知ると大人しく寺から出ていった。
くたくたになりながら鳥羽子は家に帰ってきた。体の疲れよりも変な気疲れのせいで足取りが重かった。二階に上がる階段がいつもより高いのは気のせいだろうか。鳥羽子はひいひい言いながら階段を上り切り、やっとのこと部屋に入ると椅子に持たれかかった。
一息吐いて鳥羽子は鞄の中からあの本を取り出した。まさかこれも幻ではないかと鞄に手を突っ込んだ辺りから疑ったが、どうやら杞憂に終わった。最初のページをじっくりと読んでみるが、どうも文字が読み辛い。所々は読めるのだが、どう頑張っても全体像が浮かび上がってこなかった。明日、保奈美にでも見て貰おうかなとぱらぱらと流し読みしてみると気になる単語が目に止まった。『九浄 風太狼』
「…どうして家の名前が?」
閃いたのはご先祖だった。しかし鳥羽子が父親から聞かされていたのは九浄家の先祖は代々医療に携わり、貧しい人の為に努力してきた家系だという。不思議なことに家系の誰もがその道を志していた。
ふと鳥羽子は祖父のことを思い出した。今は死んでしまってこの世にはいないが、とても優しい人だったのを鳥羽子は覚えている。祖父も父親と同じ様に医者として勤めていた立派な人だった。その祖父が亡くなる前に、
「鳥羽子は将来、何になりたい?」
そんなことを膝の上で聞かれた。夏の日差しが厳しい、九月のことだった。鳥羽子はその時にわからないと言った。すると祖父は極めて優しい口調で、
「出来たら、お父さんと同じ医者になって欲しいなあ」
そう言ったのだ。その時から父親のどじを見てきた鳥羽子だったから、嫌だと反論した。
「おや、どうして?」
「だってパパったらいつも間抜けなんだもん。見てておっかないわ」
「あれはおっちょこちょいだからなあ」
しわくちゃの顔をもっとしわくちゃにして笑った。
「どうしてパパもお爺もお医者さんなの?他のお仕事が嫌いなの?」
「うんにゃ、そんなことはないよ。ただね、私たちの家は医者を続けなければならないのさ」
「どうして?」
「お爺にもわからないんだけどね…ずっとずっと昔からそう決められているのさ。そう、お侍の時代からずっとね」
その時の祖父の顔が何故かとても寂しそうだったのを鳥羽子は感じていた。一緒に麦藁帽子を被って透き通った夏の空を見上げる。
「お爺、目に涙を浮かべていたっけ…」
鳥羽子は目に熱いものを感じると指で拭った。そして机の上に置いてあった進路希望表に鉛筆を走らせようとした時だった。部屋のドアが静かに叩かれる。中に入って来たのは鳥羽子の父親だった。
「鳥羽子、入るよ」
「もう入ってるじゃない」
「あ、そうか。ご免ご免」
相変わらずだなあと鳥羽子は困った顔をした。
「いや、朝からちょっと様子が変だったからね。どうしたのかなと思って」
そう言ってベッドに腰かけた。
「お父さん…お父さんは、どうして医者になろうって思ったの?」
少しの間を置いた後に言った。すると鳥羽子の父親は驚いた顔をした。
「何だい急に?もしかしてこの家を継いでくれるのかな?」
「まだ決めた訳じゃないけど、前向きに検討してみようかなって…」
えへへと舌を出して恥ずかしがったが、鳥羽子の父親から出た言葉は思いもよらなかった。
「鳥羽子、別に無理してこの家を継ぐこたあないんだよ」
「え?」
「死んだお爺ちゃんは君にこの家を継いで欲しかったみたいだけど…僕はね、君が医者になることは反対なんだ。いや、反対って訳じゃないんだけど、鳥羽子は鳥羽子のしたい様にして欲しいんだ」
「でもお父さんだってお爺に言われたから医者になったんでしょ?」
「まあね、でも本当は警察官になりたかったんだ。勿論お父さんには猛反対されたよ。それでも諦め切れなくて、医者になってからも良く警視庁をうろうろしたなあ…」
その話は聞いたことがあった。父と母の出会いは怪しい人物がいるとの報告を受け、母が父を連行したことからだったという。母は元敏腕刑事だったのだ。その時のことを思い出したのか父親は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「だからね」
ゆっくりと立ち上がり、鳥羽子の傍に寄った。
「自分のしたいことをしなさい。どんな道に向かっても応援するから」
くしゃくしゃと鳥羽子の頭を撫でると満足そうに部屋から出て行った。その際、
