僕と化け猫の物語

宮田 あゆみ

第1話

僕の家の近くに、ボロボロに朽ち果てた公営住宅があるんだけど、みんな「お化け団地」って呼んでいる。


そこの1階には魔女の様な見た目の老婆「イケダ」が住んでいて、開け放たれた部屋から数十匹の猫が出入りしていた。


避妊・去勢手術をしていないせいで、発情期の夜になるとそこの猫達は、赤ん坊の様な声で鳴き叫んでいた。


きっと多頭飼育崩壊しているんだろうな…。


イケダは買い物の時に、長い黒髪に大きな瞳、白いワンピースを着た美少女を従えて歩いていた。


近くを通った時にイケダから「ユイ」と呼ばれているのを聞いた事がある。


年齢は僕と同じくらいの小6くらいだろう。


学校では誰も見た事がないので通報が入ったみたい。


市の職員が調査に乗り出したけど、イケダは「親戚の孫だ」と言い張り、それ以上は何もできなかったらしい。


僕は河本洋介、小学6年生だ。


両親は自身のお寺で猫の保護活動を行う「猫の里親会 」を運営している。


両親は何度も猫の事でイケダに説得したけど完全に無視されたって言ってた。


でも、僕は不気味な団地とユイに強い好奇心を抱き始めていた。


不吉な予感もあったけど、それでも真相を深く知りたいという気持ちが抑えられなかった…。



         * * *



11月初旬の夜。——イケダの放し飼いの猫たちが発情期を迎えていた。


団地中に、無数の赤ん坊のような高い声が暗闇に溶け込み、周囲に異様な雰囲気を漂わせている。


今夜は警察が出動し、「猫の里親会」に協力を求めていた。警察の後ろ盾があることで、スタッフたちもいつもより気合が入っている。


今夜は僕も参戦、捕獲器も他の団体から大量に借り、準備は万全だった。団地内に捕獲器を設置していく。


お化け団地の住民たちは遠巻きに作業を見守り、時折不安そうにざわめきながらも、事態の成り行きを固唾を飲んで見守っていた。


次々と捕獲器がカチッと音を立て、猫たちが次々に捕まっていく。


僕らは合計で20匹もの猫達を捕獲した。


その時、どこからか視線を感じた。


「えっ……あのベランダの人、イケダさん…?」


女性スタッフの1人が言った。


その声に驚き、後ろを振り向いた。


ベランダから、イケダがこちらを見ながら不気味な笑みを浮かべているのが見えた。


「…こえ〜」


僕の心に、不安がじわりと広がり始めていた。



         * * *



捕獲された猫たちのうち、半分の10匹は僕の家のあるお寺に移された。


そこには保護猫のためのケージが設置された部屋があり、今回もそこに猫たちが収容された。


両親の指示で、僕も猫たちの世話を手伝う。


10匹の猫たちも新しい環境に驚きながらも、次第に落ち着きを取り戻していった。


幸い、猫たちは比較的人馴れしており、優しく声をかけると、素直に反応して擦り寄ってくる猫もいた。


「これから、少しの間ここで暮らすんだよ。よろしくね〜」


僕はゲージ越しに指を伸ばし、綺麗な白い猫の小さな頭を撫でようとした。


しかし、思い切り噛みつかれた。


「いてて!そう怒るなよ。幸せな家庭を見つけてやるからさ…」


そう呟きながら、猫たちを見つめた。


どの猫達も落ちつきを取り戻していたが、白猫だけは僕を睨んでいた。


         * * *



その日の夜中、トイレに行きたくて目が覚めた。


猫たちのケージが置かれた部屋の前を通りかかったときだった。


扉の向こうから、かすかな声が聞こえた気がした。


「出して…ここから、出して…」


僕は一瞬立ち止まり、耳を澄ませる。


「…??…」


僕は恐る恐る扉に近づき、そっと開けた。


部屋の中は薄暗く、猫たちのケージが静かに並んでいた。


「…ここから、出してよ…」


再び声が聞こえた。


今度ははっきりと、耳元で囁かれたような感覚だった。


恐怖で心臓がバクバクしている。


僕は恐る恐る部屋の明かりをつけた。


薄暗い部屋が照らされ、ケージが並ぶ光景が目に飛び込んできた。


その瞬間、僕は凍りついた。


あの白猫が入っているはずのケージには、白いワンピースを着たユイがぎゅうぎゅう詰めに押し込まれていたのだ。


ユイとはイケダが連れ添って歩いているあの少女の事だ。


不自然な体勢で折り曲げられ、狭いケージの中に閉じ込められている。


しかし、その目はまっすぐに僕を見つめていた。


僕は腰を抜かしそうになりながらもドライバーを手にとった。


「待ってて!今、出してあげるから…!」


震える手でケージを解体し始めた。


ネジを1つずつ外していくと、ようやく上部が開き、ユイは解放された。


彼女はかすかに息をつきながら、ゆっくりとケージから這い出た。


「…大丈夫?」


僕は心配そうにユイを見つめた。


