二景
電車で揺られ、途中で緊急停止しやがって、脳みそがぐつぐつと沸騰したような苛立ちを覚えたが、常に冷静な私は一呼吸置いて落ち着くことにした。
なにか新たな策を考えなくてはならない。無駄にできる時間は、そう多くない。
そうだ。期限を決めていなかった。いいかい、何事にも期限を決めることは大切で、期限のない目標はただの妄想である。この言葉は、一体誰のものだったろうか。
きっと私の今の姿は、大きな窓の向こうで草野球に耽る少年たちの、十年後の姿なのだ。私にもあんな少年時代があったものだ。
時に、大学生というのは、既に脳が衰え始めていると私は感じる。もっと早く気付き、行動すべきだったのだ。なぜすぐ側にあったはずなのに、見落としていたのだろうか。
とにかく期限を決めよう、と思ったが、目安になるサンプルがないことに気づき(あったらそれはそれでどうなんだという話は捨て置く)、頭を悩ませる。私は頭が良くないし、悪くない。良くも悪くも平均のつり合いの場所に立っている人間である。
私が思いつくこと、それ即ち、過去の人々も考えたことだ。向かう場所は、日本ただ一つの国営図書館であった。
半年前、まだ大学生になりたてであり、なんの罪も犯していない、もとい、露呈していなかった時。
皇居周りを一周歩く、というなんとも解せぬ大会を一人勝手に開き(その時は東京に慣れてもいない時期であったから、歩くだけで楽しかったのだろうが)、一時間ほどかけて本当に歩くということをやった。
その時は皇居や武道館なんかに目がいってしまっていたが、さすがは首都の名を冠する元国営鉄道駅周辺、我が国有数の施設が密集する地区である。つまるところ、皇居に近い場所に、そこはあった。
その建物は、上から垂直に切られたミルフィーユのようであった。
はっきりいって、その四辺のどこが入口だかは皆目見当がつかない。が、とりあえず建物に近づく。
ベンチに腰掛けて微動だにせぬ鉄の色の人に、なんとなく会釈をして、あちこち回って、なんなら一度通った場所に、入口があった。
だが。私はそこで、どっと疲れてしまっていた。
今日は、ここまでこれたから上々。明日は大学へは行かず(もう意味もない)、朝からここへ来るとしよう。
心の中で大きく叫び、何かを誤魔化すように、帰路へとついた。
・・・・・・。もし、そこの若いの。
・・・・・・。はい、私でしょうか?
私は私の顔を指さして首を傾げた。その老婆は見えているのかどうかが非常に気になるほどに目を細め、私の全身をを舐めまわすように見て、ちょっと手伝っておくれと言い放った。
空はオレンジ色ではないにせよ、陽の傾き加減としてはそこそこのものであった。が。すぐに家に帰りたいかと言われればそうでは無いし、特にまだこの時間は、本当は大学の講義室で教授に隠れながらネットという広大な海に着水している最中である。
少しくらいなら良いだろう。
と、私は、後悔したのは、おおよそ六分の一日が経った頃だ。
蔵から家へ蔵から家へ、何度も何度も何度も何度も重たく冷たく埃臭い荷物を運ばされた。しかも家と言っても、築数年の建売モダンハウスや築数十年のカビ臭い小屋ではない。下手をすれば皇居の別荘と見間違うほど大きく、古く綺麗な家であった。
余程の金持ちに違いないと、老婆を見るが、しかし老婆自身は質素な格好で保温のきく水筒のお茶を啜っているのだった。
そうしてすっかり日も落ちかけた頃、私はそこら一帯の荷物を運び終えた。すると、ずっと座って私の労働を見ていた老婆が近付いてきた。
まさかまだあるのか。
しかし、これで最後だね、と渡してきたのは、今までに比べれば小指でも持てそうな小さな箱だった。手触りの良いふわふわとした深緑のその箱を持って、今まで通り蔵の方へ向く私を、老婆は制した。
それはお礼。お前さんのもんだよ。
「ありがとうねえ」
あ。
私が箱の中身を見る前に、老婆によって早々に家の敷地外に出されてしまう。あたりはもうすっかり暗くなって、街灯が光っている。
何となく、箱を開ける気分にはならずに、私は東京駅への少しだけ長い道のりを歩いた。
家へ帰ると、珍しく父親が私よりも先に帰ってきていた。私の顔を見るや否や眉をひそめ、テレビを付ける。
キッチンで食器を洗う音がして、母親だと気づく。まあ、明日の朝少し早く家を出て、どこかで朝食をとろう。
何やっているの。さっさと自分の分食べて。
その言葉に、拍子抜けて。心の中でコンセント周りのように絡み合った何かが、少しだけ、解けて軽くなった気がした。
母さん、父さん。
二人の顔をしっかりと見て話したのは、いつぶりだったか。
「ありがとう、ふたりとも。」
嘲笑八景 兎莵兔菟 @usagi-rabbit
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