ねむり姫とシュレーディンガーの猫

ルシプァ🦄✨💫

ねむり姫とシュレーディンガーの猫

 昔々、天の川銀河のずっと外れ、事象の地平線がうっすらと輝く暗い森のそばに、鏡でできたお城が浮かんでいました。

 そこは「第9深宇宙観測ステーション」。

 お城には、エリナという名の博士ひめと、プランクという名の黒猫が二人きりで暮らしていました。


 プランクはただの猫ではありません。その金色の瞳は、あらゆる物理現象を精密にスキャンする、最高級の「生体量子観測機」でした。


 世界というものはとても脆く、誰も見ていないとすぐに確率の霧となって溶けてしまいます。だからプランクは、毎日お城の中をパトロールしては、壁のシミや空気の揺らぎをじっと凝視し、「そこに在る」と決めてあげるお仕事をしていました。


 ある日のことです。お城を揺らすほどの悪い風――時空震じくうしんが吹き荒れました。

 警報が鳴り響く中、エリナは緊急用の「ガラスの棺(ステイシス・ポッド)」へと逃げ込みました。しかし、悪い風はお城のシステムを破壊し、棺の中を「不確定の呪い」で満たしてしまったのです。


 それはそれは、恐ろしい呪いでした。


 棺の中では、「生きているエリナ」と「死んでしまったエリナ」が半分ずつ重なり合い、幽霊のようにぼやけて揺らめいています。

 誰かが棺のふたを開けて中を覗いた瞬間、サイコロが振られ、どちらか一つの運命だけが世界に固定されてしまうのです。


 それから、長い長い時が流れました。


 お城の周りには見えないいばら——重力の歪みが幾重にも巻き付き、時は止まったように静まり返りました。

 プランクだけが、その優れた機械の体で生き続けました。彼の役目は観測すること。主人が目覚めるその時まで、お城が宇宙の塵になって消えてしまわないよう、毎日毎日、廊下を歩き、壁を見つめ、世界を繋ぎ止め続けました。


 百年が経ち、ようやく遠い星の国から、何人もの王子様(救助ドローン)がやってきました。

 けれど、王子様たちは棺の前まで来ると、決まって首を横に振るのです。

「だめだ。計算上、生存確率は限りなくゼロに近い」

「観測した瞬間に、波動関数が『死』へと収束する。我々には、彼女を殺す権利はない」

 賢い王子様たちは、リスクを冒すことを恐れ、何もせずに帰ってしまいました。


 静寂が戻った部屋に、プランクはまた、一人取り残されました。

 彼のバッテリーも、もう限界でした。

 視界にはノイズが走り、美しい金色の瞳は曇り始めています。

(誰も助けてくれないのなら、吾輩がやるしかないニャ)


 プランクは、ゆっくりとガラスの棺の上に飛び乗りました。

 賢いAIたちが「開けるな」と言ったその箱。中には、生死の混ざり合った混沌とした霧が渦巻いています。

 プランクは、その霧をじっと見つめました。

 猫の瞳は、どんな暗闇でも見通します。彼は膨大な確率の奔流の中から、たった一つの「奇跡の糸」を探しました。心臓が動いている未来。細胞の一つ一つが呼吸している世界線。十億分の一の「生」の輝き。


 プランクは顔を近づけ、ガラス越しに、ぼやけたエリナの瞳を覗き込みました。

 それは、口づけをするような距離での、命がけの「観測」でした。


《対象ヲ固定。確率変動ヲ棄却。生存ルートヘ、強制収束 ロ ッ ク


 カッ、と世界が閃光に包まれました。


 曖昧だった霧が晴れ、重なり合っていた死の影が消え去ります。

 プランクの「意思」が、不確かな宇宙に物理法則として焼き付けられたのです。


 プシューッという音と共に、ガラスの棺が開きました。


 エリナがゆっくりと目を開けます。百年越しの目覚めでした。

「ん……。あら、プランク?」

 エリナは身を起こし、胸の上で丸くなっている黒猫に気づきました。

 しかし、プランクは動きません。全てのエネルギーを計算に使い果たし、彼はまるでぬいぐるみのようになっていました。体は冷たく、あの美しい金色の瞳も閉じたままです。


「……バカな子。また無理をしたのね」

 エリナは優しく微笑むと、動かないプランクをぎゅっと抱きしめました。

 すると、どうでしょう。

 エリナの体温と、頬を伝って落ちた涙の水分が、プランクの首元の緊急充電ポートに触れ、小さな火花が散りました。


 バチッ。

 ……ウィーン、と小さな駆動音が響きます。


「ニャー(おはよぉ〜、エリナ)」

 プランクはあくびをして、再び金色の瞳を開きました。

 エリナは涙を拭いて笑いました。

「おはよう、私の騎士ナイト様。さあ、ご飯にしましょうか」


 こうして、長い長い眠りから覚めた姫と一匹の猫は、いつまでも幸せに(あるいは次の救助船が来るまで、仲良く喧嘩しながら)暮らしましたとさ。


 めでたし、めでたし。

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