彼女は無言のまま頷いたが、その表情には不気味な影が潜んでいた。


しかし、次の瞬間、物凄い形相で僕を鋭く睨みつけた。


「え…?」


戸惑う間もなく、ユイは勢いよく僕に飛びかかり、首に手を巻きつけた。


異様な力で締め上げられた僕は、必死に手をほどこうとするが、彼女の力は凄く強い。


まるで機械に掴まれたかの様だ———。


喉が締め付けられ、息が出来ず僕は一瞬で気絶してしまった。



         * * *


———夢だった。


汗びっしょりで、全身の震えが止まらない。


しかし、感じた首の苦しさは、本物だった。


首に鈍い痛みを感じ、電気をつけると恐る恐る鏡を見た。


そこには、首を絞められたような赤い跡がはっきりと残っていた。


「嘘だ!!!!」


急いで猫のいる部屋に駆け込み、ドアを開け、電気をつけた。


目に飛び込んできた光景に、全身の血の気が引いた。


白猫の入っていたケージは、ドライバーで開けられた跡があり、中は空っぽだった。


さらに、他のケージもすべて開け放たれ、猫たちの姿はどこにも見当たらなかった。


「そんな…」


僕はその場に崩れ落ち、おしっこを漏らてしてしまった。


ユイの正体は、恐ろしい化け猫だったのだ———。



         * * *



それ以来、僕は猫を見ると恐怖で涙が止まらなくなった。


悪夢にうなされる夜が続き、頭が混乱して、猫の顔が人の顔に見えることさえあった。


両親も、変わり果てた僕の姿に心を痛めていた。


そして、僕を守るため、両親はNPO「猫の里親会」を脱会することを決意した。


情けなく思われるかもしれないが、この頃、猫を見るだけで本当に怖かったんだ。



         1ヶ月後



家のインターホンが鳴り、僕は玄関の扉を開けた。


何とそこにはユイが立っていた。


思わず腰を抜かしそうになったが、彼女の目にあの時のような邪気はまったく感じられなかった。


「本当にごめんね、この前はやりすぎた…」


ユイは申し訳なさそうに頭を下げた。


「いや、僕もあれから色々考えたんだけど…。いきなり捕獲して、飼い主と引き離して、檻の中に入れて、去勢や避妊手術して誰かにあげようとしたら、怒るのは当然だよ…」


僕もまた、ユイの言葉を受け入れ、反省の意を込めて応えた。


彼女は穏やかに微笑むと、こう続けた。


「私たちもみんなで話し合ったの。迷惑かけない様にする。だから、あなた達もまた、猫の保護活動を続けてほしいんだ」


お互いに自然な笑顔がこぼれ、僕はそっと手を差し出して握手を交わした。


黒く美しい髪、大きな瞳に白い肌。


近くで見た笑顔のユイは本当に綺麗で、この前とは別の意味でドキドキしてしまった。




         * * *


目が覚めた。


夢だった様だ———


しかし、今回は全身が光に包まれたような気分で心が軽くなっていた。


この前の事もふまえると、どうやらユイは他人の夢の中に入り込む妖術を持っているらしい…。



         * * *



それからしばらくして、団地がすっかり静かになったという噂を聞いた。


イケダは猫を外に放つ事を止めたらしい。


それを聞いて僕の恐怖心も次第に消えていった。


そして、家族は再び「猫の里親会」に入会し、保護活動を再開することを決意した。



         * * *



ある日の下校中、イケダとユイにすれ違った。


ユイは足を止めると、僕に向かってにっこりと手を振った。


その微笑みには、かつての恐ろしさはなく、まるで新しい始まりを告げるような、穏やかな優しさにあふれていた。



          3年後 



中3になった僕は、塾の授業が終わり家に向かって歩いていた。


風が少し冷たくなってきた日曜日の昼下がり。


道ばたの草むらで1匹の白い猫を見つけた。


その猫は、汚れた毛並みのまま、口元から血を流して倒れていた。


小さな体はまだあたたかく、うっすらと開いた目が、どこか儚げに宙を見つめていた。


「まだ、生きてる。しかも…この猫…ユイだ!」


僕はすぐに家に連絡し、お母さんと一緒に、動物病院へと駆け込んだ。


診断は交通事故。


避けきれず、バンパーに背骨が直撃したのではないか?と言う事だった。


「背骨に損傷がありますが、命に別状はありません。治療すれば回復します」


獣医のその言葉に、僕は安堵した。


「助かった」


しかし、その安心と同時に、ひやりとした不安も胸をよぎる。


このまま家に連れて帰り、看病するということはしばらくユイと暮らす事になるのだ。


あの時の苦い記憶が蘇ってくる。


治療法は、小型のケージの中での絶対安静。


極力動かさず、痛み止めを飲ませながら、自然に治るのを待つしかないという。


思わず心の中でため息をついた。


「…どうなることやら…」

 


