カインの贈り物 本編33話後日談
「フェリス……で、ございますか」
エスクード侯爵家の家令であるアレッツォは、首都の屋敷の主であるカインの言葉に思わず聞き返した。
「そうだ。社交界で人気なのだろう?」
少しそわそわと落ち着かないのは、気のせいではないらしい。
「イレリア様のお上着は先日――」
「誰がイレリアのものだと言った」
カインの言葉に、アレッツォはすぐに察することができた。
そして、満面の笑みを浮かべると、深々と頭を下げて退室した。
「アレッツォ、随分と機嫌だな」
帰りを出迎えたアレッツォに、エスクード侯爵が声を掛けるほどに、アレッツォはわかりやすくご機嫌だった。
「申し訳ありません。つい顔が緩んでしまいまして」
「お前がそのように笑うということは、カインになにかあったのか?」
さすがは父親だと、アレッツォは更に嬉しくなった。
「ええ。カイン様がジルダ様にフェリスの毛皮を用意するようにと」
「カインが?」
侯爵が眉を上げてアレッツォを見ると、アレッツォはわざとらしく得意げに頷いてみせた。
玄関から書斎に移動すると、侯爵はアレッツォから酒精の強い琥珀色の液体を受け取って、一口をゆっくりと流し込んだ。
液体が喉を通過する時にある、粘膜が焼けるような感覚が侯爵は好きだった。
「ここのところ、あれほどジルダに近寄ろうとしなかったのにか」
独り言のように呟く侯爵に、アレッツォはただ微笑むだけだった。
「ジルダは何が好きかな」
夏の月の始まりにジルダが生まれたのだと聞いて、カインはジルダへの贈り物を選んでいた。
春の月――自分の生まれた月に出会った婚約者は、最近やっと笑ってくれるようになっていた。
エスクード侯爵家の持つ商団の倉庫で、7歳のカインの小さい手は、装飾品や細い糸で織られた上等なリネンを大人さながらの手付きで選んでいた。
「ジルダは肌の色が白いだろ?だから柔らかい布地じゃないと」
いつも触れる手から、ジルダの肌の柔らかさを感じていたカインは、もっと柔らかい布をと商団の番頭であるセズンに言いつけている。
「カイン様。この布はどうですか?」
アレッツォが積み上げられた布地の中から見つけた、細い綿の糸で織られた生地は、とても柔らかくて肌触りがよかった。
「アレッツォ!これだよ」
カインは輝かしい笑顔でアレッツォをみると、セズンは慌ててその生地を取り上げようとした。
「アレッツォ様、いけません。これはアバルト侯爵家にお納めするものでして」
「じゃあ僕が叔父上に謝っておくよ。叔父上もお許しになるはずだ」
「ですが――」
セズンがおろおろとアレッツォを見ると、アレッツォは困った顔をしてセズンとカインを見比べた。
薄い桃色に染め上げられたその生地は、アレッツォから見てもジルダによく似合うと思われた。
だが、いくらカインがアバルト侯爵家に謝ったところで、依頼された品物を勝手に横流ししてはエスクード商団の信頼にもかかわる。
「申し訳ありません、カイン様。セズンに確認してからお渡しするべきでした」
普段のアレッツォならしない失敗だ。それだけ、カインが楽しそうに笑っているのが嬉しかったのだと、セズンは察した。
奥様によく似てお美しいこの公子は、いつも笑顔だった。
だが、大人にはわかるのだ。子供の無理に作る笑顔などは。
今日のカインは、本当に心から笑っている。アレッツォにもセズンにもそれが痛いほどわかっていた。
「わかりました、ならこうしませんか?」
セズンはカインに耳打ちした。
「お約束の品たちでございます」
セズンが首都のアバルト侯爵家を尋ねたのはその翌日のことだった。
「ああ、ご苦労……だが」
アバルト侯爵は呆れた顔で、セズンに着いてきたカインを見降ろした。
「叔父上、こちらにサインを。納品書です」
カインが目録を差し出すと、アバルト侯爵は苦笑いをしてそれを受け取った。
