コイン・キャンディー

油🈓朮油

コイン・キャンディー

 一七九五年、一月二十八日。軍隊がやって来た。




 啓蒙専制君主体制けいもうせんせいくんしゅたいせいの崩壊と、深刻な東西分裂とうざいぶんれつ。二つの問題を皮切りにして、戦争は始まった。


 荒涼とした雪原の戦場で、軍隊は40日を超えて戦い続けた。しかし、やがて物資と兵力が底を尽き、彼らは前線から一時退却せざるを得なくなった。陣形を再び立て直すには、首都に帰還して軍事物資の補給を行い、増援部隊と合流する必要があった。軍隊は、点在する農村集落のうそんしゅうらくに立ち寄りながら、沖積平野ちゅうせきへいや河口域エスチュアリーに沿って首都への旅路たびじを進み続けていた。

 

 

 ――――私の家にも、兵士が上がり込んできた。

 金雀枝エニシダ色の軍服に白い革靴を履いたその兵士は、一匹の軍用犬を連れていた。



「こいつは、スタブレゴっていうんだ」

兵士は燕麦色えんばくいろ顎鬚あごひげを整えながら、私にその軍用犬を紹介した。兵士が“スタブレゴ”と呼んだその犬は、黒色のスタッズ首輪を首に付けて、マフラーを脇腹に巻いていた。


貴婦人きふじん。申し訳ないけど、こいつに何か食事を恵んで戴けないだろうか。俺の分はいらないから」

 兵士は遠慮がちに要求した。私は兵士の申し出を快諾した。

 


 兵士は、泥炭が燃える暖炉の前に座り込んだ。スタブレゴはその傍らでしっぽをパタパタと小刻みに振っている。





「戦局は?」ブリキのくすんだ鍋に井戸水を注ぎながら、私は言った。

「極めて順調だよ。すでに前線から17leagueリーグも敵地を進んでいるんだ」

 兵士は答えた。が、私の顔をちらりとのぞいて、「嘘だよ」と言った。

「貴婦人、正直に言おう」「まもなく敗戦する」

「……どうして、もうすぐ敗戦だと分かるのですか?」私は尋ねる。

「戦局の委曲つばらは何も知らされていないけど。なにせ、いっしょに戦ってる同朋どうぼうがみんな死んじまってるからな。へへへ、まったくゴミクズみたいな地獄だった。負け戦だと知りながら、昼夜問わず殺し合いをしていたんだぜ。いや、嘘じゃないんだ。戦場で過ごした、40日余り。あれは本当に酷かったんだぜ!」

 兵士はしわがれた声を徐々に張り上げながら、一気にまくし立てた。



「大砲と銃弾が飛んで、霜の付いた地面の上に内臓やら血糞ちぐそやら散らばって、朝は腐肉、夜も腐肉――――」



 兵士は淡々と語り続けた。スタブレゴは床にうつ伏せになって前足を舐めている。 

 


「スタブレゴは、戦場で味方の兵士に誤射されたんだ」

「それで、ひどく出血した。焼きゴテで焼灼しょうしゃく止血しけつをしなかったら、確実にあの場で死んでいただろう。誤射したのは、ウィンフリッツという野郎だった」

「その、ウィンフリッツという方は、職業軍人しょくぎょうぐんじんでしたか?」私は尋ねた。

「いや、違う。徴兵ちょうへいされて無理やり戦場に駆り出された新兵しんぺいだった」

「新兵はまともな軍事教育を受けていないから、敵兵に狙われやすいんだ。あの野郎も、例外じゃなかったみたいでよ。大砲で撃たれたんだ。直撃はしなかったようだが、それでも皮膚がV字に割れて、ほとんど瀕死の重傷を負っていた。仰向けになって立ち上がれなくなっていた所をスタブレゴが発見したんだが、ウィンフリッツの野郎は激痛で精神が錯乱していてな。スタブレゴを敵だと思ったらしい」

「――――その人は、無事だったのですか」

「さっきも言っただろう。瀕死の状態だった。野戦病院に運ばれたよ」

 やや苛立ったような口調で、兵士は答えた。

「まあ、ある意味では、ウィンフリッツの野郎はラッキーだったと言える」

「ラッキー、とは?」私は言った。

「大けがを負って、戦線離脱せんせんりだつできたんだから。終戦まで生き延びて国家を勝利に導くか、負傷して野戦病院に送られるか。この二つの例外を除けば、俺たちはくたばるまで戦場から逃げ出すことはできないんだ。愛国心の薄い兵士にとっちゃ、戦線離脱は羨望せんぼうものだぜ」


 ひとしきりしゃべり終えると、兵士は沈黙して顎髭あごひげをいじり始めた。





 私が作ったのは、塩漬け羊肉ラムと大麦の雑炊だった。


 私はまだ熱い湯気の立つ鍋を持って玄関の外に出た。雑炊を冷やすために、雪を入れようと思ったからだ。玄関先に積もった真新しい雪を鍋に掬い入れて、再び家の中に戻ってくると、兵士が一枚の硬貨を口にくわえていた。

 

「何をしているのです?」驚いて私は尋ねた。

「コインを舐めているのさ、空腹をまぎらわすためにな。実は、昨日から何も食っていないんだ」兵士はモゴモゴと口を揺らして答えた。

「お腹がいているなら、遠慮せずにそう言ってくれればいいのに。貴方あなたも食べます?」

「いらない。俺には、ソレを食う資格なんてないんだ」飴玉のようにコインを舐めながら、兵士は答える。

「貴婦人。俺は敗残兵だぜ。飯なんて、スプーン一杯の鉄屑てつくずで十分なんだよ」

「そんなこと言わずに、貴方もお食べになったらどうです」

「いいんだ、スタブレゴの為においしいご飯を作ってくれてありがとう」

 兵士はそう言いながら立ち上がると、私から鍋を受け取り、スタブレゴに近づいた。

 結局、だれも雑炊に口をつけることはなかった。




 スタブレゴは充血した瞳をしっかりと開きながら、暖炉の前で息絶えていた。

 体に巻かれていたマフラーを外したスタブレゴの脇腹は、その死因を残酷なほど明白に描画していた。止血痕しけつこんが壊死し、そこから分泌された毒素が瞬間的に全身にまわったのだ。


 スタブレゴの死を確認した後、兵士は外に飛び出して、夜明けまで玄関に入って来ることはなかった。彼は一晩中、玄関先で地吹雪じふぶきを眺めながら煙草たばこをふかし続けていた。



 




 翌朝、軍隊は村を去った。

 燕麦色えんばくいろ顎髭あごひげを生やした兵士はスタブレゴを片腕に抱き、亜麻糸を鼻に巻き付けた軍馬にまたがって白亜の雪上を進んでいった。






 あの兵士の言った、“ウィンフリッツ” ―――

 あわれむべきスタブレゴの命を奪った、“ウィンフリッツ”――――






 ああ、徴兵で戦場にった私の夫の名前も、ウィンフリッツというのだ。

 

 かの人物を夫だと信じるべきか、同名の他人だと否定するべきか。

 一月二十九日の朝を境に、私の胸の中には二匹の感情が住み着いてしまった。


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コイン・キャンディー 油🈓朮油 @okinoyu976

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