         * * *



帰宅後、ユイは保護猫たちのいる部屋の一角に小型のケージを設置し、そこで治療する事になった。


この家に来た猫たちは、里親が見つかるまでここにいるのだけど……ユイはちょっと事情が違う。


たまに、人間になる化け猫だからだ。他人に譲渡する訳にはいかないだろう。


ユイの飼い主だったイケダさんは、すでに亡くなっていると言う噂を聞いていた。


だから、ユイは長い間、野良猫として生きてきたのだろう。あの真っ白だった毛並みがすっかり汚れていたのも、その証だった。


まずは少し臭いもあったので、シャンプーしてあげようとお風呂に連れて行くと、顔に猫パンチをくらい、手まで噛みつかれてしまった。


「いて!!」


——ユイは身体を震わせると人間に姿を変えた。


やはり、あの時の化け猫のユイで間違いなかった…。


人間のユイも以前見た時より大きくなっている。


白いワンピースも身体も薄汚れていたが、彼女は凛とした美しさがあり、迫力さえ感じた。


「ちょっと…私自分でお風呂入るわよ。女なんだからね。男の人に身体を洗われるなんて嫌よ!」


「…あ…うん…」


僕は驚いたが、事前にユイだと勘づいていたので意外と冷静だった。


1人でお風呂に入るとの事なので、僕は一旦外に出た。


       * * *



バスタオルを巻いたユイが出てきた。


目のやり場に困る…。


「えっと…ワンピースは、洗濯乾燥しておく?」


「うん、お願い」


「OK。それより背中の怪我は大丈夫?」


「うん、まあ…なんとか…助けてくれたのにパンチしたうえに噛みついちゃってごめんね…」


「うん…元気そうで安心したよ」


「それより…私の事、誰にも言わないでね」


ユイは人差し指を立てて鼻に当てながら小声で言った。


「うん、言わないよ、両親だってびっくりして腰抜かしちゃうよ…ハハハ」


「だよね?ふふっ」


「これからは小型のケージの中で絶対安静だからね」


「…でも…あの狭い中にずっといるの嫌よ…」


「そうだよね…たまにケージを僕の部屋に持って行くから…そしたら話相手くらいにはなるよ」


「うん…そうして…」


ユイは笑顔でそう答えた。



         * * *



ユイは猫の姿になっていて小型のケージの中に入っていたので自室へと運んだ。


「部屋で看病したい」とお母さんに伝えると、

「いいんじゃない」と軽く頷かれ、特に深く詮索される事もなかった。


自室の扉を閉めるとすぐ、ユイが右前脚でトントンとケージを叩き、「ミャーミャー」と鳴き始めた。


「出して、ってことか」


洗濯乾燥が終わった、ワンピースを置いて一旦外に出る。


扉が開いた。


ユイはワンピースを着て人間の姿へと変わっていた。


髪はしっとりと濡れて、顔まわりには、まだ微かに湯気が残っている。


その姿が妙に艶めかしく、僕は思わず目をそらした。


部屋に異性を連れ込んだのはもちろん初めてだった。


適当な言葉が見つからず、咳払いひとつでごまかす。


「いいお湯だったわ。ありがとう」


ドライヤーを手に取り、鏡の前で髪を乾かすユイの仕草は、猫だったとはとても思えないほど自然だった。


僕は目のやり場に困り、机に向かって教科書を開いたものの、ページの文字はまるで呪文のようにしか見えなかった。