なるほど、商団のごっこ遊びなのだな。
アバルト侯爵は、カインから受け取った目録を家令が確認してサインをするまでの間、カインに椅子を勧めた。
「いえ。今日の僕……じゃない、私は商人です。商人が客人宅で座るなどあってはなりません」
カインは断固として座ろうとしなかった。
この可愛い顔をした甥は、なぜこうも頑固なのだろうと困惑していると、アバルト侯爵家の家令がサインをした目録をカインに差し出した。
「これで、取引は成立ですね?この品々は叔父上のものですね?」
「あ、ああ。カインが運んできてくれたからね」
アバルト侯爵が答えると、カインは自慢げな笑顔を浮かべて、さっきまで頑なに断り続けていた柔らかい椅子に腰かけた。
「では叔父上――いいえ、リオン・アバルト侯爵。対等な友人として、僕と取引しましょう」
アバルト侯爵は目を丸くして、小さな友人を見つめた。
セズンの提案はこうだった。
「あっしはアバルト侯爵から頼まれた品物を、ちゃんと納品させていただきます。坊ちゃんは、それをアバルト侯爵から譲り受ければいいんです」
「でも、それでは叔父上が損をしてしまう」
カインが申し訳なさそうに言うと、セズンは豪快に笑ってみせた。
「譲り受けるっていってもタダじゃありません。この布地のお代は120アレウス……金貨120枚です。それと同等か、高い金額で買えば侯爵が損をする事はありません」
聞いた事もない金額に、カインは急に心細くなってアレッツォのズボンをそっと握った。
「大丈夫ですよ。そのくらいでしたらエスクード侯爵家には難なくご用意できます」
アレッツォが微笑むと、カインに笑顔が戻った。
「でも、その生地は侯爵さまから特注された特別な生地です。お譲りいただけるかは、坊ちゃんの取引の腕前にかかっているんですよ」
セズンの言葉に、カインは真剣な顔で頷いた。
「君にも見せたかったよ」
リオン・アバルト侯爵は、寝室で妻に昼間の出来事を話して聞かせた。
「それで、わたくしが楽しみにしていたあの生地は、7歳の商人に奪われてしまったというわけですのね」
「そう言わないでくれ」
拗ねて夫を見上げる妻に、侯爵は唇を落とした。
汗で湿った髪が頬に貼り付いているのが艶めかしく、侯爵はもう一度妻に口付けした。
「アレッツォからの手紙で、君も納得していただろ?」
侯爵が唇を離すと、夫人はくすくすと笑い声を立てた。
「仕方ないですわ。カインが婚約者のために一生懸命に選んだって言うんですもの」
妻の頬に貼り付いた髪を指で払うと、夫人はその指に甘えるように頬ずりした。
「僕ももう少し粘りたかったんだけどね、さすがに相場の倍を提示されてはどうにもできなかったよ」
「まぁ、怖い取引相手でしたのね」
二人の笑い声は、夜遅くまで響いていた。
「上掛けだけなのか?」
アレッツォが最上級のフェリスの毛皮を確保したことを伝えると、カインは不機嫌に言い放った。
「手袋や室内履きも――」
「ご用意しております」
抜け目のないアレッツォに、行き場を無くした手でカインは髪をかき上げた。
「彼女は寒がりだからな――婚約者として、当然の贈り物だ」
ぶっきらぼうに言い放つと、カインはアレッツォを下がらせた。
「ドレスだけじゃ足りないよ!ジルダはきっと寒いのが苦手なんだから、冬に備えて温かい履物もいるんじゃないの?」
7歳のカインは婚約者への初めての贈り物を、これでもかと選んでいた。
結局、ジルダへの贈り物は獣車に一杯積まれて、シトロン伯爵邸に届けられたのだが、その時のカインの得意げな顔と、さっきのカインの不機嫌な顔がアレッツォには同じに見えていた。
侯爵家の婚約者 外伝 やまだ ごんた @yamagonta
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