「進路希望、じっくり考えてから見せにおいで」
と言った。鳥羽子はありがとうと部屋の外にいる父親に向かって呟いた。
次の日、鳥羽子は保奈美に一枚のプリントから始まった出来事を説明すると寺で見付けた本を読ませた。保奈美はオカルトや超常現象といったものに興味があり、興奮した顔をしてその本と睨み合った。
「面白いねえ…書いてあることはちっともわからないけど」
「保奈美でも駄目?」
自分と違って国語の成績が良かった保奈美に期待してみたが、どうやらお手上げの様子だった。
「何か汚いのよ、文体っていうか書き方が。ずぶの素人に筆を握らせたか、よっぽど慌てて書いたんじゃない?」
保奈美は小さい頃から習字教室に通っていた為にとても達筆だった。その出来栄えは誰もが舌を巻いた程だった。
「ま、あともう一つ気になったのは書いた人間は右利きってとこかしらね」
推理小説の主人公の様に顎に手を添えて言ってみせると鳥羽子は思わず噴出した。派手な格好をした女子高生が安っぽい演技をしている様だったのだ。鳥羽子が笑い出した理由を感付くと保奈美は鳥羽子の頭をぐりぐりした。
「悪かったわね、どうせあたしゃ三文芝居しか出来ねえっつの」
「痛い痛い、悪かったから許して」
鳥羽子は今度は顔を隠して笑おうと思った。
「そうだ、委員長に見せてみようか」
思い付いた様に保奈美が言った。
「委員長って…新城さんのこと?」
長い黒髪に少し厚めの眼鏡をかけたクラスの委員長である新城 朝美のことを思い出した。鳥羽子は彼女と面識はあったものの、実際に話したことはなかった。ほんの少し困った様な顔が印象的で、眼鏡を取ったら化けそうだと鳥羽子は思っていた。
「そうそう。ほら、あの子ってガリ勉でしょ?あたしらが知らないことも知ってそうじゃん。ね?聞いてみようよ」
「うん、そうね」
ガリ勉とは聊か口が過ぎるのではないかと思いながら鳥羽子は頷いた。
鳥羽子と保奈美は教室に着くと早速目的の人物を探した。すると新城朝美は一番前の席で何やら日誌の様なものを書いていた。すらすらとペンを走らせ、今日の授業予定を書き込んでいる。鳥羽子はその横顔を見てやっぱり綺麗な人だなあと思った。
「ねえ新城、ちょっと面貸してよ」
鳥羽子がちょっと目を離した隙に保奈美はまるで喧嘩を吹っかける様に朝美の机に手を乗せ、眼を付けた。鳥羽子は慌てて保奈美を押し退け、朝美の前に立った。鳥羽子の力は思いのほか強かったのか保奈美はバランスを崩して一人でずっこけていた。
「ご免なさい、保奈美が失礼なこと言って…」
そう言うと朝美はそれが素の顔なのかどうかわからないが、少し困った顔をして気にしてないと言った。
「私に何か?」
顔を日誌に戻しながら言った。
「あの、急で申し訳ないけど、ちょっと見て欲しいものがあって…」
鳥羽子は礼の本を控えめに渡した。朝美はその本を一瞥すると不思議そうな顔をして受け取った。
「随分と年代物ね。骨董品みたいだけど、これが何か?」
「実は昨日、不思議なことがあって…」
鳥羽子は不快感を与えない様に手短に説明した。
「非科学的ね」
しかし返って来たのは心無い返事だった。どうやら朝美は保奈美と打って変ってそういった現実味のない話に興味がない様だった。淡々とした言葉が鳥羽子の胸をちくりと突いた。
「二束三文にもならない御伽噺なら小さい頃に読み漁ったわ。どれも陳腐な内容で面白みに欠けたけど。大方、夢でも見てたんじゃない?」
「あんたトーコに向かってそこまで暴言吐いてただで済むと…」
今にも食ってかかりそうな保奈美を牽制する様に鳥羽子は肩に手を乗せた。
「誤解しないで頂戴、私は別に九浄さんを小ばかにしてる訳じゃないのよ。ただ私はそういうリアリティのない話が苦手なだけなの。…読んでも?」
鳥羽子は頷いた。そうしてまじまじと本に描かれた文を読む朝美の姿を見て、ちょっと口は悪い所はあるけど悪い人じゃないとわかると鳥羽子はほっとした。面白くなさそうにする保奈美の頭を撫でながら鳥羽子はじっと待った。
「興味深いことが二、三あったわ」
丁寧に本を閉じて朝美は言った。
「どんなこと?」
「文体が余りに稚拙で汚く、その殆どが読めないという点。用紙を見る限りではとても古いものね。大雑把に推測して室町後期から江戸前期の範囲で書かれたものよ」
「何でそこまでわかんのよ」