「……ミルクティーが飲みたいな……」


ドライヤーの音が止んだタイミングで、ユイがふいに言った。


「えっ……飲むんだ、そういうの?」


「うん、人間の時は人間のものを食べるわよ。

でも、ずっと外では猫だったから、キャットフードばっかりだったの。優しい人たちがくれるんだ」


「そっか…大変だったね。外では、人間の姿にはならなかったの?」


「ならなかったわ。私、戸籍もないし、字もほとんど読めないの。人間の姿になったところで、警察に捕まって、どこかに連れていかれそうでしょ?」


「確かに、そうかも…」


「こうして人間の姿で話せるのは、あなただけだよ」


ユイは、少し目を伏せてから、静かに言った。


「うん、ちなみに僕の名前は洋介、君はユイだよね?」


「うん、私ユイ…洋介君…よろしくね」


「よろしく…今ミルクティー作ってくるから…ちょっと待っててね」


僕は立ち上がり、キッチンでミルクティー淹れた。


戻るとユイは、部屋の窓のそばに座り込んでいた。


マグカップを手渡すと、彼女は小さく「ありがとう」と言って、温かい湯気の立つそれを、両手で包み込むように抱えた。


「ああ……おいしい……」


「ぬるくしといたよ。猫舌でしょ、ハハハ」


「そうよ…ふふっ♡」


甘ったるい声でユイは答えた。


「今の…猫なで声?」


「ふふっ♡」


そう言って、ユイは窓の外を見ながら静かに微笑んだ。


めちゃくちゃかわいい…。


こうして、ユイがしばらく僕のうちに住むことになりドキドキする日々が始まった。




         1ヶ月後



ユイの怪我は完全に回復した。


もうお別れかもしれないと思うと寂しさが込み上げてきた。


「これからどうする?ここにいたければ、いてもいいけど…」


「うん、ここにいたい。でも…迷惑だよね?」


「外寒いでしょ?ここにいなよ」


「本当にいいの?」


「うん、両親に『このままユイを飼いたい』って僕が言えば大丈夫だよ。今聞いてくるね」



         再び自室



「いいって、ユイ。これからはうちの家族だね。よろしくね」


「うん、こちらこそよろしくね」


「でも、ユイも少し仕事してもらわないといないよ」


「なに、仕事って?」


「ユイ猫語喋れるでしょ?。ここにいる、人慣れ訓練中の猫たちに『人間は危険じゃない』って伝えてほしいんだ」


「うん、猫の姿になって、一緒に訓練するの手伝うよ。みんな幸せになって欲しいからね」


「保護猫を譲渡する時に少しだけお金を頂いているんだけど、ボランティア活動だから、よくてトントン、殆どは赤字なんだ。でも、人慣れ訓練がもっと早くできれば、黒字になるかもしれない…」


「OK!任せて!私頑張るから」


「心強いな。もし黒字化できたらユイに少しだけ給料払えるかも…」


「えっ、本当!?」


「うん…名目的には僕が少しだけ貰って、ユイにこっそり渡すかたちになると思うけど…黒字化が上手くいったら交渉してみるよ」


「私がいれば大丈夫よ。猫語で言えば絶対わかってもらえるから」


「頼もしいな…僕も猫語わかるかな…」


「大丈夫よ、私の前の飼い主のイケダさんにも教えたらだいぶできる様になったよ。私は言葉は教わったけど、読み書きまでは教わらなかったんだ。猫語教えるから、簡単な読み書き教えてよ」


「うん…それいいね。交換授業。猫語ずっと習いたかったんだ。ユイには絵本読んであげるよ。絵本で覚えるといいよ」


「うん、絵本読んでよ」


「明日、図書館でいっぱい借りてくるよ」


「うん、勉強して絶対ひとりで読める様に頑張るわ。猫語も簡単じゃないけど一緒に頑張ろうね」


「うん、絶対覚える!楽しくなりそうだね」


「うん!」



       12月初旬の昼下がり



ユイが手伝ってくれる様になって人慣れ訓練がスムーズに進み、少しだけ黒字化が達成できた。


そのお給料で僕とユイは一緒にAmazonでピンクのリボン選んで注文した。


そのリボンを首につけて今日は2人でお出かけだ。


キャリーバックにいれて電車を降りる。


そして、誰もいないところで人間に変身。


行き先は海。


ユイは今まで1度も海を見た事がなかったからだ。


ここ数日、雲ひとつない晴天が続いていたおかげで、寒さはあまり感じなかった。


「わあっ……! 波の音が聞こえる!」


ユイはぱっと笑顔になって駆け出した。


僕もその後を追う。


松林の小道を抜けた先に、開けた空と海が見えた。


誰もいない砂浜にたどり着いた2人の目の前に、青く、どこまでも広がる水平線。


雲ひとつない冬空の下、太陽の光が波しぶきに反射して、キラキラと輝いていた。


「うわ~!綺麗…海ってこんなに大きいんだね…」


「静かで最高だね。ほら…船も見えるよ」


「うん…でもなんか怖いわ。船…あの先まで行くと滝になって落っこちちゃうんでしょ」


「違うよ!地球は丸いんだ。僕たちが立ってる“地面”は、ずっと先まで続いてるんだけど、ほんとは少しずつ、まるくカーブしてるんだ」


「えっ?」


「だから、遠くにあるものは“下のほう”に隠れて、見えなくなるんだよ」


ユイは、しばらく黙っていた。


波の音が寄せては返し、風がピンクのリボンを揺らす。


「……地球って、まるいんだ……全然知らなかった」


「えっと…そう言う事はイケダさんには教わらなかったんだね?」


「うん、外で人間の姿だった時はイケダさんのお買い物の荷物持ち。家でも手伝いや他の猫の世話ばかりだったから…」


「…そうだったんだね…」


聞いてきた話を総合するとユイはイケダさんには大事にされている訳ではなかったらしい。

「ウチの方が遥かに居心地がいい」ってこの前言っていたし……。


「うん…私も“普通の女の子”になって、洋介君と同じ机で地球が丸いって事とか、星の名前とか…そう言うの、ちゃんと勉強したかったな…」


ユイは水平線を見つめながら悲しそうに呟いた。


「そんな風に思ってたんだね…。でも、これからユイにいっぱい色々な事教えてあげるからね」


「ありがとう!私、猫も人間もどっちも中途半端なんだ…もっと頑張るね」


「うん、そろそろ帰ろうか」


僕たちは波の音を背に歩き出す。


足跡がふたり分、寄り添うように砂浜に残っていく。


「世界にはもっと綺麗な場所があるから、大人になったらユイをいっぱい色々な所へ連れて行ってあげるからね」


「……大人になったら……」


「近くなら、いつでも大丈夫だよ」


「……春になったら……。一緒にお花見したいな……」


「うん、必ず行こう。朝早く起きてさ…とっておきの穴場スポットがあるんだ」


「………楽しみ………」


ユイはなぜか悲しそうにそう呟いた。



          年明け



ユイが猫の時に僕の膝の上に乗る様になった。


それでも僕は人間のユイの姿がダブってしまうので、撫でる事は絶対にしなかったけど…。


保護猫活動の人馴れ訓練に関しては、相変わらずユイのおかげで効率がいい。


僕も少し猫語を覚えてきたので尚更だ。


しかし、僕は受験生。今は人慣れ訓練をやっている時間はない。


夜、ユイは僕の部屋で人間になるのが日課だが、今は最後の追い込み中。


ユイも1人で平仮名の読み書きの猛練習だ。


ペンを握る細い指が、ゆっくりと丁寧に文字をなぞっていく。


「……『と』って合ってる?」


「うん、合ってる、完璧だね」


「…やった…」


「ねぇ……“ありがとう”って、ひらがなで書くとこう……よね?」


そう言って、ユイは紙に書いた。


ありがとう


「うん、ばっちりだよ」


「…今度、大事な時に書くんだ…」


「大事な時?誰に?」


「…いや…なんでもないよ…」


僕はそれを聞くと、なぜか嫌な予感を覚えてペンを止めた。


「ユイ、大丈夫?最近元気がない気がするんだけど…なんか全然動かないし…」


「そんな事ないよ…野良猫になった時は冬は寒くて死にそうだったけど…この家…暖房も人も本当に暖かいから、ぬくぬくしているだけだよ。気のせいよ」


「そうなのかな…身体で気になる事があったら遠慮なく言ってね。すぐに病院に連れて行くから」


「………うん………」


そう言い終わると、ユイは猫に姿を変えてよたよたとケージのある部屋へと帰っていった。


一応ご飯は食べれてはいる様だけど、絶対にどこかおかしい。


近いうちに無理矢理にでも病院に連れて行こう。



         * * *



次の日、学校から帰るとお母さんと一緒にユイを病院に連れて行く予定になっていた。


しかし、ユイはどこにもいない。


自室を探すと机の上にはピンクのリボンと平仮名だけの手紙が置いてあった。



        ようすけくんへ



いままで、ほんとうにありがとう。


わたしは、いま、ようすけくんとおなじ15さい。 


まだ、わかいとおもうでしょう。


でも、ねこは、もうじゅみょうなんだ。


じつはさいきん、すごくたいちょうがわるいの。


ごはんもたべるふりして、ほかのねこにあげたりしてたの。


ばれていたかな?