保奈美はどうしても気に入らないのか、突っかかる様に言った。
「本の紙から推測したのよ。尤も素人の目だからどこまで信憑性があるかわからないけど。和紙っていうのは江戸期に入ってから全国に普及したの。この本に使われている紙は未だ出来が粗いことから江戸前期、若しくは戦国時代に作られたものじゃないかと思うわ」
宛ら専門家の様な口調に保奈美は手も足も出なかった。悔しそうに歯を噛み締めている。
「それで他に気になった所って?」
「ちょっと理解に苦しむんだけど、私の家の名前があるのよ」
そう言ってとある項を場所を指差した。そこには辛うじて新城と書かれているのが見えた。
「ただの同姓じゃないの?」小ばかにした様に保奈美が言う。
「私もそう思ったのだけど、その後に書かれたここ、見て」
次に指差された場所には『新城 実朝』と書かれていた。
「新城…実朝?」
「この人の名前、実は家のご先祖の名前なのよ。ちょっと変な経歴を持った人だから良く覚えているわ。数学者だったり軍学に長けていたり、間諜みたいな仕事もしていたみたいなの」
「ご先祖がそんなんじゃ大変ね」
「高峰さん、他人事じゃないわよ。貴女の家の名前も乗ってるんだから」
そう言うと保奈美は声を上げて驚いた。朝美が指差した場所には『高峰 半次郎』と書かれていた。
「ど、同姓よ…」
そうは言いながらも顔は引きつっていた。
「九浄さん、もし良かったらこの本、一日だけ貸してくれないかしら?家でじっくりと解読してみたいの」
意外な言葉に鳥羽子は驚いたがそれだけ朝美の興味を惹いたのだろう。鳥羽子は快く引き受けた。
「お願いします」
「じゃあそろそろ日誌の続きに戻るわね」
そう言うと朝美は本を大事そうに鞄に仕舞い、日誌の続きを書き始めた。
鳥羽子は自分の席に戻ると新たに現れた二人の人物について物思いに耽った。九浄風太狼、高峰半次郎、新城実朝。この三人の関係は一体どんなものなのだろう。いつになく鳥羽子はわくわくしていた。ただその一方であの日に見た夢が現実になってしまう様な気がしてならなかった。ひょっとして自分は何かとんでもないことをしてしまっているのではないか。そんな一握の不安が鳥羽子の胸の過ぎっていった。
「ねえ、お父さん」
夕食を囲みながら鳥羽子はあの本について何かわかることがあるかもしれないと先祖のことについて訪ねてみた。
「うん?」
「家のご先祖様ってどんなだったの?」
「あら、そんなこと興味あったのね」
不思議そうに鳥羽子の母親が言った。刑事だった頃の癖は抜け切っていないのか、鳥羽子はその瞳の奥に光りを見た。
「ちょっと日本史の宿題で調べなきゃいけなくて…」
「なんだ、それならもっと早めに言ってくれれば良いのに。確か物置のどこかに家計図があった筈だよ。あと当時の文献っていうか、ちょっと変わった本があったなあ…」
その言葉を聞いて鳥羽子は驚いた。
「それって、もしかしてちょっと読み辛い本だった?」
「昔の字って訳だから読み辛いことには変わらないけど、どんな内容だったかなあ…」
「その本、後で読んでも良い?」
「良いけど、どこに仕舞ったのか忘れちゃったよ。琴音さんは見た?」
琴音というのは鳥羽子の母親のことで、父親の名前は正太郎といった。
「確か…変な絵が着いていたわね。そう、百鬼夜行みたいな鬼とか化け物がたくさん描かれていたわ。どこにあるかは忘れたけど。捨てちゃったかも」
鳥羽子はええと悲鳴を上げた。
「だって埃が被って汚かったんだもの。文句があるならお父さんに言いなさい」
「お父さん…」きっと睨んだ。
「も、申し訳ない…あとでちゃんと掃除して置きます…」
鳥羽子はやれやれと溜め息を吐いた。
夕食を済ませると鳥羽子は懐中電灯を手に外にある物置に向かった。家の裏側にある畑の傍にその物置はあった。年代物はあっても基調なものはないとかで鍵はなく、ぼろぼろの扉を鳥羽子はこじ開けた。途端、むわっと埃が舞って電灯の先を霞ませた。
「立て直した方が早いんじゃないかしら…」
物置は小さなもので四畳ほどの大きさしかなかった。光りを照らすと中にさび付いた一輪車や足の折れた椅子が見えた。これでは泥棒も見向きもしないだろうと鳥羽子は呆れながら電灯を回した。すると奥に木箱らしきものが映った。
「これかな?」