ねこはじぶんが、しぬところを、かぞくにみせたくないんだ。


きいたことあるよね?


だから、こうして、いなくなることをゆるして。


あと、わたしをさがさないでください。


ぜったいにみつけられないとおもうから。


たすけてくれてありがとう。


じをおしえてくれてありがとう。


なかまのねこたちを、たすけてくれてありがとう。


おとうさん、おかあさんにも、ありがとう、ってつたえてね。


さいごに、ひとことだけいわせてください。


ずっといえなかったこと。


ようすけくん だいすきだよ ♡


         ユイより



「なんだよ…これ?もうすぐ桜が咲くから、一緒に花見行くって言ったよな?」


そう言い終わると僕は声をあげて泣いてしまった。

 


         * * *



その夜、布団に入っても、中々眠れなかった。


最期、自分にだけにでも姿を見せてくれてもよかったのに…。


泣いてくれてもよかったのに。


ピンクのリボンを、胸元にぎゅっと抱きしめる。


その時、部屋の天井から桜の花びらが舞った気がした。


眠れない夜のはずなのに…徐々に瞼が重くなってゆく…。


満開の桜の森の中。


そこには白いワンピース姿のユイが立っていた。


「ユイ!!」


「洋介君!!」


僕は駆け寄り手を取り合った。


「ユイ!ここはどこ?周りには誰もいないし、どこを見ても桜ばかり」


「ここは夢の中よ。私には自分で作った夢の中に人を引き込む妖力を持っているの」


「ユイの夢の中、小学生の頃2回行ったよね…」


「…うん、私…約束…破ってないよ!」


「うん、今からお花見しよう。それより……手紙……読んだよ」


「……字……下手でごめんね」


ユイはそう言うと堪えきれず大粒の涙をポロポロこぼした。


「最後の…言葉…あれ反則だよ…号泣しちゃったよ」


そう言い終わると僕も泣いてしまった。


「……洋介君……」


「ユイ……僕も大好きだよ」


我慢できずユイを強く抱きしめた。  


夢の中かもしれないけど、しっかりとした感触がある。


ぬくもりを感じ、息遣いまではっきりと聞こえる。


「…ずっとこうしたかったんだ…」


「…私も…」


はらり、はらり、桜の花びらが舞い散る。


どのくらい時間が流れていたのだろう。


夢の中での時間は長い気もしたし、短い気もした。


「…洋介君…私の事こんなにも愛してくれていたんだね…全然知らなかった…」


「ごめん…ユイ…伝えるのがあまりにも遅すぎた」


「もう…十分だよ…洋介君。でも…私…もう行かなきゃ…」


「行っちゃダメだ!…もう絶対離さないから!行くなら僕も行く!」


「…洋介君…それは絶対にできないの…わかって…」


「…嫌だ…やっとこうして…」


「…………洋介君…………」


そう言うと抱きしめていたユイをそっと離した。


無理なのはわかっていた。


行き先は天国なのだから…。


「さよならではなく…ありがとう…洋介君…」


「…うん…こちらこそありがとう……」


「…最期にいい?…」


「うん…何?」


ユイは僕の額にそっと手を当てた。


「えっ?……なに?……」


「……おまじない……」


「なんの?」


「……ひみつ……」


「なんだろう?」


ユイはゆっくりと手を離すと桜の森の奥へと歩き出し、そして消えていった。


途中、何度も何度も振り返り、手を振りながら…。



         * * *



目が覚めるとなぜか泣いていていた。


でもその理由は全くわからなかった。


手にはピンクのリボンを握り締めていた。


……なんだろう、これは……?



         * * *



私は洋介君の額にそっと手を当てた。


「えっ?……なに?……」


「……おまじない……」


「なんの?」


「……ひみつ……」


「なんだろう?」


こんなにも私を愛してくれていたんだね…。


でも、大きくなっても、私の事をずっと好きで恋愛できなくなったら困るでしょ?


もう1つの、隠していた妖術を使うね。



……私の事……全部……忘れて……。



その手をそっと離すと私は桜の森の奥へと歩き出した。


途中、何度も振り返り、手を振りながら。


…さよなら…。


…ありがとう…。


…愛しているよ…♡

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