木箱は途中でつっかえているらしく、引いてもびくともしない。平べったい形のせいで掴み辛いのもまた厄介だった。業を煮やした鳥羽子は指に力を入れ、思いっきり木箱を引きずり出した、のだが木箱は半分まで引き摺られると途中で縦に裂けてしまったのだ。その勢いで中に入っていたものがばらばらと床に落ちてその一つが鳥羽子の膝に当たった。
「いたっ!馬鹿力も考え物ね…」
鳥羽子は細腕に似合わない腕力を持っていた。生まれ付きなのか、小さい頃に男の子と喧嘩して負けたことはなかった。自分でも不思議なくらい、鳥羽子の身体能力はずば抜けていた。
などと愚痴を零しながら鳥羽子は床を照らした。床に転がっていたのは手で掴めるくらいの大きさの巻物と、
「…鍬?」
使い古された鍬があった。どうやらその持ち手にぶつけられた様だった。鳥羽子は不思議に思いながらその鍬を手に取った。別段、妙な所はない。ただの古い鍬だった。試しに振ってみると音の良い風切り音がした。
「畑に使っている鍬は裏庭にあるし、どうしてわざわざ木箱に入れて置いたのかしら?」
それから鳥羽子は物置の中を探してみたがそれらしいものは見当たらなかった。いつの間にか手の平が真っ黒になっているのを見付けると鳥羽子は仕方なしに物置を後にした。
「例のものは見付かった?」
台所から通じるドアを開けると鳥羽子の母親が洗い物をしていた。
「はっ、見付かったのは家系図らしき巻物と古びた鍬だけであります」
おどけながら鳥羽子が敬礼をすると角度が違うと直された。
「やっぱり捨てちゃったかもね」
「また今度探してみる」
鳥羽子は手を洗うと見付けた鍬を立てかけ、巻物を持って自分の部屋に向かった。椅子に座ると紐を解いて巻物を開いてみた。やはりその巻物は父親が言っていた家系図の様で、鳥羽子の祖父までの代が記されていた。そこからずっと左に目を流し、初めの人となるべき人物に目をやった。
「九浄風太狼…この人が全ての始まりなんだ…」
残念ながらその人物の番となる女性の名前は虫食いによって読めなかった。しかしあの本に書いてあった人物が先祖である者と同じならば、もしかしたらその九浄風太狼について書かれている本なのかもしれないと鳥羽子は思った。
「あれ?でももしそうだとしたら、私が知っていることとあんまり変わらない内容ってことになるのかなあ?」
九浄家の先祖は医者として善意の限りを尽くした。たったこの一文で終わってしまうことを長々と書かれているだけなのかもしれない。そう思うと鳥羽子は何だあと肩を落とした。
「でもそれならあの人は誰なんだろう…」
鳥羽子は夢の中で出会った青年のことを思い出した。父親の面影があることから九浄家に縁のあるものには違いないだろうが、それならば何故あの青年は鬼の様な顔をして人を殺めていたのだろうか。鳥羽子にはそれが気になって仕方がなかった。
「どんな人だったんだろう…九浄風太狼って…」
そんなことを思っていると自然とあくびが出てしまった。結局、今は本の解読を待つしかないのだ。鳥羽子は巻物を閉じると電気を消して床に着いた。
寝静まった部屋の中に、静かな風が窓の外からやって来た。白い、光りを点した狼がじっと鳥羽子の寝顔を見詰めている。やがてその狼が前足を一歩前に出すと鳥羽子は寝返りを打った。起きる様子はない。狼はそう確信すると鳥羽子の傍に寄り、そのまま彼女の体の中にすっと入り込んでいった。
その夜、鳥羽子はまた夢を垣間見た。
森で見かけた白い狼がじっとこちらを見ている。岩の上から鳥羽子の目を。その目は何かを訴えていたが鳥羽子はそれが何かわからなかった。狼はそのことを察したのか、急に視線を横にずらした。目は鳥羽子の方を向いたままだ。まるで鳥羽子にその方向を見ろとでも言わんばかりだった。
鳥羽子は狼の視線の先に目を向けた。そこには小さな村があった。時代劇で見かけるような昔の作りをした家々だった。次第に誰かの泣き声が鳥羽子の耳に入っていった。泣き声は村の中の一際小さな納屋の前から響いていた。その声は鳥羽子のつま先を手繰り寄せ、月明りが声の正体を微かに照らす。
――それは、あんよの短い、小麦色の肌をした赤ん坊だった。
【次回】
乱世の牙が運命を狂わせる。
九浄鳥羽子の御伽草子 貧乏万斎 @Binboubansai
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